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第14章 莫連の牙と獅子の受難 【第一期 完】

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1942年9月5日 午後4時

シンガポール島南西部 フォート・カニング要塞地下坑道バトル・ボックス

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地下深くの防空壕に満ちる空気は、大英帝国の命運そのもののように重く、そして絶望的に枯渇していた。不気味なほど低い、しかし地響きのような重低音が、コンクリートの分厚い壁を絶え間なく震わせている。


「──ロンドン陥落の報は、本当なのか」


英連邦軍極東総司令官、アーサー・パーシバル中将は、血の気の失せた顔で通信参謀を詰め寄った。机の上に広げられたシンガポール島の防衛マップには、すでに北半分の防衛線が完全に瓦解し、青いインクで書き込まれた日本軍の進撃路が、心臓部へと向かって幾本もの無慈悲な楔のように突き刺さる様子が描かれていた。


「事実です、閣下……」

通信参謀は、幽霊でも見たかのような掠れた声で、手元の電文を震わせた。

「先月22日、ドイツ軍の装甲部隊がロンドンのザ・シティを完全占領。イングランド銀行は戦闘によって大爆破され、政府機能は停止……チャーチル首相は北方のスコットランド方面へ逃亡した模様です」


パーシバルは、目眩に襲われたように机の端を掴んだ。

ロンドンが落ちた──それは単なる軍事的な敗北ではなかった。自分たちが、国際法上の後ろ盾をもつ「正当な国家の軍隊」から、地球の裏側の孤島に取り残された、拠って立つ祖国なき「亡国の残党」へと転落したことを意味していた。


さらにパーシバルの胸を掻きむしったのは、公武合体政府に対して握っていたはずの、あの「最大の切り札」が完全に消滅したという冷酷な事実だった。


大英帝国が日本のインフラを強奪するために人質に取っていた、天文学的なポンド建て国債の「原本」と「抵当権の絶対証明」。それらが保管されていたイングランド銀行の地下金庫は、ドイツ軍の爆撃と火災によって文字通り灰燼に帰したと報告されていた。


大英帝国は、日本に対して主権を行使できる「債権者」としての国際的実体を失ったのだ。日本が豊秋津島に敷いた大鉄道網も、毛利鉱山が切り拓いた西秋津ピルバラの巨大鉄山も、島津家が掘り当てた南天カルグーリーの大金鉱床も、もはやイギリス側にはその所有権を国際社会に証明する手段が、ただの一枚の紙切れすら残されていない。


「一滴の原油も届かず、本国という債権者すら消滅した……。これでは、我々は何のために戦っているのだ……」


パーシバルが絶望に呻いたその瞬間、地下坑道を激しく揺るがす地鳴りが響き、天井からパラパラとコンクリートの粉塵が舞い散った。

それは、マレー半島を驚異的な速度で南下し、柔佛ジョホール海峡を渡ってきた豊栄大日本帝国の「双頭の鉄脚」が放つ、最後の終幕の音であった。


---


半島を駆け抜けた日本軍の進撃は、イギリス軍のあらゆる戦術予測を嘲笑うかのように獰猛で、そして合理的であった。


パーシバルが企図していたマレーの泥濘と密林を利用した遅滞戦闘は、外様財閥の私兵集団──「諸藩混成の遊撃旅団」の規格外の機動力によって、端から木端微塵に粉砕されていた。

島津財閥の一門たる島津忠久少将が率いる財閥遊撃隊は、南太平洋でアメリカ軍から強奪したキャタピラー社製の大型ブルドーザーをジャングルへ直卒。原生林を強引に圧殺して即席の道路を切り拓くと、そこへ熱帯の泥濘を物ともしない「細川ゴム工業」の特殊ゴムタイヤを履いた「前田発動機」の大型トラック群を縦横無尽に突入させた。


密林の裏側から、時速数十キロメートルで奇襲突撃を仕掛けてくる自動車化歩兵の群れ。彼らが手にする佐賀鍋島精密機械製・三八式機関短銃から放たれる圧倒的な面火力の前に、英軍の防衛陣地は悲鳴をあげる暇もなくすり潰されていった。


そして、その外様遊撃隊が退路を遮断し、退却を余儀なくされた英軍の正面に立ちはだかったのが、幕府直轄の正規国軍「伝習隊でんしゅうたい」の圧倒的な鉄量であった。


御三家・水戸徳川家の伝統を引く「水戸徳川造兵工機」製の150ミリ重加農砲が、ジョホール海峡の北岸に整然と並び、一斉に火を吹いた。シンガポール要塞の誇る大口径の巨砲はすべて海(南面)を向いており、陸(北面)から迫る敵に対しては無力な鉄の塊にすぎなかった。


頭上から降り注ぐ鋼鉄の雨が英軍のコンクリート陣地を土砂もろとも吹き飛ばす中、硝煙の幕を割って姿を現したのは、越前松平重工業製・三五式中戦車改の群れであった。分厚い国産防盾に敵の対戦車砲弾を火花とともに弾き返し、分家名門の「井伊銃器」が造り上げた制式小銃を構えた伝習隊の精鋭たちが、冷徹な隊列を崩さずジョホール海峡を一気に渡河した。


渡河作戦を完璧に支えたのは、築城の伝統技術を機械化した「藤堂製作所」の特殊舟艇と架橋機材であった。幕府の堅牢な鉄と、外様の暴力的な速度。この双頭の牙が完全に噛み合ったとき、大英帝国がアジアに築いた最大の牙城は、わずか3週間足らずで完全に包囲され、その息の根を止められようとしていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1942年9月5日 午後6時

シンガポール島中央部 ブキ・テマ高地・フォード自動車工場跡

日米英休戦折衝会場

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工場の荒涼とした会議室には、油と錆、そして焼け焦げた硝煙の匂いが立ち込めていた。

コンクリートの床に置かれた粗末な長テーブルを挟んで、二人の将軍が対峙していた。


マレー攻略軍総司令官、山下奉文少将。その巨躯をカーキ色の軍服に包み、一歩も引かぬ威圧感を放つその姿は、まさに獲物を仕留めた猛虎そのものであった。山下の傍らには、冷徹な笑みを浮かべた作戦参謀の辻政信中佐、そして財閥遊撃隊を率いた島津忠久少将が平然と腕を組んで居並んでいる。


対する英軍総司令官、アーサー・パーシバル中将は、仕立ての破れた軍服の袖を震わせ、疲れ果てた目で山下を見つめていた。


「山下将軍……我が軍は、これ以上の無益な流血を避けるため、貴軍との休戦交渉を望む。条件は、我が将兵の安全保障、および──」


「パーシバル中将」


山下の低く重い声が、工場の錆びた鉄骨に反響した。山下はパーシバルの言葉を冷酷に遮り、懐から一通の書類を机の上へと滑らせた。それは、公武合体政府が用意した「完全無条件降伏」の調印書であった。


「条件などという言葉は、帳簿の片方に黒字が残っている者が使うものだ。今の貴殿の帳簿には、何が残っている?」


山下は鋭い眼光で、パーシバルを射抜いた。

「南太平洋は封鎖され、蘭印の石油は我が帝国の合法的資産となった。さらに、貴殿らの後ろ盾たるロンドンのシティは、我が盟約国によって物理的に解体された。貴殿らが我が国を縛るために人質に取っていた、豊秋津島の鉄道や鉱山の債権原本も──すべて消滅した」


「な……なぜ、そのことを……! 貴官らが知るはずが……」


パーシバルは血の気を失い、言葉を詰まらせた。ロンドン陥落とイングランド銀行の消滅は、大英帝国の中枢のみが握る極秘情報のはずであった。目の前の東洋の将軍が、その「真実」をすでに完全に把握していることに、底知れぬ恐怖を感じた。


「貴殿らはもう、国家の軍隊ではない。取り立てるべき債権も、帰るべき本国も失った、ただの哀れな武装集団だ」


山下の言葉は、大英帝国の誇りを根底からへし折る、冷酷な宣告であった。


パーシバルは息を呑んだ。目の前の東洋の将軍が、ロンドンで起きたイングランド銀行の「真実」を、すでに完全に把握していることに、底知れぬ恐怖を感じた。


「貴殿らはもう、国家の軍隊ではない。取り立てるべき債権も、帰るべき本国も失った、ただの武装浮浪集団だ」


山下の隣で、島津忠久少将がニヤリと不敵に笑い、銀張りのシガレットケースから煙草を一本抜き出した。


「そういうことだ、パーシバル中将。我々外様財閥は、これ以上の無駄金(弾薬)を貴殿らに使うつもりはない。貴殿らがここで意地を張り、我々の『資産』となるはずの港湾設備や弾薬庫を傷つけるというのなら、我々も最後まで武力という名の請求書を突きつけるまでだ。そろそろソロバンの数字を合わせてもらおうか」


島津がマッチを擦る音が、静まり返った会議室に異様に大きく響く。 山下奉文が、机の上の調印書を太い指でドン、ドンと二度叩いた。


「──イエスか、ノーか。我々が求めているのは、貴殿らの『無条件の消滅』への署名だけだ。これ以上の交渉はない」


パーシバルは、絞り出すような声で抗弁しようと唇を震わせたが、喉から出たのはかすれた空気の音だけだった。彼の心は、完全にへし折られていた。視認できるほどに細かく震える彼の手が、机の上の万年筆へとゆっくりと伸びていく。


もしここで拒絶すれば、明日にでも水戸徳川の重砲と、佐賀鍋島精密機械製・三八式機関短銃を持った獰猛な遊撃隊が、生き残った数万の将兵を文字通り肉片へとすり潰すだろう。大英帝国の栄華は終わり、彼らを救う船は世界のどこにも存在しない。


数分におよぶ、死のような沈黙の後。

パーシバル中将は力なく万年筆を握り、豊栄大日本帝国が提示した降伏文書の末尾に、自らの名前を深く、絶望とともに刻み込んだ。


その瞬間、大英帝国が150年をかけて極東に築き上げてきた最大の軍事要塞シンガポールは、名実ともに崩壊した。


150年にわたる不平等条約と金融の鎖、そして武力による威嚇の歴史。そのすべてが、ロンドンの灰燼とシンガポールの受難という二つの決定的な「決算」によって、完全にこの世界から消滅したのである。


武力と法理、そして徹底された実利の帳簿によって世界を塗り替える豊栄大日本帝国。その双頭の鉄脚は、ついにアジア・太平洋における米英列強の牙城を完璧に蹂躙し、全盛期の頂点へと登り詰めた。


だが、大英帝国の完全なる解体という地殻変動は、次なる巨大な歪み──ユーラシアを制覇したナチス・ドイツという飢えた狂狼、そして沈黙を続ける世界の覇者・米国との三つ巴による新たな大戦へのカウントダウンを、始動させていくのであった。


第一部 完

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