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第13章 灰燼のシティと借用書の回収

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1942年8月15日 午前4時30分

フランス北部 パ=ド=カレー・アシカ作戦西方総軍前方司令部

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地平線がかすかに白み始めた英仏海峡の夜空を、引き裂くような重低音が埋め尽くしていた。


西方総軍司令官、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は、コンクリート製の強固な監視壕の窓辺に立ち、目の前の海原を双眼鏡でじっと見つめていた。その峻厳な横顔を、背後のフランス内陸部から飛来する数千機のルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の爆撃機編隊が放つ、青白い排気炎が間断なく照らし出していく。


「長かった冬の海は凪ぎ、東部からの兵力移動もようやく完了した」

ルントシュテットは双眼鏡を下ろし、冷徹な目で参謀長を振り返った。


海峡の波濤を蹴立てて進むのは、大型の輸送船から徴用された平底の上陸舟艇、そして重武装の掃海艇にいたるまで、海を埋め尽くすドナウ川の筏のごとき大船団──総統アドルフ・ヒトラーが命じた大英帝国本土上陸作戦、通称「アシカ作戦」の第1陣であった。


「──ドーバー沿岸の英軍砲台は、第3航空艦隊の猛爆によってほぼ沈黙いたしました。海峡内における敵駆逐艦の反撃も確認されていません」


ルントシュテットの背後で、参謀長のギュンター・ブルーメントリット少将が、興奮を抑えきれない様子で電文を読み上げた。その傍らでは、第3航空艦隊を率いる巨漢のフゴー・シュペルレ元帥が、満足げに葉巻の煙を燻らせている。


「信じられんほどにもぬけの殻だな」

シュペルレ元帥が傲慢な笑みを浮かべ、海峡の先にある見えない英国本土を指さした。

「かつて我が空軍が苦戦したスピットファイアの群れも、今や燃料と部品が尽きて満足に飛ぶこともできん。ロンドンは我が方の夜間爆撃によって連日火の海だ。かつて世界を支配した海洋帝国が、これほど脆く崩れ去るとはな」


ルントシュテットは双眼鏡を下ろし、冷徹な目で参謀長を振り返った。

「驕るな、シュペルレ。この勝利の半分は、我が国防軍の力によるものではない。極東の『同盟者』が、チャーチルの首を完璧に絞め上げてくれたおかげだ」


その言葉に、作戦室の将校たちが一瞬、奇妙な沈黙に包まれた。


この1942年8月という大勝負の舞台が整った背景には、二つの決定的な地政学的要因が存在していた。

一つは、前年11月にドイツ国防軍がソ連の首都モスクワを完全占領し、東部戦線の決着を事実上引き起こしたことだ。背後の憂いを完全に絶たれたことで、数百万の精鋭将兵と空軍の全質量を、この英仏海峡へと丸ごと反転させることが可能となった。


そしてもう一つ、より決定的な要因は、地球の裏側にある異形の連衡国家──豊栄大日本帝国が仕掛けた、完璧なる海上執行であった。


かつて破産寸前だったイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、日本のインフラを合法的に強奪し、自らの負債を帳消しにするという大賭博に出た。その威嚇のために、本来ならこのドーバー海峡の防衛に充てるべきだった最新鋭空母や巡洋戦艦、そして無数の駆逐艦からなる「本国艦隊の過半数」を、あらかじめ極東へと回航させていたのである。


しかし、その傲慢な兵力分散こそが、東京とベルリンが仕掛けた巨大な罠の餌食となった。極東へ送り込まれたイギリス東洋艦隊は、開戦初頭、ジャワ海にて日本海軍の「流星」や「九九艦爆」が放った濃密な魚雷と爆弾の嵐によって、一網打尽に海の底へと蒸発させられた。


「チャーチルは、自らの家を空き巣にしてまで極東の日本の財産を奪おうとし、結果としてその両方を失った。イギリス海軍が誇る不沈の盾は、すでにアジアの海で粉砕されている。だからこそ、我々はこうして一隻の戦艦に邪魔されることもなく、海峡を渡ることができるのだ」


ルントシュテット元帥の冷徹な分析に、参謀長のブルーメントリット少将が深く頷いた。

「東京の連衡国家との『東西挟撃の密約』は、現時点で完璧に機能しております。彼らが数日前からマレー半島へ向けて、あの野蛮とも言える双頭の陸軍部隊を突入させたとの報が入りました。シンガポールは完全に孤立し、英軍のパーシバル中将は悲鳴をあげているとのことです。日本が極東でイギリスの残党を完全に引き付けてくれているからこそ、我が方の背後はこれ以上なく安全です」


「フン、東洋の黄色いサルどもも、少しは役に立つということか」

空軍のシュペルレ元帥が鼻で笑った。ベルリンの総統官邸をはじめとするナチス高官たちの認識は、概ねこのシュペルレの傲慢さと大差なかった。彼らは、日本がマレーのジャングルで血みどろの武力強奪を繰り広げ、蘭印(オランダ領東インド)の石油を力づくで強奪するための純軍事的な侵攻作戦に没頭していると、未だに信じ込んでいた。


麹町のドイツ大使館にいるハインリヒ・シュターマー大使から送られてくる報告も、「日本軍は蘭印侵攻に向けて大規模な軍事動員を継続中」という、日本のカモフラージュ通りの内容ばかりであった。


ベルリンの狂人たちは、夢にも思っていなかった。

日本がすでに、彼らの暗号防諜網を完全にすり抜ける二重暗号「紫式部」を用い、ロンドンのオランダ亡命政府との間で、蘭印全域の「合法的売買」を帳簿の上ですべて完了させているなどとは。そして、ドイツ軍がロンドンを占領した後にアジアへ進出してくるであろう「十年先の裏切り」を見越し、将来のオランダ主権回復支援という名の巨大な国際法上の楔を、自らの足元に打ち込まれているなどとは、誰一人として気づいていなかった。


「総統は、戦後に世界を再分配する際、あのアジアの帝国には『名誉あるアーリア人』の称号と、いくつかの島々を与えてやれば十分だと仰せだ」

シュペルレが満足げに笑う。


その傲慢な会話を聞きながら、ルントシュテット元帥だけは、どこか割り切れぬ不気味さを胸の奥に感じていた。東京のあの男たちは、本当にナチスの引き立て役に甘んじるような玉なのだろうか。武力と法理を不気味に融合させ、戦う前にパースを干上がらせ、南太平洋を窒息させたあの超大国の「脳」が、ただのジャングルの戦闘で満足するとは到底思えなかった。


だが、今のルントシュテットにとって、目の前の現実以上の真実はなかった。


「──時刻だ。全軍、突入せよ」


ルントシュテットの手が静かに振り下ろされた。

その瞬間、パ=ド=カレーの海岸線に据え付けられた数百門のドイツ軍巨砲が一斉に火を吹き、夜明けの海峡を真紅に染め上げた。数千隻の上陸舟艇が、咆哮をあげながらドーバーの白い崖へと突進していく。


遙か彼方、爆撃によって赤黒く燃え上がるロンドンの空が見えるようだった。

そこには、大英帝国が150年かけて築き上げてきた世界金融の牙城──ロンドンの「シティ」がある。そしてそこには、豊栄大日本帝国を経済の鎖で縛り続けていた、天文学的なポンド建て国債の借用書が眠っている。


密約通り、ドイツの圧倒的な物理暴力が、その帳簿を文字通り灰燼に帰す瞬間が、ついに訪れたのだ。


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1942年8月22日 午後2時

大不列顛グレートブリテン島南部 ロンドン市中央区ザ・シティ

イングランド銀行周辺

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世界金融の心臓、あるいは大英帝国の富の象徴と呼ばれた「ザ・シティ」は、今や黒煙と赤蓮の炎に包まれる巨大な火葬場と化していた。


連日連夜に及ぶルフトヴァッフェの猛爆と、テムズ川を渡ってきたドイツ第9軍の重砲火により、歴史ある石造りの銀行街は無残に粉砕され、路上には粉塵と焦げた紙片が雪のように降り積もっている。その瓦礫の山を、ハインリヒ・フォン・フィースティングホフ大将率いる装甲部隊の「三号戦車」が、無限軌道の金属音を響かせながら踏み潰していった。


シティの最中心部に聳えるイングランド銀行。その分厚い正面玄関の鉄扉を、爆薬によって派手に吹き飛ばしたのは、先遣隊を率いるハンス・フォン・ルック少佐であった。


「──各員、突入せよ。抵抗する者は容赦なく排除しろ」


ルック少佐は短機関銃を構え、煤煙が立ち込める大理石のロビーへと足を踏み入れた。すでにウィンストン・チャーチル首相や王室は北部のスコットランドへと逃れており、この「老いたる不沈城」に残されていたのは、銃を手にしたわずかな郷土防衛義勇軍の老兵と、自らの職務を放棄しなかった数人の行員だけであった。


短い銃撃戦ののち、ルック少佐らは建物の最深部、地下数十メートルに掘られた巨大な主金庫へと到達した。そこには、世界中から集められた金塊の棚と、もう一つ、大英帝国がその覇権をもって世界を縛り付けてきた天文学的な債権帳簿の原本が眠る大保管庫が存在していた。


その重厚な防盗扉の前には、一人の老行員、アーサー・ペンハルトンが頭から血を流しながらも、鍵を握りしめたまま冷たい床に座り込んでいた。


「無駄な抵抗はやめろ、英国人。この建物はすでに我が国防軍の管理下にある」

師団付の政治将校、フランツ・バウアー大尉が冷酷に言い放ち、ペンハルトンの手から強引に金庫の鍵を毟り取った。


バウアー大尉が素早く鍵穴を回し、重い鉄扉を開け放つ。だが、彼らが真っ先に手を付けたのは、ドイツの戦費を穴埋めするための金塊の山ではなかった。バウアー大尉は棚の奥から、一際厳重に封印された革製の極秘ファイルを引き出すと、部屋の入り口に向けて声をかけた。


「──おい、東洋人。総統がお前たちに恵んでくださる『戦利品』だ。有り難く受け取るがいい」


吐き捨てるような言葉とともに、床へとガサツに投げ出されたのは、一際厳重に封印された革製の極秘ファイルだった。

ファイルを大理石の床へ無造作に放り投げたのは、第9軍師団付の政治将校、フランツ・バウアー大尉であった。胸元にナチスの党員バッジを光らせたこの若き大尉の顔には、この場に立ち会うことへの剥き出しの退屈さと、隠そうともしない人種的傲慢さが刻まれていた。


バウアー大尉にとって、この任務はベルリンの上層部から回ってきた「最も価値のない雑務」だった。

彼の本職は、イングランド銀行が誇る天文学的な金塊や有価証券を第三帝国の帳簿へと組み替える、国家的な略奪の指揮である。その引き揚げのついでに、極東で大英帝国の執行艦隊を間引いてくれた「東洋の鉄砲玉サル」への報酬として、指定された書類を処分してやる──その程度の認識しかなかった。だからこそ、ベルリンは本物の外交特使や将軍をロンドンへ派遣することすら拒み、前線の戦利品係である一介の大尉に、この国家間契約の履行を丸投げしたのだ。


そのファイルを、泥まみれの白手袋で静かに拾い上げたのは、幕府特務臨時調役の鳥居忠道であった。

ドイツ軍の野戦服を借り受けながらも、背筋を微動だにさせず端座する鳥居の佇まいは、バウアー大尉の目には「主人の施しを待つ従僕」のように映っていた。


しかし、この鳥居のロンドン潜入は、決して単なる個人の武勇によるものではない。彼の背後には、小栗忠純外務副卿が率いる「外務防諜局」の緻密な工作と、黒田精機・竹中数理演算所が構築した二重暗号『紫式部』の絶対的なネットワークが存在していた。大西洋の底に潜む伊号潜水艦から発せられる微弱な暗号電波を、地球の裏側たる江戸城の地下でリアルタイムに解析し、そのすべてが防諜局の冷徹な計算によって支援された「国家の刃」の到達点であったのだ。


かつて150年間、日本を経済の鎖で縛り、その国力をシティの吸血システムへと供給させてきた「不平等条約の結晶」が、まさにそこにあった。日本が豊秋津島(豪州)の内陸部に敷いた数千キロに及ぶ大鉄道網。毛利鉱山が切り拓いた西秋津ピルバラの巨大鉄山。島津家が莫大な血と汗を流して掘り当てた南天カルグーリーの大金鉱床──。借金の型として大英帝国が合法的に接収・強奪しようと狙っていた、帝国の生命線たる南半球の巨大インフラ。そのすべての命殺与奪を握る「借用書の原本」と「抵当権の絶対証明」が、今、鳥居の目の前にあった。


「……間違いありません。これらすべてが、我が豊栄大日本帝国を縛り続けてきた債務の根源です」


鳥居が静かに確認を終えると、バウアー大尉はフンと鼻を鳴らし、傍らの兵士にガソリンの缶を顎で示させた。

「結構。では、総統の命令通り、その忌々しいアジアの借用書に火をつけろ。ここで焼き払えばすべては終わりだ。これでお前たちの国は、イギリスの奴隷から、我が総統の秩序を支える忠実な番犬へと生まれ変わるわけだ」


「お待ちください、バウアー大尉」

鳥居がそれを手で制した。バウアー大尉がいぶかしげに細い眉をひそめる。


「燃やす? 滅相もない。これを燃やすのは、法理の観点から言えば下策の極みです。この原本は、私がこのまま日本へと持ち帰らせていただきます」


「何だと?」

バウアー大尉が、不愉快そうに声を荒らげた。

「ここで焼き払えば済む話だろう。なぜわざわざ持ち帰る。東洋のサルは相変わらず細かい屁理屈をこねるな」


床に倒れていたペンハルトン老行員が、絶望に顔を血に染めながらも、驚愕の目を見開いて鳥居を睨みつけた。

「……正気か、日本人……! 借用書を燃やさず、自ら占有するつもりか……近代法において、それは……!」


「その通り。近代法において、債務者が借用書の原本を『回収・占有』することこそが、債務が消滅したことの最も完璧な法的証明となる」

鳥居は冷徹な笑みを浮かえ、懐から防湿・防爆処理が施された特製の鉛製気密ケースを取り出した。


「もしこれをここで燃やしてしまえば、将来、スコットランドやカナダに逃げ延びた貴国の亡命政府が『原本は火災で失われたが、債権は厳然として存在する』と主張し、アメリカの法力を背景に二次的な法廷闘争を仕掛けてくる余地を残します。ですが、この世界に唯一の『原本』を、我が公武合体政府が物理的に回収し、帝国の金庫の奥深くに隠匿してしまえばどうなるか?」


鳥居は一枚一枚、丁寧に証書をケースへと収めていく。

「貴国は二度と、国際法廷において我が国のインフラや鉱山に対する抵当権を『証明』することができなくなる。証拠能力そのものを、我が国が永久に人質に取る。国家としての執行力を失いつつある貴国と、原本を債務者自身に強奪されたシティ──この二つが掛け合わされた瞬間、我が国の天文学的な債務は、世界の法理から永久に消滅するのです」


バウアー大尉は下くだらなそうに肩をすくめ、大笑いした。

「ハッ! 馬鹿馬鹿しい! お前たちアジア人は、未だにそんな紙の上のルールを信じているのか。この世を動かすのは我が国防軍の圧倒的な質量だ。イギリスが滅びればそんな紙切れに何の意味もない」


人種至上主義に目を曇らせた政治将校の浅薄な頭脳では、日本の「完璧な帳簿の防壁」の恐ろしさを理解することは逆立ちしても不可能だった。バウアー大尉は、鳥居の冷徹な法理計算を「未開な民族の姑息な屁理屈」と断じ、完全に一蹴していた。


だが、そのバウアー大尉の背後で、先遣隊を率いるハンス・フォン・ルック少佐だけは、全く異なる眼差しで鳥居を見つめていた。


前線で泥を啜り、幾度もの死線をくぐり抜けてきたルック少佐は、武人としての本能で察していた。目の前の東洋人は、決してバウアーが侮るような「哀れな従僕」などではない。潜水艦の狭い魚雷発射管の隙間に身を潜め、地球を半周してまでこのロンドンの地獄へ潜り込んできた、底知れぬ執念と覚悟を持った「国家の刃」であると。


「──見事なものだな、鳥居殿」


ルック少佐が、バウアー大尉の嘲笑を遮るように、一歩前へ出て声をかけた。その声には、剥き出しの敬意が込められていた。


「我々国防軍が戦車と重砲でイギリスという国家を解体している間に、貴殿らは、その明晰な頭脳と執念で、大英帝国のシステムを完全に切断してみせたわけだ。地球を半周してきたその執念には敬服せざるを得ん」


「少佐、何をサル相手に感心しているのですか」

バウアー大尉が不快そうに口を挟んだが、ルック少佐はそれを冷ややかにいなした。

「大尉、彼らは約束通り英東洋艦隊を消滅させ、我々の背後を完璧に守り切った。そして今、自らの手で勝利の果実を回収した。武人として、その確実な仕事ぶりには敬意を払うべきだ」


ルック少佐はそう言うと、鳥居へと視線を戻し、少しだけ声音を落とした。

「なるほど、東洋の算盤というのは恐ろしいな。だが、原本が消えたことを世界にどう証明する? ベルリンへの公式報告書には『総統の命令通り、借用書は現地で焼却した』と書かねばならんのだがね」


「それは、そこにいらっしゃるバウアー大尉の得意分野でしょう」


鳥居が静かに視線を送ると、バウアー大尉は人種的優越感と自らの権限を誇示するように、ニヤリと傲慢に笑った。


「フン、お安い御用だ」

バウアー大尉は自慢げに肩をすくめ、手元の点火信管を叩いた。

「お前たちがその紙切れを宝物のように持ち帰ろうが知ったことか。この地下室にある他の雑多な書類や台帳、そしてイングランド銀行そのものを、我が国防軍が『戦闘による不可抗力の火災』として跡形もなく爆破・焼却処分にしてみせよう。世間的には、すべての債権はロンドンの地獄の業火で灰燼に帰した、ということになる。俺の報告書一枚でな」


バウアー大尉の言葉に、ルック少佐は深く頷いた。そして鳥居の前に立つと、踵を合わせて端正な軍隊礼を捧げた。


「よし、ならば約束しよう、鳥居殿。ベルリンへは、貴殿の望み通り『借用書はすべてその場で完全に焼却した』と公式に報告することを約束する。我が国防軍の武人の名誉にかけて、貴殿らが原本を無傷で持ち帰った事実は、この地下室に埋めるとしよう。その借用書は本国へ持ち帰られるといい」


「感謝いたします。これにて対英挟撃の契約は完全履行、約定成立とみなします」

鳥居はケースの厳重なダイヤルロックを締めると、それを大事そうに両腕で抱え、深く一礼した。


ナチスの政治将校が勝利の美酒と人種的な優越感に酔いしれている間に、東洋の怪物たちは一歩も動かず、ただ自国の帳簿の辻褄を完璧に合わせ終えた。さらに、ドイツがロンドンを落とすまさにこの瞬間の裏で、オランダ亡命政府との間で蘭印全域の「合法的買収」をすでに完了させ、将来の対独戦への巨大な楔をドイツの足元に打ち込んでいることなど、ルック少佐ですら、まだ気づく由もなかった。


原本を抱えた鳥居は、不気味に燃え上がるロンドンの街を抜け、フランスのブレスト港で待つ伊号潜水艦のハッチへと滑り込んでいく。そのケースに収められた原本は、やがて絶対の国家最重要機密として、江戸城地下の秘密宝物庫へと秘匿されることになる。


数時間後、イングランド銀行の地下から凄まじい爆発音が響き渡り、吹き出した烈火がシティの夜空を赤く染め上げていった。

150年間にわたり日本を縛り、豊秋津島を人質に取っていた金融の鉄鎖は、拠って立つ力を喪失し、世界の表舞台から完全に姿を消した。


債務の完全なる滅却を告げる特殊二重暗号「紫式部」の電波が、ロンドンの黒煙を突き抜けて大気へと放たれたその瞬間、150年の因縁に完全なる終止符が打たれた。帝国の双頭の鉄脚を遮るものは、もはや法理の上でも物理の上でも、何一つとして存在しなかった。

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