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第11章 先行の帳簿と狂狼への鎖

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1942年4月25日 午前10時

帝都・東京 江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場

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評議場の高い天井を支える漆黒の柱が、窓から差し込む春の柔らかな光を吸い込んでいた。だが、室内に満ちる空気は、外の陽気とは裏腹に徹頭徹尾ひんやりと張り詰めている。


正面の巨大な壁面地図には、アジア・太平洋の制海権を完全に握り潰した帝国の「青」と、モスクワを叩き潰した勢いのまま西ヨーロッパへと殺到するナチス・ドイツの「黒」が、まるでユーラシア大陸を東西から挟み込む巨大な刃のように描かれていた。


その歪な均衡を凝視していた青年将校、永井信強大尉は、手にしたオランダ割譲条約の写しを握りしめたまま、ついに沈黙を破った。


「──失礼ながら、水野閣下。私にはどうしても、この一点が腑に落ちませぬ」


永井の声が、防音の施された広い室内に明瞭に響く。雛壇の上座に座る幕府最高財務査定官、水野忠徳が、老練な眼光を遮る眼鏡の縁を人差し指で静かに押し上げた。その隣では、外務副卿の小栗忠純が細い葉巻に火をつけ、冷ややかな視線を永井へと向けている。


永井は生唾を飲み込み、地図の欧州全域を指し示した。


「我が国はベルリンとの間で、極東のイギリス艦隊を潰す代わりにロンドンを物理的に焼き払ってもらうという、東西挟撃の密約を交わしました。現在、ドイツ国防軍は英仏海峡へ数百万の将兵を反転させ、アシカ作戦の準備を完了しつつあります。この期に及んで、ロンドンにいるオランダ亡命政府に巨額の金を払い、さらに『将来の本国解放の際の軍事支援』まで約束することは、ヒトラー総統への決定的な裏切り、不必要な不実となるのではありませんか」


一歩間違えれば不敬とも取れる永井の青臭い直言に、評議場の一角がざわついた。

だが、最高財務査定官の水野は、怒るどころか、その深く刻まれた老い皴を愉しげに歪めてみせた。


「裏切り? 冗談を言っては困るな、永井大尉」


水野は低く、しかし驚くほど通る声で笑った。


「これは裏切りなどという情緒的なものではない。ベルリンの誇大妄想狂がロンドンを火の海に変え、我々を縛るすべての借用書を灰燼に帰す──そのまさに一瞬を狙い澄ました、完璧な『先手』だ。我々はただ、あやつらが家に火を放つ直前に、燃え落ちる居間から一番高価な絵画を、正当な法理に則って買い取っただけにすぎんよ」


水野の指が、マホガニーの机の上に置かれた条約書をコツコツと叩く。


「いいか。前年11月に首都モスクワを完全占領し、ソ連赤軍の防衛網を瓦解させたドイツ軍は、今や背後の憂いを完全に絶っている。東部戦線から引き揚げられた圧倒的な軍事質量とルフトヴァッフェの主力は、今まさに、もぬけの殻となった英仏海峡へ殺到しようとしている。チャーチルが豊秋津島の強奪と我が国への威嚇のために、本国艦隊の過半数を極東へ回航させた代償が、これだ。あの執行艦隊を我が海軍の『流星』が一網打尽に蒸発させた瞬間、イギリス本土を守る物理的な盾は消滅したのだからな」


「それは重々承知しております。だからこそ……」


なおも食い下がろうとする永井を、今度は小栗忠純が遮った。小栗は紫煙を細く吐き出し、冷徹な口調で言葉を継ぐ。


「永井大尉、お前はベルリンがこのオランダとの密約を察知し、東西の連衡にヒビが入ることを恐れているのだろう。だが、我が外務省の防諜網を侮ってもらっては困る」


小栗は机の上の別のファイルを永井へと滑らせた。


「フォースト特使との折衝、およびロンドンのウィルヘルミナ女王との通信には、柳生通信官らが設計した新型の二重暗号コード『紫式部』が使用されている。エニグマの発展型を自負するドイツの暗号解読班とて、これの傍受すら不可能だ。現に、麹町のドイツ大使館にいるシュターマー大使は、我が国がいま蘭印を武力で血祭りに上げるための『侵攻作戦』を練っていると完全に信じ込んでいる。彼は昨日も、我が国の進軍を祝って高級ウォッカを届けてくれたばかりだ。あやつらの浅薄な耳に、この美しき売買の算盤の音が届くことは万に一つもない」


永井は滑ってきたファイルを開き、そこに記された防諜報告の緻密さに息を呑んだ。


「よく考えろ、大尉」


水野が再び口を開き、その声に冷徹な凄みが加わった。


「もし我が国がこの交渉をせず、ドイツ軍がロンドンを完全に占領してしまった場合、何が起きる? ロンドンにいるオランダ亡命政府は消滅するか捕虜となり、彼らが名目上維持していた蘭印の原油利権は、戦時国際法上『ドイツ軍が獲得した戦利品』としてベルリンの帳簿に記載される。その後に我が国が蘭印に手を付ければ、それは密約の同盟者たるドイツの資産を横取りすることになり、戦後の日独間における決定的な武力衝突の火種となる。あやつらは人種至上主義という誇大妄想に憑りつかれた狂人だ。欧州を制覇した勢いのまま、石油を求めて必ずユーラシアを東進してくる」


水野の目が、地図の上の「黒い駒」を射抜くように細められた。


「だからこそ、ロンドンが生きているうちに、オランダが国際法上の主権を保持している瞬間に、金準備をもってその全権益を我が国へ合法的永久割譲させておく必要があった。条約が発効した以上、多良加やスマトラの油田は、ドイツがロンドンを落とす前に『日本の正当な領土』へと書き換わっている。ドイツ軍がどれほど欧州で勝利しようとも、蘭印に対して手を出すことは、日本への直接的な侵略行為──すなわち国際法違反となる。武力と法理を使いこなす我が国は、ドイツという飢えた狼の首に、あらかじめ強固な鎖を填めたのだ」


永井の背中に、冷たい戦慄が走った。

この国を動かす「脳」たちは、今戦っている米英だけでなく、共に米英を挟撃しているはずのドイツの「十年先の裏切り」までを完全に計算に入れ、その牙をあらかじめ抜いていたのだ。


条約に盛り込まれた「将来のオランダ本国解放の際の軍事・財政支援」という一文の意味が、ようやく永井の頭脳の中で一本の線に繋がった。

数年後、あるいは十年後、アメリカのインフラ物資を吸い上げて要塞化した日本の南方生存圏が完成し、一方でドイツが欧州の占領統治で行き詰まりを見せたとき、日本はこの条項を大義名分としていつでも発動できる。「正当な国際条約に基づき、オランダの主権を回復させる」というこれ以上ない旗印を掲げて欧州の戦後秩序に直接介入し、ドイツを背後から揺さぶることができるのだ。


「欧州の連中がイデオロギーという幻影のために互いの血を流し、国家の基礎を消耗させている間に、我々は冷徹にソロバンを弾き、世界の真の富を無傷のまま帳簿へ収めていく。これこそが、我が豊栄大日本帝国の戦い方よ」


水野はゆっくりと席を立ち、評議場の大きな窓へと歩み寄った。そこからは、春の柔らかな陽光を浴びて整然と広がる、帝都・東京の美しい街並みが一望できた。


内政の醜い利権争いや財閥の思惑を抱えながらも、一歩外へ出ればこれ以上ないほど精密に噛み合う公武合体政府の脳と牙。彼らの仕掛けたハイブリッド戦略は、欧州の狂気すらも自らの帳簿の足しにしながら、完璧なる全盛期を構築しつつあった。


「さて──」


水野は窓ガラスに映る己の顔を見つめながら、静かに呟いた。


「欧州の狼への首輪は填めた。蘭印の原油という新たな血液も手に入った。これで、後顧の憂いはすべて断たれたな」


その言葉は、評議場にいる全員の意志を一つに束ねた。

パースは落ち、南太平洋は窒息し、蘭印は帳簿の上で割譲された。アジア・太平洋における米英列強の牙城は、残すところ、マレー半島の先端に聳える東洋最大の軍事要塞──シンガポールただ一つとなっていた。


誰もがその名を頭に浮かべた瞬間、評議場の空気は次なる決戦へと向けて引き締まっていった。

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