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第10章 無傷の不沈空母と王土の売買

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1942年4月2日 午後9時(現地時間)

アメリカ合衆国ワシントンD.C. ホワイトハウス 大統領執務室

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暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音だけが、不気味なほど広い室内に響いていた。

フランクリン・ルーズベルト大統領は、車椅子の背もたれに深く体を預けたまま、机の上に乱雑に広げられた極秘暗号電報の束を凝視していた。その顔は焦燥に引きつり、自らが絶対の自信を持っていた「世界の法と秩序」を根底から踏み潰された者の、深い困惑と怒りに満ちていた。


机を挟んで直立するコーデル・ハル国務長官と、海軍作戦部長ハロルド・スターク大将の顔からは、完全に血の気が引いている。


「ハワイからの定時連絡に、未だ変化はありません」


スターク大将の声は、もはや敗北を認めざるを得ない陰鬱な響きを帯びていた。

「公海上に陣取った徳川幕府の第一艦隊──大和、武蔵、信濃、甲斐の四六センチ砲はいまだ1ヤードも動かず、我が太平洋艦隊を真珠湾の奥に釘付けにしています。こちらから先に引き金を引けば、国内の孤立主義派と中立法遵守を叫ぶ反戦世論が爆発する。敵は一発も撃たずに、我が方の主力軍を完全に金縛りにし続けているのです。そして……我々がハワイの巨砲に目を奪われていたこの3ヶ月の間に、南太平洋の戦線は完全に崩壊しました」


ハル国務長官が震える手で差し出したのは、3月に起きた南太平洋の電撃的な失陥に関する最終報告書だった。


「ニューカレドニア、次いでニュージーランドが完全に日本の手中に落ちました。どちらの戦線も、一発の艦砲射撃すら受けていません。島を取り囲む完璧な航空封鎖と、制空権の奪取だけの圧倒的な重圧によって、現地軍は軍事的に窒息させられ、降伏を余儀なくされたのです」


ルーズベルトは報告書をひったくるように奪うと、紙が破れんばかりの勢いで目を通し、激昂の声をあげた。

「なぜ現地守備隊は物資を焼却処分しなかった! あそこには、我が国が武器貸与法レンドリースで投じた莫大なインフラが蓄えられていたはずだ!」


「それが……敵の手際の前に、守備隊は動くことすらできなかったのです」

スターク大将が苦渋に満ちた表情で首を振る。

「日本軍──いや、彼らの背後にいる外様財閥の機動艦隊は、航空制圧と同時に、国際法に精通した独自の臨検将校を真っ先に上陸させました。彼らは『完全降伏によって軍事真空地帯となった土地の物資は、戦時国際法上、正当な権利を有する戦利品である。もしこれらを不当に破壊すれば、捕虜の安全や現地の民間インフラの安全は一切保証しない』と、冷徹に法理の刃を突きつけて守備隊の身動きを封じたのです」


その結果、ヌメア港に陸揚げされていた大量の重火器や弾薬、さらには、合衆国が将来の大反攻の拠点とするためにニュージーランドの地下倉庫へ極秘裏に集積していた天文学的な量の航空爆弾、高オクタン燃料、組み立てを待つばかりだった最新鋭戦闘機群が、何一つ破壊されることなく、丸ごと財閥連合の私有資産として強奪された。


「それだけではありません」

スタークはさらに声を震わせた。

「港湾拡張と滑走路建設のために極秘派遣していた、我が海軍の建設工兵大隊シービーズの先遣隊までもが、彼らが持ち込んだアメリカ製の最新大型重機ごと、丸ごと生け捕りにされました。彼らは今、国際法の労役規定の枠組みに従わされる形で、日本側がニッケル鉱山を増産するための近代化労働シフトへと強制的に組み込まれています」


ルーズベルトは書類を机に叩きつけ、絞り出すように息を吐き出した。

アメリカが参戦の日のために世界中に仕込んでいた大反攻の牙が、戦う前にすべて合法的かつ力づくで奪われ、逆に日本の生存圏を要塞化するための強固な盾へと変えられている。この南太平洋の喪失により、豊秋津島(豪州)の東岸に位置するシドニーやメルボルンの英連邦租界への海上補給線は完全に切断された。彼らは干上がった檻の中で自滅を待つしかない。


その時、執務室のドアが勢いよく開き、緊急の暗号電文が持ち込まれた。

スターク大将が電文に目を落とした瞬間、その顔の筋肉が硬直した。


「大統領……先ほどインド洋のパースが……パース港が、日本軍によって完全に無傷のまま接収されたとの報が入りました」


ルーズベルトの視線が、机の上の世界地図へと落とされた。太平洋の半分が、恐るべき速度で東洋の怪物の帳簿へと書き換えられていく。その動きは、武力と法理を完璧に融合させた、これまでにない不気味な合理主義に貫かれていた。


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1942年4月2日 午前9時

豊秋津島西部 パース港外

第二機動艦隊旗艦 装甲空母「大鳳」 作戦室

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ワシントンが絶望的な夜を迎える少し前、西のインド洋に面したパース軍港の沖合には、小沢治三郎中将率いる第二機動艦隊が再びその巨大な影を落としていた。


南太平洋での山口多聞の勝利を見届け、多良加での航空燃料と弾薬の補給を完璧に完了した小沢の艦隊は、満を持してパースの水平線へと滑り込んできた。

開戦初頭、この港は日本軍の防空網無力化によって一切の反撃能力を奪われていたが、小沢があえて一度この海域を離れたのは、敵の戦力回復の芽を摘みつつ、この南半球屈指の広大な港湾施設や巨大な燃料タンク群を、自らの砲撃で破壊せぬための冷徹な計算に基づくものであった。


第二機動艦隊の重厚な護衛のもと、静まり返ったパースの港内へと進駐してきたのは、第五艦隊の旧式戦艦「扶桑」「山城」を中核とする拠点占領部隊、および外様財閥連合の武装開拓陸戦隊であった。


「パース港内、一切の戦闘意思なし。司令部庁舎に白旗が掲げられました」


大鳳の作戦室に、通信士の張り詰めた報告が響いた。小沢は表情を変えず、静かに眼鏡の奥の目を細める。

外洋からの補給を完全に断たれ、頭上の空を烈風と流星に支配されたパースの英連邦守備隊に、これ以上の抵抗が不可能なことは最初から分かっていた。


港湾に殺到した財閥の陸戦隊は、一発の銃声も響かせることなく、南半球屈指の近代的軍港をそっくりそのまま無傷の状態で豊栄大日本帝国の資産として鹵獲した。巨大な製油設備、整然と並ぶドック、装置一つ傷ついていない膨大な重油。それらは、明日から始まるインド洋のシーレーン防衛において、海上護衛総隊の特設空母や海防艦を支える西の不沈拠点へと、その日のうちに塗り替えられていく。


だが、このパースの完全無傷での接収は、連衡国家が世界に向けて発動した、さらに巨大な経済・外交戦略の序曲にすぎなかった。


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1942年4月4日 午後3時

帝都・東京 外務省霞ヶ関庁舎 特使応接室

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パースの無血陥落という報がインド洋から届いたのとほぼ同時に、東京の霞ヶ関にある外務省の奥深くでは、もう一つの、地響きさえ立てぬ銃声なき決戦が最終局面を迎えていた。


春の柔らかな光が差し込む応接室の、重厚なマホガニーのテーブル。その滑らかな木目を挟んで冷徹な視線を交わしていたのは、数百年の統治の血を引く幕府の最高級テクノクラートたちと、ロンドンから命からがら亡命してきたオランダ亡命政府の全権特使であった。


特使の顔には、大西洋を渡る過酷な旅の疲労だけでなく、自らの立脚点そのものが崩壊しつつある者の底知れぬ絶望が刻まれていた。欧州において祖国オランダをナチス・ドイツの電撃戦によって無残に蹂躙され、ウィルヘルミナ女王とともにロンドンの煤煙にまみれた亡命生活を余儀なくされている彼らにとって、極東に浮かぶ巨大な植民地──蘭印(オランダ領東インド)の膨大な原油、天然ゴム、キニーネの利権だけが、政府としての体面と財政を維持するための最後の、および唯一の心の拠り所であった。


しかし、その蘭印という富の蔵へ至る玄関口たる多良加は、すでに徳川幕府の天領として完璧に機能しており、周辺のジャワ海やバンダ海は外様財閥が誇る15隻の空母機動艦隊によって鉄条網を張るように完全封鎖されていた。さらに、先月には豊秋津島の東西の拠点たるパースと南太平洋が完全に制圧されたことで、蘭印へ至る連合軍の増援ルートは宇宙の孤島のように遮断されている。


亡命政府には、この広大な極東の領土を維持するための軍艦一隻、兵隊一人を送り込む力もなく、本国を解放するための軍資金にいたっては、国庫の底を突いて1ギルダーすら残されていなかった。目の前に座る東洋の官僚たちに武力で踏み潰されれば、それですべてが終わるという剥き出しの現実が、応接室の沈黙を支配していた。


ここで動いたのが、この国の脳を司る徳川幕府の、冷徹なまでに洗練された外交交渉であった。

かつて19世紀末、豊秋津島のインフラ整備を巡って国力を消耗していた日本は、ロンドンのシティの金融資本から天文学的な外債を募り、大英帝国に経済の首根っこを掴まれる「金融の罠」の苦渋を舐めさせられた。あの時、欧米列強が不平等条約を武器に日本の主権を切り刻んだ手法を、公武合体政府のテクノクラートたちは完全に学習し、逆の立場で欧州の没落貴族を締め上げる側に回っていた。


「我が豊栄大日本帝国は、貴国亡命政府が現在ロンドンおよびニューヨークの金融市場において抱え、首を絞められているすべての対外債務を、我が国の潤沢な金準備をもって一括で肩代わりすることを提案いたします」


幕府の首席交渉官を務める国家財務総監・水野忠徳みずの ただのりが、マイセンのティーカップをソーサーに静かに置きながら、淡々と、しかし逃げ場のない口調で告げた。陶器の触れ合う微かな音が、静まり返った応接室に冷酷に響く。 その対面に座るオランダ亡命政府全権特使・フォーストは、血の気を失った顔で水野を見つめ返した。水野が提示した条件は、破産寸前で明日をも知れぬオランダ亡命政府にとって、奈落の底で差し伸べられた蜘蛛の糸であった。


日本側が要求した対価は甘いものであるはずがない。蘭印全域におけるオランダの全権益、商業利権の永久放棄、およびそのすべての統治権を豊栄大日本帝国へ合法的かつ永久に割譲するという条文が、冷たい紙面の上に躍っていた。


だが、同時に幕府は、ただ奪うだけではない老獪な餌をも用意していた。将来、ヨーロッパにおいてドイツの占領下からオランダ本国を解放し、主権を回復する戦闘が始まった折には、帝国政府が財政的、さらには軍事的な全面支援を行うという国際法上の相互援助条約が、正式な付帯条項として添えられていたのである。


「……正気ですか。これは実質的な、将来の対独戦の約束だ」


フォースト特使は掠れた声で呟き、部屋の隅に控える日本の暗号通信官へと震える視線を走らせた。


「この付帯条項の存在が、もしベルリンのヒトラーに漏れてみろ。アシカ作戦の準備を進めるドイツ軍は、ロンドンにいる我がウィルヘルミナ女王と亡命政府の身ぐるみを剥ぎ、即座に全員を強制収容所へ送り込むか、あるいはその場で血祭りに上げるだろう。日独はイギリスを挟撃する盟約を結んでいるのではないのか!」


怒りと恐怖の入り混じったフォーストの懸念に対し、水野は感情の失せた笑みを浮かべて首を振った。


「ご安心を。この付帯条項は、ロンドンの貴国女王と、我が徳川幕府の最高幹部のみが共有する、文字通りの『絶対機密』です。ベルリンとの連絡には幕府が開発した新設計の二重暗号コードを用いており、彼らの防諜網ですら傍受・解読は不可能です。現に、麹町のドイツ大使館は、我が国がいま蘭印を『武力強奪』するための大規模な軍事作戦計画を練っていると完全に信じ込んで、連日祝杯をあげておりますよ。あやつらの浅薄な耳に、この美しき売買の算盤の音が届くことは万に一つもありません」


オランダ特使の手は、手渡された割譲条約の書面を前にして、視認できるほどに細かく震えていた。

もしこの場で席を立ち、誇り高く提案を拒絶すれば、蘭印は明日にでも島津や毛利の獰猛な空母群と武装陸戦隊によって力づくで強奪され、彼らは1ギルダーの補償金も得られないまま世界の路上へと放り出されて破産するだろう。しかし、己のプライドを押し殺してこの条約に署名すれば、女王と室の栄華、およびロンドンでの亡命生活を支える莫大な資金は永久に担保され、何よりもいつの日かドイツの圧政から祖国を取り戻すための最強の切符が手に入るのだ。ベルリンの目を完璧に欺いているという日本側の絶対的な防諜の保証が、特使の背中を最後に押し込んだ。


戦時国際法を盾に取り、一滴の血も流さず、一発の砲弾も消費せずに、合法的な売買によって他国の広大な王土を買い取る。これこそが、軍事力という背景を極限まで外交のレバレッジに変換した幕府外交の合法的蘭印併合の冷徹な全容であった。


数時間におよぶ、息も詰まるような精査と沈黙の後。 フォースト特使は、目の前に置かれた漆黒の万年筆へと、ゆっくりと手を伸ばした。その指先は痙攣したように小刻みに震えている。祖国が300年支配した広大な植民地を手放す屈辱と、亡命政府が生き延びるための安堵が入り交じり、彼の額からは脂汗が滲み出していた。 水野は一言も発することなく、ただ冷徹な眼差しでその様子を見下ろしている。 やがて、応接室に万年筆の先が紙を削る微かな音が響いた。


フォースト特使の万年筆が、己の祖国の歴史の切り替えを告げる割譲条約の末尾に、黒いインクを深く刻み込んだ。


その瞬間、多良加からスマトラ、ジャワ、ボルネオに至る世界屈指の膨大な石油地帯と果てしない資源圏は、戦時国際法上も、いかなる国際条約上も、第三国から何ら非の打ち所のない日本の完全なる合法的資産として、豊栄大日本帝国の壮大な版図へと正式に組み込まれた。これでアメリカもイギリスも、日本を不当な侵略者として国際法で糾弾する根拠を完全に失ったのである。


「これで帳簿の書き換えはすべて終わった。あとは、シンガポールの首根っこをへし折るだけだな」


割譲成立を告げる極秘の暗号電文は、霞ヶ関の発信基地から即座に大気へと放たれ、インド洋を進む大鳳の小沢治三郎のもとへ、そして南太平洋の波濤を蹴立てる鳳凰の山口多聞のもとへと瞬く間に打電された。


豊秋津島大陸全土の完全なる主権回復に続き、帝国の絶対的な生命線である蘭印全域の合法的併合を成し遂げた諸侯連衡国家の戦略ドミノは、ついに大英帝国の極東最大の牙城であり、南洋のすべての利権の要石であったシンガポール、およびマレー半島を背後から完全に包囲する絶対の形を完成させた。

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