【第八期】第91章 成層圏の魔王と西海岸の竜
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1944年5月10日 午前9時00分
アメリカ合衆国 ワシントン州 シアトル
ボーイング社 第2工場(プラント2)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西半球の巨大な竜、アメリカ合衆国の冷徹極まる怒りは、太平洋と大西洋という地球上の二つの巨大な海原を越え、ついに成層圏という「生身の人間が呼吸することすら許されない絶対の死の領域」へと、その狂気的な矛先を向けていた。
「……見事だ。まさにビューティフル(美しい)。これこそが、我が合衆国が世界に誇る圧倒的な大量生産の暴力と、最先端科学技術が完全に融合した、究極の破壊兵器だ」
ワシントン州シアトルの、氷のように冷たい海風が吹き抜けるボーイング社・第2工場(プラント2)。
その見渡す限り果てしなく続く広大な格納庫の中で、合衆国陸軍航空軍(USAAF)司令官、ヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド大将は、首が痛くなるほど高く見上げた頭上の巨大な銀色の機体を前に、全身の震えを抑えきれない声で感嘆の息を漏らした。
彼が威圧されるように見上げているのは、従来の四発重爆撃機である『B-17 フライングフォートレス』や『B-24 リベレーター』が、まるで子供の玩具に見えてしまうほどの途方もない巨躯を持った、人類史上最大の怪鳥であった。
全長30.18メートル、全幅43.05メートル。
一切の無駄を省いたジュラルミン剥き出しの眩い銀色の胴体を持つ、ボーイング社製・超重爆撃機『B-29A スーパーフォートレス』の初期量産型である。
「アーノルド大将。ご期待通り、ライト社製の『R-3350 デュプレックス・サイクロン』空冷星型18気筒発動機の過熱などの初期不良は、我が社の技術陣によってほぼ完全にクリアされました。1基あたり2,200馬力、計8,800馬力という怪物的な推力が、この60トンに迫る巨体を、高度3万フィート(約1万メートル)の成層圏へと容易く押し上げます」
ボーイング社の主任設計技師が、分厚いマニュアル(設計教本)を片手に誇らしげに胸を張った。
アーノルド大将は、機体の滑らかな曲面を黒革の手袋で撫でながら、忌々しくも屈辱的な記憶を頭の奥で反芻していた。
前年、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領が合衆国海軍(US・ネイビー)と海兵隊の全質量を投じて決行したハワイ奪還作戦は、日本の『大和型戦艦』の規格外の巨砲と、強固な地下要塞の前に、無惨な敗北と数万人規模の無条件降伏という最悪の結末を迎えた。
さらに、日本海軍が極秘裏に派遣した潜水空母によるパナマ運河の精密爆撃により、東海岸の巨大ドックで建造された新鋭の『エセックス級』空母群や戦艦群は、過酷な南米のマゼラン海峡を何ヶ月もかけて迂回せざるを得なくなり、海軍による太平洋反攻のスケジュールは最低でも半年以上遅延することが確定していたのである。
「……キング提督の海軍は、ジャップの堅牢な要塞島を一つ一つ海兵隊の血で洗い流しながら奪い返そうと目論んでいるが、そんな泥臭い戦争はもう終わりだ」
アーノルド大将の眼光が、冷徹なインダストリアル・キャピタリスト(産業資本家)のような光を帯びた。
「我々陸軍航空軍が、このB-29の巨大な大編隊で太平洋の海原を直接飛び越え、ジャップの職人が潜む兵器工場もろとも、彼らの国家そのものを高度1万メートルから直接灰燼に帰してみせる。……ところで主任技師、この機体の防御火器のシステム(射撃統制装置)は、完璧に作動するのだな?」
アーノルド大将は、機体の各所に配置された、滑らかで空気抵抗の少ない半球型の黒い銃塔を指揮棒で指差した。
「もちろんです、大将」
主任技師は自信満々に頷き、機体の図面をめくった。
「機体の5箇所に配置された12.7ミリ連装機関銃塔は、もはや人間の射手が直接引き金を引くようなアナログな代物ではありません。ゼネラル・エレクトリック(GE)社が莫大な予算を投じて開発した『中央火器管制システム(CFC)』……すなわち、アナログ計算機による遠隔操作機銃です。射手は機内の安全な与圧室の中から、照準器で敵機を覗き込むだけ。あとは計算機が、敵機の接近速度、弾道、風圧、大気密度、さらには自機の速度差までを瞬時に自動計算し、最も命中確率の高い未来位置へ向けて、無機質に、そして正確無比に弾幕を叩き込みます」
もはや、パイロットの「職人技」や「勘」などという前時代的な能力は、このB-29の前では完全に無用の長物であった。
システム化された機械の計算速度が、東洋の「サムライ」たちを一方的に天空からすり潰すのである。
「素晴らしい。……最初の標的は、すでに決まっている」
アーノルド大将は、工場に貼り出された巨大な北太平洋の海図を指揮棒で力強く叩いた。
「ハワイ・オアフ島は現在、ジャップの狂気的な執念によって『絶対不落の要塞』と化しており、さらにあの忌々しい大和の巨砲の脅威が残っている。ならば、我々はハワイを迂回し、北へ向かう」
アーノルドの指揮棒が、太平洋の北の果て、アラスカへと伸びた。
「アラスカ・アリューシャン列島の『ダッチハーバー』を前進基地とし、そこからB-29の長大な航続距離を活かして、ジャップの北方の絶対防衛線……千島列島の『幌筵島』および『占守島』の巨大な軍事拠点を、高度1万メートルから直接叩き潰す。……職人が刃を研ぐ時代は、我々の爆弾で完全に終わるのだ」
それは、アメリカの誇る「空の破壊神」が、初めて東洋の怪物へ向けてその巨体を解き放つ、歴史的かつ暴力的な死の宣告であった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1944年6月15日 午後1時30分
大日本帝国 北洋防衛線 千島列島・幌筵島
北千島防空指揮所
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
凍てつくようなオホーツクの海風が、初夏であっても容赦なく体温を奪っていく北洋の最前線、千島列島。
幌筵島の地下深くに構築された防空指揮所では、筑前国の黒田精機が極限の精度で削り出した『二式大型電波探知機』の緑色のブラウン管を睨みつけていたオペレーターが、突如として信じられない悲鳴のような声を上げた。
「……北東方向、距離250キロに巨大な機影の群れ! 敵機来襲! 数はおよそ60機! しかし……」
レーダー員は、計器の目盛りを二度、三度と見直し、血の気を完全に失った顔で指揮官を振り返った。
「高度が異常です! 敵の編隊は、高度1万メートル(約3万3000フィート)の成層圏を、真っ直ぐに接近してきます!」
「高度1万メートルだと!? 馬鹿な、そんな高さを編隊を組んで飛べる重爆撃機など、世界中のどこにも存在しないぞ!」
北千島防空隊の指揮を執る陸軍少佐が、驚愕に目を限界まで見開いた。
通常、爆撃機が侵入してくる高度は、どんなに高くても6,000メートルから7,000メートルである。1万メートルという空域は、大気の密度が地上の約3分の1しかなく、気温はマイナス50度を下回る「完全なる死の世界」だ。通常のレシプロ発動機は空気が薄すぎて燃焼を維持できず、人間は与圧服や極寒の防寒着、そして酸素吸入器なしでは、数分で凍死、あるいは酸欠で意識を失う絶対高度である。
「しかし、電波探知機の反応は間違いなく高度1万を指しています! 速度も時速500キロを優に超えています!」
「……アメリカの新型機か。ルーズベルトの生産力が、ついに我々の常識を根本から超えた化け物を生み出したというのか」
少佐はギリッと奥歯を噛み締め、指揮所の送話器をひったくった。
「陸軍・飛行第54戦隊、ならびに海軍・第二五一航空隊、緊急発進! 目標、高度1万メートルの敵大型爆撃機! どんな手を使ってでも、奴らを我々の頭上から叩き落とせ!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
同日 午後1時45分
北太平洋 千島列島上空 高度8,000メートル
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「発動機温度異常上昇! 油温、限界に近づいています!」
陸軍・飛行第54戦隊の編隊長、高木 義一大尉は、愛機である葵航空工機製・四〇式戦闘機『荒鷲』の風防越しに、凍りつくような白い息を吐きながら絶叫した。
彼が操る『荒鷲』は、2000馬力級の大出力空冷星型発動機を搭載し、越前松平重工業製の極厚防弾鋼板を纏った、帝国陸軍が誇る重戦闘機の決定版である。しかし、彼らが現在到達している高度8,000メートルという空域は、すでにエンジンの「呼吸の限界点」を迎えつつあった。
空気が極端に薄いため、過給機を全開にしてもエンジンが十分な酸素を取り込めず、馬力が急激に低下していく。機体はまるで泥沼の中を泳いでいるかのように重く、鈍く、操縦桿は凍りついたように動かなくなっていた。
「隊長! 上です! まだ上を飛んでいます!」
僚機の若き軍曹が、防喉送話器越しに悲鳴を上げた。
高木大尉が極寒の中で凍りつく首を無理やり捻って上空を見上げると、さらに2,000メートル上の真っ青な成層圏を、太陽の光を反射してギラギラと輝く「巨大な銀色の十字架」の群れが、圧倒的な速度で悠々と横切っていくのが見えた。
「なんだあの異常な大きさは……。それに、あの高度をあんな速度で編隊を組んで飛べるというのか!」
アメリカ合衆国陸軍航空軍が誇る超重爆撃機『B-29A スーパーフォートレス』の大編隊であった。
B-29は、エンジンに「排気タービン過給機」を標準装備している。排気ガスの力を利用して薄い空気を限界まで圧縮してエンジンに送り込むこの技術は、日本の水戸徳川造兵工機でも開発中であったが、アメリカのような異常な耐久性と量産性を持たせるには至っていなかった。その絶対的な技術の差が、この高度1万メートルという「高度差の壁」となって日本軍の前に冷酷に立ちはだかっていたのだ。
「海軍の『轟電改二』も上がってきているが、あいつらも苦しそうだぞ!」
高木大尉の視界の端で、海軍の立花飛行機製・四〇式局地戦闘機『轟電改二』の編隊が、必死に機首を上げて上昇を試みている。圧倒的な上昇力を誇る『轟電改二』であっても、高高度の薄い空気の中ではその大馬力発動機の性能を十分に発揮できず、失速ギリギリの速度で喘ぎながら登っていくしかなかった。
「……諦めるな! 水戸の重砲が届かない空なら、我々が肉薄して撃ち落とすしかないんだ! 発動機が焼け焦げようが、気合で高度1万まで引っ張り上げろ!」
高木大尉ら日本の迎撃機部隊は、機体が空中分解する危険を冒しながら、無理やり機首を限界まで引き上げ、プロペラで薄い空気を掻きむしりながら、B-29の巨大な銀色の腹の下へと何とかしがみついた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
同日 午後2時00分
千島列島上空 高度1万メートル
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マイナス50度の外気が機体を叩き、生身の人間ならば数分で凍死する極寒の成層圏。だが、B-29の機内はまるで別世界であった。
「……ジャップの迎撃機が数機、下から這い上がってきましたよ。まるで酸素の足りない金魚みたいに、フラフラしてますぜ」
B-29の右部銃手、トム・ハリス軍曹は、完全に与圧された室内の中で酸素マスクも防寒着もつけず、シャツの袖をまくっただけの軽装で、照準器のガラス越しに眼下の日本軍機を冷ややかに見下ろしていた。
機内は温かく、気圧も地上と変わらないように自動調整されている。極度の疲労と酸素欠乏で意識が朦朧としている日本のパイロットたちとは異なり、ハリス軍曹の額には汗一つ滲んでいない。
「距離1,000ヤード。中央火器管制システム(CFC)、目標をロックオンしました」
ハリスが手元の照準器のスイッチを無機質に押し込む。
その瞬間、B-29の機体下部に設置された黒い半球型の銃塔が、まるで生き物のように滑らかに旋回し、2門のブローニング12.7ミリ重機関銃の銃口が、必死に上昇してくる高木大尉の『荒鷲』へとピタリと自動追従した。
ゼネラル・エレクトリック社が開発したアナログ計算機が、日本の戦闘機の速度、風圧、温度、弾道をすでに完全に割り出し、最も確実に命中する「未来位置」を算出していた。
「発射」
ハリスがトリガーを軽く引いた瞬間、銃塔から猛烈な火線が、コンマ1ミリの誤差もない正確無比な一本の線となって撃ち下ろされた。
ダダダダダダダッ!!
「な……ッ!?」
高木大尉が回避行動を取る間もなかった。高度1万メートルの極端に薄い空気の中で、レシプロ戦闘機は機敏な旋回など絶対に不可能である。真っ直ぐに飛ぶしかなかった『荒鷲』の操縦席と発動機に、アメリカの計算機が弾き出した12.7ミリ徹甲弾の雨が、全弾命中した。
越前松平重工業製の極厚防弾鋼板も、システム化された遠隔操作機銃の異常な命中精度による一点集中射撃の前には、瞬く間に粉砕された。
「隊長ッ!!」
僚機が防喉送話器で悲鳴を上げる中、高木大尉の『荒鷲』は巨大な火だるまとなって、高度1万メートルの成層圏からオホーツクの氷の海へと墜落していった。
海軍の『轟電改二』も、必死に機首の30ミリ機関砲を上へ向けて発砲するが、B-29の圧倒的な速度(時速550キロ以上)と、分厚い装甲板、そして何よりも「届かない絶対高度」の前に、その巨躯に傷一つ付けることができない。
逆に、B-29の各所に配置された連装機銃塔が、計算機による完全な死角ゼロの十字砲火を形成し、近づく日本軍機を次々と蠅のように叩き落としていった。
「……まるで大人と子供だ。我々が必死に血を吐きながら気合と根性で飛んでいる間に、奴らは『計算機』で我々の命を消去している!」
生き残った日本のパイロットたちは、凍りつくような絶望を噛み締めながら、ただB-29の銀色の腹が遠ざかっていくのを、成層圏の下から見送ることしかできなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
同日 午後2時15分
千島列島 幌筵島 海軍・陸軍統合基地
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
制空権の確保──いや、迎撃という概念すら成立しない「絶対の安全高度」から、B-29の大編隊は、日本の北洋防衛線の要である幌筵島の基地インフラへ向けて、無慈悲な爆弾の雨を降らせた。
ヒュルルルルルッ……!!
ドゴォォォォォォォンッ!!!
高度1万メートルから投下された数千発の500ポンド爆弾と焼夷弾が、凍てつく大地を巨大な炎の海へと変えていく。滑走路が抉られ、燃料タンクが吹き飛び、地下に掘られた塹壕すらも凄まじい衝撃波で押し潰されていく。
アメリカの「大量生産の暴力」が産み出した『成層圏の魔王』は、日本がどれほど職人技の戦闘機を作り上げ、どれほど強固な要塞を築こうとも、それを完全に無効化する「次元の違う暴力」を世界に見せつけたのである。
「……迎撃機、次々と撃墜されています。敵の超重爆撃機は、一機の損害も出すことなく、東の空……アリューシャン列島のダッチハーバー方面へと悠々と帰投していきます」
防空指揮所で報告を受けた陸軍少佐は、瓦礫の崩れる天井を見上げ、震える手で机を力強く握りしめた。
「これが、ルーズベルトの真の力か……! 海で我々の第一艦隊を避け、今度は空から、我々の刃が全く届かない遥か上空から、一方的に国家を焼き尽くすというのか」
日本の「究極の質」とアメリカの「絶対的な大量生産」。
そのパラダイムの違いは、ついに高度1万メートルの成層圏において、アメリカの『計算機と排気タービン過給機』という物理法則の暴力によって、日本のレシプロ戦闘機の限界を完全に露呈させたのである。
太平洋の北の果て、千島列島で燻る絶望的な黒煙は、やがてこの『B-29』の巨大な大編隊が、日本本土の帝都・東京へとその銀色の翼を向ける日が遠からず訪れることを、絶望的なまでに暗示していた。
世界総力戦の新たな恐怖の幕開けが、凍てつく北の空に冷酷に刻み込まれた瞬間であった。




