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第90章 血の海を傍観する怪物【第7期 完】

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1944年12月25日 午後8時00分

帝都・東京 江戸城本丸跡・幕府最高臨戦評議場

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鉛色の厚い雪雲が帝都・東京の夜空を覆い尽くし、身を切るような凍てつく冬の木枯らしが、皇居の堀の水面を鋭く波立たせていた。地上では、キリスト教の降誕祭クリスマスという西洋の風習など完全に忘れ去られたかのように、黒い外套に身を包んだ市民たちが、吐く息を白く染めながら足早に家路を急いでいる。大戦下とはいえ、本土への直接的な空襲や飢餓とは無縁のこの帝都は、戦前と変わらぬ穏やかで豊かな秩序オーダーを保ち続けていた。


しかし、その平穏な雪の舞う地表から地下数十メートルの深淵──分厚い鉛板と、越前松平重工業製の極厚装甲鋼板、そして幾重にも流し込まれた鉄筋コンクリートの複合装甲に守護された、帝国の真の「脳髄ブレイン」たる幕府最高臨戦評議場は、外界の冷気とは全く無縁の、極めて冷酷で、かつ暴力的なほどの熱を帯びた静謐に支配されていた。


高い天井を支える漆黒の巨大な大理石の柱に囲まれた、重厚なマホガニーの円卓。

その円卓の正面、壁面全体を覆い尽くすように掲げられた巨大な世界地図には、この数ヶ月間で激変した地球規模の地殻変動の痕跡が、無数の赤と黒、そして青のピンによって、まるで流血の傷跡のように生々しく刻み込まれていた。


「……以上が、我が国の張り巡らせた電磁傍受網(エレクトロマグネティック・インターセプト・ネット)、およびスイスや瑞典スウェーデンなどの中立国ニュートラル・ステイツを経由してもたらされた、世界各戦線の最終防諜報告インテリジェンス・レポートの全容にございます」


幕府特務・防諜総監である小栗おぐり 忠純ただずみが、漆黒の革手袋に包まれた手で、分厚い極秘ファイル(トップ・シークレット・ファイル)の束を円卓の中央へと静かに置いた。

そのファイルは、筑前国の『黒田精機』が削り出した超精密な真空管回路と、美濃国の『竹中数理演算所』が論理構築した二重絶対暗号『紫式部むらさきしきぶ』の解析網から、膨大な時間をかけて弾き出された、世界の「真実」の結晶であった。


そこに記されていたのは、白人列強たちが思い描いていたような輝かしい勝利の記録や、正義の進軍の記録などではない。人類の流血の許容量を限界まで試し、若者たちの命をただの数字ナンバーとしてすり潰し続ける、終わりのない巨大な「挽肉機ミートグラインダー」の恐るべき稼働状況であった。


「世界を支配するはずであった四つの超大国が、互いの領土テリトリーとちっぽけな意地を懸けて、自国の兵器ウェポン人命ヒューマン・リソースを文字通り無尽蔵にすり減らす……完全な『停滞と泥沼デッドロック』へと陥没いたしました」


小栗の冷徹な声が、防音の施された評議場に重く響く。


「まず、ユーラシア大陸の西端。アメリカ合衆国がその無尽蔵の工業力インダストリアル・パワー大西洋アトランティック・オーシャン一箇所に集中させ、イギリス亡命政府と共に決行したイギリス本土奪還作戦……作戦名『英国奪還作戦オペレーション・リターン・キング』は、完全な泥沼の底へと沈み込んでいます。カイザー造船所がブロック工法で粗製濫造した無数の上陸舟艇ランディング・クラフトから吐き出された、デトロイト製の『M4A3E8 シャーマン』中戦車や新鋭重戦車『M26 パーシング』の天文学的な質量は、ロンドン市街の外縁部──チルターン丘陵において、完全にその足を止められました」


小栗は、指揮棒ポインターの先端で、地図上のイギリス本土(グレートブリテン島)を指差した。その小さな島には、気が狂うほどの数のピンが密集して刺さっている。


「大ドイツ帝国・西方総軍オーベー・ヴェスト司令官、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が数年がかりで構築した強固なコンクリートの要塞線と、モスクワ陥落後に無傷で温存されていたドイツ国防軍ヴェアマハトの精鋭装甲師団。ポルシェとヘンシェルが生み出した前面装甲150ミリを誇る怪物『ティーガーIIケーニヒスティーガー』や、長砲身8.8センチ砲を備えた次世代駆逐戦車『ヤークトパンター』の圧倒的な装甲と火力ファイア・パワーの前に、アメリカの量産戦車はただの動く標的ターゲットとして、毎日数百両単位で文字通りスクラップへと変えられています」


小栗は、報告書の一部を淡々と読み上げた。


「……イギリスの大地は今、燃え盛る鉄屑と、冬の氷雨が作り出した底なしの泥の中で溺れ死ぬ両軍の兵士たちの血によって、第一次世界大戦のソンムやパッシェンデールを彷彿とさせる、果てしのない地獄の塹壕戦トレンチ・ウォーフェアへと先祖返りをしております」


国家財務総監・水野みずの 忠徳ただのりが、手元の扇子を開いてパチンと鳴らし、心底愉しげに、そして残酷に老い皺を歪めた。


「フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領が誇る大量生産の怪物マニュファクチャリング・モンスターも、欧州の職人マイスターが鍛え上げた本物の刃の前に、易々とヨーロッパの扉をこじ開けることはできなかったというわけだ。……して、他の戦線はどうなっている? アメリカの矛先は一つではないだろう」


「すべてが、同じように血の海で停滞しています」


小栗は、指揮棒を地中海からイタリア半島へと滑らせた。


「イタリア半島に上陸(アヴァランチ作戦)したアメリカ軍およびイギリス軍の残党も、アペニン山脈の険しい岩肌に構築されたドイツ南方総軍の『グスタフ・ライン』において、完全な山岳戦の泥沼に捕らえられています。モンテ・カッシーノの修道院跡地に陣取るドイツの精鋭降下猟兵ファルシルムイェーガーと、岩陰に隠蔽された88ミリ高射砲の水平射撃の前に、アメリカ軍は一歩進むごとに数百人のコストを消費しており、永遠の都・ローマへの道は完全に閉ざされました」


さらに小栗の指揮棒は、ユーラシア大陸の最深部、氷雪に閉ざされた極寒のウラル山脈へと飛んだ。


「そして極めつけは、東部戦線イースタン・フロントです。アメリカ軍がイギリス本土へ上陸した『黄金の隙』を突き、シベリアへ逃げ延びていたヨシフ・スターリン率いるソ連赤軍クラースナヤ・アールミヤが、ウラル山脈を越えて決死の反攻作戦を発動しました。彼らはチェリャビンスク(通称タンコグラード)の劣悪な工場で狂気的に造り溜めた数千両の最新鋭中戦車『T-34/85』を一点に集中させ、ウラルの壁を強引に突破しました」


小栗の冷ややかな目が、地図のヴォルガ川中流域を捉えた。


「……しかし、彼らの進撃も、ヴォルガ川中流域の要衝・サラトフの製油施設を制圧したところで、完全に限界を迎えました。ソ連軍にはもはや、それ以上進撃するための燃料フューエルも、兵站ロジスティクスの余裕も存在しなかったのです。彼らはサラトフの小規模油田を強奪して『国家の即死』を辛うじて免れましたが、そこで進軍は完全に停止。迎え撃つドイツ東方軍オストヘーアもまた、西ヨーロッパへ精鋭を引き抜かれた空洞化のツケを払い、反撃の余力を持っていません。両軍ともに何千両という戦車の残骸と、何十万の屍を雪原に積み上げ、完全に消耗し尽くした状態で、不気味な睨み合いを続けています」


アメリカ、イギリス、ドイツ、ソビエト連邦。

世界を支配するはずだった四つの巨大な列強が、すべて互いの領土テリトリーとイデオロギーの境界線で激突し、一歩も前へ進むことができず、ただ自らの国家の血液と鉄を無意味に垂れ流し続けるだけの「完璧な均衡状態デッドロック」へと陥っていた。


「……見事なものだ」


評議場の上座で、深い影の中に座していた評議場総裁にして永世宰相たる徳川とくがわ 家正いえまさが、パイプの紫煙をゆっくりと吐き出し、重々しい声で沈黙を破った。


「欧米の列強どもが、ファシズムだのデモクラシーだの共産主義だのといった薄っぺらいイデオロギーの幻影に取り憑かれ、互いの大地で泥を啜りながら自国の基礎体力をすり減らしている。……これこそが、我々豊栄大日本帝国が待ち望んでいた『完璧な盤面』だ」


家正宰相はゆっくりと立ち上がり、巨大な世界地図の「アジア・太平洋」の領域──すなわち、他国の血に一切染まっていない、青色で塗りつぶされた豊栄大連邦の広大にして無傷な生存圏を両腕で示すように広げた。


「我々は蘭印(オランダ領東インド)の無尽蔵の油田を合法的な外交取引リーガル・トレードによって買い取り、大英帝国をインドから完全に駆逐した。そしてハワイの真珠湾パールハーバーを大和の巨砲で物理的に解体し、太平洋パシフィック・オーシャンの西半分を完璧な『我々の内海』とした。四つの巨人が泥沼で足掻いている間に、我々はこの無傷の王土から吸い上げた莫大な資源で、永遠に揺るぐことのない絶対的な防壁を完成させる」


「しかし、宰相閣下」


小栗忠純が、冷徹な声で一つの懸念を口にした。


「ヨーロッパで泥沼に陥っているとはいえ、アメリカ合衆国が西海岸ウェスト・コースト東海岸イースト・コーストの巨大ドック群で狂気的に建造し続けている『エセックス級』空母群や、アイオワ級戦艦、そして無数の輸送船団の生産ペースは、微塵も落ちていません。彼らはヨーロッパでの莫大な出血をものともせず、この太平洋へ向けて再び『鋼鉄の津波』を放つ準備を水面下で進めています。アメリカの工業力インダストリアル・キャパシティは、まさに二正面作戦ツー・フロント・ウォーを同時に遂行できるほどの化け物です」


「分かっている。だからこそ、奴らの動脈ロジスティクスの『心臓』を、すでに海中から食い破ったのだ」


家正の口元に、氷のように冷たく、そして残酷な笑みが浮かんだ。


「……小栗殿。島津の地下ドックから出撃させた『あれ』の成果はどうなっている?」


小栗は一礼し、新たな極秘ファイルを開いた。


「ハッ。島津重工(西国重工)が持てる造船および冶金技術のすべてを注ぎ込んで建造した世界最大の潜水空母、潜特型潜水艦『伊号第四百潜水艦』をはじめとする特殊潜水艦隊。彼らは太平洋の深海を完全な隠密状態で横断し、中米のパナマ沖合への到達に成功いたしました」


小栗が取り出した白黒の鮮明な航空写真には、巨大な水門が完全に粉砕され、大量の湖水が土砂とともに泥沼へと流出している、アメリカ合衆国にとっての絶望的な光景が写し出されていた。


「伊四百型の耐圧格納筒から射出された、村上産業開発の四三式特殊水上攻撃機『晴嵐せいらん』3機による、夜間のピンポイント奇襲爆撃。目標であったパナマ運河パナマ・カナルの最大の要衝・ガトゥン閘門は、800キロ徹甲爆弾の直撃を受け、その巨大な鋼鉄の扉を完全に粉砕されました。ガトゥン湖の水はカリブ海へと流出し、運河の水位は致命的に低下。……パナマ運河は、物理的に完全に機能停止いたしました」


「素晴らしい!」


水野忠徳が、扇子でマホガニーの机を叩いて快哉を叫んだ。


「アメリカがいくら東海岸のニューヨーク海軍造船所やニューポート・ニューズ造船所で新鋭の『エセックス級』空母や戦艦を狂気的に量産しようとも、その巨大な艦艇を太平洋へ移動させるための『最短の血管』が完全に切断されたのだ。これより、アメリカの艦隊は南米の過酷なマゼラン海峡を何ヶ月もかけて迂回しなければ、太平洋へ出ることができない。……つまり、アメリカが太平洋で反攻に転じるタイミングは、物理的な制約によって『最低でも半年から一年』は遅れることが確定したということだ!」


パナマ運河の破壊。それは、アメリカ合衆国の誇る大西洋と太平洋を結ぶロジスティクスを根底からへし折り、彼らの「大量生産の暴力マニュファクチャリング・モンスター」を地理的・時間的な制約によって強制的に半減させるという、帝国の極限の非対称戦略アシンメトリック・ストラテジーの完璧な結実であった。


「ルーズベルトはヨーロッパの泥沼で莫大な陸軍力を喪失し、さらにパナマ運河を破壊されたことで、太平洋への海軍増援も半年以上遅れることが確定した。……まさに、我々に与えられた『完璧な黄金の猶予』だ」


家正宰相は、眼鏡の奥の瞳をギラリと光らせた。


「だが、この半年間を、ただの休息や祝杯として浪費するつもりはない。アメリカの最終的な反攻を永遠に拒絶するための『次世代の怪物』の錬成を、さらに狂気的な速度で加速させよ」


家正は、手元の指揮棒で、日本本土の巨大な軍需工廠群を次々と指し示した。


「呉および横須賀のドックで建造中の、46センチ砲すら過去のものとする51センチ(20インチ)巨砲を戴く第14号計画超弩級戦艦『駿河するが』および『美濃みの』の建造を最優先とし、昼夜三交代制で溶接を急がせろ。水戸徳川造兵工機の巨大反射炉をフル稼働させ、アメリカのいかなる装甲をも紙のように叩き割る『神の鉄槌』を完成させるのだ。アメリカの新鋭戦艦がマゼラン海峡を回って太平洋へ辿り着く頃には、水平線の彼方から奴らをアウトレンジで粉砕する準備を整えておく」


さらに、家正の眼光は航空戦力の未来──レシプロエンジンの限界を超える未知の領域へと向けられた。


「そして、立花飛行機や岐州重工(織田家)の地下施設で極秘裏に進められている、プロペラを持たない次世代の推進機関……『ターボジェットエンジン』を搭載した新鋭機の開発だ。試作中の双発ジェット攻撃機『橘花きっか』、および局地戦闘機『火龍かりゅう』の飛行試験を限界まで前倒しせよ。アメリカがB-29のような超高高度爆撃機を飛ばしてこようとも、音速に迫るジェットの牙で、成層圏から奴らをすべて叩き落としてやる」


超大和型戦艦の圧倒的な砲力、ジェット戦闘機の異次元の速度。

そして、タラワでアメリカから強奪し、帝国の『堺公差さかいこうさ』でネジ一本に至るまで魔改造を施した巨大な『改鳳型超大型装甲空母(蒼鳳・飛鳳・天鳳)』の就役。


豊栄大日本帝国は、他国が血と泥のなかで旧来の兵器をすり減らしている間に、その莫大な富と時間を「次の次元の戦争」へと完全に投資シフトし始めていた。


「四つの巨人が流血の海で溺れ、互いの喉首を絞め合っている間に、我々はこの東洋の玉座から、彼らが完全に疲弊し尽くすのを冷ややかに見下ろしていればいい」


家正宰相は、薄暗い地下要塞の天井を見上げ、冷酷かつ壮大な笑みを浮かべた。


「世界の覇権は、すでに我々の手の中にある。あとは、この絶対防衛圏という名の『巨大な処刑場』に、のこのこと足を踏み入れてくるアメリカの愚か者たちを、次世代の鉄槌で跡形もなく消し炭にしてやるだけだ」


1944年末。


ヨーロッパの泥にまみれた塹壕で、シベリアの吹き荒れる雪原で、そしてイタリアの険しい岩山で。

世界中の若者たちの血が川となって流れ、世界総力戦は誰も勝者の見えない、果てしのない暗黒の領域へと完全にその歩みを進めていた。


だが、その狂乱の炎の届かない極東の海では、世界で最も冷徹な怪物たる豊栄大日本帝国が、自らの爪と牙をさらに凶悪なものへと研ぎ澄ませながら、来たるべき最終決戦の時を不気味なほどの静寂の中で待ち受けていたのである。


歴史の羅針盤は、血塗られた海を越え、さらに底知れぬ深淵へとその針を確実に向けていた。


【第七期 完】

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