第97話:深夜のレジ前の心理戦と、アラクネの爆睡
「すみません」
レジカウンターの下でアラクネとそんなアホな話をしていた、まさにその時だった。
突如として、目の前の男から低く落ち着いた声で話しかけられ、俺はビクリと心臓を跳ね上がらせて丸椅子から勢いよく立ち上がった。
「は、……はいっ! いらっしゃいませ、どうかされましたか!?」
俺の上ずった問いかけに、トレンチコートの男は帽子の庇を少し持ち上げ、
「お手洗いをお借りしたいのですが」と、非常に丁寧な物腰で尋ねてきた。
男の顔を至近距離でまじまじと見つめる。温和で紳士的な笑顔を浮かべてはいるが──その目の奥だけが、どういうわけか凍りつくように冷ややかだ。
「あ……お、お手洗いはあちらのブックコーナーの先にございますので、どうぞお使いください」
俺は店内の奥を指差し、引きつった声でトイレの場所を教えた。
「どうも」
男は短くそう言うと、トレンチコートを翻してトイレに向かって静かに歩き出した。
男の後ろ姿が売り場の陰に消えたのを見届けた後、俺はすぐ横にいるアラクネにガバッと身を寄せ、小声で激しく耳打ちした。
「おいアラクネ……! なんかあの男、怪しくないか!?」
アラクネは困ったように、両手で頭をかきながら首をかしげる。
「そうかな〜? 普通のお客さんに見えるけどー」
アラクネののんきな返事を聞く前に、俺の視線はすでにトイレの方向を鋭く凝視していた。
……いや、何かおかしい。長年社会の底辺でサバイバルしてきた元ニート特有の『危機察知能力』が、俺の脳内でジャンジャンと激しい警鐘を鳴らし続けているんだ。
俺はたまらずレジカウンターの中から這い出ると、足音を完全に消した忍び足で売り場を横切り、トイレの扉の前へと忍び寄った。
そして、木製の扉にそっと耳を澄ます。
「……ああ、そうだ。だが……」
中から男の低い声が漏れ聞こえてきた。やっぱりだ、店内のトイレの中から、誰かと通信魔導具か何かで秘密裏に話している。
「……一人じゃないようだ。……ああ。……ああ、分かった」
どうやら密談が終わったようだ。俺は心臓のバクバクを必死に抑えながら、音を立てないように競歩並みのスピードでレジカウンターへと急行し、丸椅子のアラクネの耳元へ再び滑り込んだ。
「間違いない! トイレの中で誰かと連絡を取り合ってた。……もしかしたら、桜塚マネージャーが言っていたあの『コンビニ店長連続誘拐事件』の犯人一味かもしれない!」
俺が息を荒くしてそう告げても、アラクネはまだ事態がよく理解できていないようで、丸い目をパチクリとさせて首を傾げている。
「あいつ……、俺をこの店から無理やり連れ去ろうとしてるのかもしれないんだ!」
俺が最悪の予測を口にした、その瞬間だった。
アラクネの長い髪の毛が逆立ち、一瞬にしてその瞳から野生の鋭い輝きが放たれた。ガタッと勢いよく椅子から立ち上がる。
「……店長を、いじめる奴……。アラクネ、ぜったいに許さない……!」
「うおっと! 待て待て待て!」
今にもトイレに向かって壁を這い、飛びかかりそうなアラクネの細い身体を、俺は慌てて全力で組み伏せるようにして抑え込んだ。
「まだ犯人と決まったわけじゃないんだ! 本当にただの一般のお客さんかもしれないから、あいつが明確に怪しい動きを見せるまでは、頼むからじっとしていてくれ!」
俺は必死に説得し、なんとかアラクネを再び丸椅子の上へと座らせた。
ガチャリ、と重い音を立てて男がトイレから出てきた。
男はカゴを一つ手に取ると、ドリンクコーナーで冷えたペットボトルを何本かカゴの中へと入れていく。そのまま弁当コーナーの棚を回り、じっくりと弁当のラベルを眺め始めた。
だが、俺の目は、男が肩から斜めにかけている【細長くて黒い筒状のカバン】に完全に釘付けになっていた。
(……おいおいおい、嘘だろ。まさかあの袋の中身……バラバラに分解したスナイパーライフルとかが入ってるんじゃないよな……!?)
俺の心臓がドクン、ドクンと耳元でうるさいほどに跳ね上がる。
男の些細な行動、指先一つの動きに、俺の全ての神経が千切れそうなほどに張り詰めていく。
やがて、男は弁当を一つ手に取ると、そのまま真っ直ぐにレジへと歩み寄り、カウンターの上にトンとカゴを置いた。
「あ、……あ、ありがとうございます……!」
俺は心臓を吐き出しそうになりながらも、職業病のスマイルを無理やり作り、商品のバーコードをスキャナーで読み取り始めた。
「このコンビニ、結構品揃えが良いって、評判なんですよ」
男が温和な笑顔を浮かべながら、世間話のように気さくに話しかけてくる。
「そ、……そうなんですかぁ〜……。いやぁ、店長としてはそう言っていただけると、本当に嬉しいなぁ……、ははは」
俺は裏返りそうになる声を必死に抑え、完璧に引きつった営業スマイルで答える。
「でも、大変ですね。24時間営業だから。特にこんな深夜の時間帯なんて、防犯上も色々と心配でしょう?」
「え……ええ……まぁ……。でも、うちの店の防犯対策は本部の最新テクノロジーのおかげでばっちりなんで! その辺はミリ単位も心配していませんよ」
俺はさらに上ずった声で答えながら、レジの横の丸椅子に座っているアラクネをチラリと横目で確認した。
(──何せ、うちの店には世界最強の害虫駆除・ガードマンが常駐してますしね……!!)
すると、男がふいにレジカウンター越しに顔をぐっと近づけ、まわりに聞こえないような低い小声で、俺の目をじっと覗き込んできた。
「……でも、最近コンビニの店長が次々と誘拐される事件が頻発しているみたいですよ?」
男のその言葉が、俺の脳髄を直接突き刺した。
泳ぐ俺の瞳を、男の冷徹な両目がまじまじと、観察するように覗き込んでくる。完全に泳がせにきている。
「そ、……そうなんですか〜〜〜!? いやぁ、知らなかったなー! でもね、本当にこの店の防犯はばっちりすぎて、心配したこともないんですよ!」
俺は少しでも相手の戦意を削ぎ、牽制しようと、脳内から必死にハッタリの嘘を並べ立てた。
「この前もうちの店に入った命知らずの強盗がいましてねぇ! あっという間にうちの店の特別防犯装置の餌食になっちゃって、骨ごとくちゃくちゃに丸められて外にポイって……あはははは!」
男は何も言わず、ただじっと、静かに俺の目を覗き込み続けた。
そのハッタリが嘘か本当か、心の底までじっくりと見極められているようで、俺は喉を鳴らしてゴクリと冷たい唾を飲み込んだ。
どれほどの時間が経っただろうか。男はさっと顔を離すと、元の温和な笑みを浮かべた。
「そうですか。それなら良いんですけどね」
男はコートのポケットから輝く魔石をいくつか取り出すと、レジカウンターの上にカランと置いた。
俺は急いでそれをレジへと投入し、「あ、ありがとうございました……!」と言って、商品を丁寧に詰めたビニール袋を両手で手渡す。
「どうも」
そう言って、男が袋へと手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
ガシャーーーーンッッ!!!
突如としてローソン一号店の自動ドアが強引に抉じ開けられ、黒い覆面を被り、見たこともない恐ろしい魔導銃を手にした大男たちが、怒号を上げながら店内にドタドタとなだれ込んできたのだ!
「ひゃいぃいっ!?」
俺は人生で一番情けない悲鳴をあげながら、即座にレジの横の丸椅子へと視線を飛ばした。
大丈夫、あいつらが何人いようが、ブチ切れたアラクネが全員くちゃくちゃのポイにしてくれる──
あれ? ……嘘だろ、こいつ……。
俺の視界に飛び込んできたのは、緊迫した修羅場のレジの横で、丸椅子に腰を下ろしたまま「スー……スー……」とあまりにも気持ちよさそうな可愛い寝息を立てて、完全に熟睡しているアラクネの姿だった。からあげクンでお腹がいっぱいになって眠くなったらしい。
「ノーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッ!!!!!!!!!!!!」
俺は一号店に響き渡る、本日最大の絶叫を上げてその場に硬直した。
覆面の男たちは一瞬でレジカウンターを飛び越え、殺気全開で俺の胸ぐらを掴もうと一斉に襲いかかってくる。
終わった。引きこもりニート、異世界コンビニの地で死す──。俺の瞼は、迫り来る理不尽な暴力を視界からシャットアウトしようと、ゆっくりと閉じようとしていた。
だが、半目になった俺の視界に、信じられない光景が飛び込んできた。
レジの前にいた、あのトレンチコートの男だった。
男は目にも留まらぬスピードで動き出すと、レジカウンターに飛び乗ってきた覆面男の腕をガシッと掴み、そのまま凄まじい力で床へと引きずり下ろした。そして、目にも留まらぬ速さで強烈な鉄拳をその顔面に振り下ろし、一撃で完全ノックアウトしてみせたのだ。
「な、……え!?」
もう一人の覆面男が慌てて魔導銃の引き金を引こうとするが、トレンチコートの男はその手首を容赦なくカツンと弾き飛ばし、がら空きになった脇腹へと、鋭いボディブローを深く突き刺した。
ズドンッ!!!
男の放った銃弾が俺の耳元を「ヒュンっ」と掠め、レジの後ろの棚に綺麗に並べられていたタバコ什器を派手に打ち抜いた。何個かのタバコの箱がバラバラとフロアに散らばる。
ほんの一瞬の、電光石火の出来事だった。
覆面の襲撃者たちは、床の上にピクリとも動かず転がっている。俺は腰が抜けた状態で、レジの中でただ呆然と立ち尽くしていた。
トレンチコートの男は、何事もなかったかのようにパパッとコートに付いた目に見えない誇りを払うと、帽子を直して、俺に向かっていつもの温和な笑顔で優しく語りかけてきた。
「……ね? やっぱり、危ないじゃないの」
「あ、……う、……」
俺は言葉にならず、ただただ力なく、コクコクと激しく首を縦に振ることしかできなかった──。




