第94話:存在しない男と、未知なる北の国
「お疲れ」
現実世界。深夜の静まり返ったオフィスで、橘 蓮児は自席でパソコンに向き合っていた白石 千砂のデスクの脇にすっと立つと、冷えた缶コーヒーを優しく差し出した。
千砂はキーボードから手を離し、ホッとした表情でそれを受け取る。
「ありがとう、蓮児君。まだ残ってたんだ」
「まあね。そろそろ仕事も一段落したし、同期の可愛い女を飲みにでも誘おうかと思ってさ」
そう言って、蓮児はいつものようにネクタイを少し緩め、人当たりの良い気さくな笑みを浮かべた。千砂もその緊張感のない態度につられて、小さく微笑む。
「あはは、光栄ね。ちょっと待ってて、これだけデータをまとめたら終わりにするから」
「了解」
千砂が再び画面に向かってキーボードをパチパチと叩き始めると、蓮児はさりげなく彼女のパソコンのモニターを横から覗き込んだ。そして、隣の席の事務椅子をガラガラと引き寄せ、そこへ気だるそうに腰を掛ける。
「……ねえ。まだ、その『同級生』のこと、調べてるの?」
「うん」
千砂は画面を見つめたまま、短く頷いた。
「でもさぁ……。ぶっちゃけ、千砂以外は誰もその人のこと覚えてないんでしょ? 前に千砂が『その同級生の両親だ』って言ってた人の家に行った時だって、相手は『うちには最初から子供なんていません』って言ってたじゃん」
千砂は返す言葉が見つからず、ただ黙って唇を噛み締める。
「間宮守なんて男は……。──初めから、この世界に存在しなかったんだよ」
蓮児が静かにそう告げた瞬間。
千砂のタイピングの音がピタリと止まった。
千砂はゆっくりと顔を上げ、すぐ横に座る蓮児の目を、射殺さんばかりの鋭い眼光で真っ正面から睨みつけた。
「マモルはいる。……絶対にどこかにいる。私は、何があっても必ず見つけ出すから」
その千砂の、あまりにも純粋で、かつ狂気的なまでにまっすぐな執念の籠もった瞳に気圧されたのか、蓮児は一瞬だけ表情を強張らせ、言葉を失った。
やがて、いつもの無害な同期の顔を取り繕うように、困ったように頭をかく。
「……あ、……ごめん。言い過ぎたわ」
思わず口をついて出た蓮児の謝罪の言葉に、千砂もハッと我に返り、気まずそうに顔を背けた。
「ううん……ごめん。私の方こそ、急に大声を出しちゃって……ごめんね」
「まあ、この湿っぽい話は一回置いといてさ! 実は、この近くにめちゃくちゃうまい焼き鳥の店を見つけたんだよ。今日の反省会はそこにしよう」
蓮児は立ち上がると、何事もなかったかのように明るく笑ってみせた。
「ありがとう、蓮児君……」
千砂の頑なだった心のトゲが少しだけ融け、パソコンの電源を完全に切ってデスクから立ち上がる。
「よし! そうと決まれば行こう! 今日は蓮児君のおおごりだからね!」
千砂はカバンを掴むなり、夜のオフィスの通路をパタパタと楽しそうに走り出した。
「ちょ……!? なんだよそれ! 待てよ白石、俺そんなこと一言も言ってないだろ!?」
慌てて蓮児は、財布の中身を気にしながら情けない声をあげて千砂の後ろ姿を追いかけ、オフィスの外へと走っていった──。
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異世界。ローソン一号店のバックヤード。
ストコンのモニターには、セ〇ンの防衛サーバーからぶっこ抜いた、暗号化された意味不明な言語と膨大な数字の羅列が激しく流れ落ちていた。
ルカ君はその画面を凝視しながら、プロのハッカーの顔つきでキーボードのキーを凄まじい速度で高速連打している。
俺はルカ君のすぐ後ろに立ち、彼の作業を固唾を飲んで眺めながら、サカモトを連れ去った犯人の手がかりが何か一つでも見つかることを、心の底から祈っていた。
「マモル店長、来ました!!」
ルカ君に大声で呼ばれ、俺は「おっ!?」とストコンの画面に身を乗り出す。
「何か、犯人の足取りが見つかったのか!?」
「はい! セ〇ンの通信ログに残されていた特殊な魔導空間の歪みを、僕のPCで逆探知しました。そこからさらに、強制転移させられたサカモトさんのバイタルデータの痕跡を辿っていくと──」
そう言って、ルカ君はデスクの上に大きな異世界の地図をパッと広げ、ペンを取って、ある特定の地点をグリグリと大きな赤丸で囲んでみせた。
「……おそらく。サカモトさんたちは今、この場所に監禁されていると思います」
ルカ君の指し示したその赤丸の場所を見て、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
この魔物の異世界は、リゼッタのパパが統治しているこの国と、レオナルトのいる西の国、それから──はるか遠くに存在する、一切の情報が遮断された『謎に包まれた北の国』があると、以前に風の噂で聞いたことがあった。
ルカ君が赤丸で囲んだエリアは、まさにその、未知の領域である「北の国」の奥深くのエリアだったのだ。
一号店の頼れる看板娘であるリゼッタですら、その実態を全く知らないという不気味な極寒の国。
一体、そこにはどんな恐ろしい敵の兵器や、闇の陰謀が潜んでいるというのか──。
俺は明日正午に届くという最新ドローンの到来を待ちながら、これから始まる未知なる大決戦に向けて、冷たい汗を流しながら静かに身を引き締めるのだった。




