第49話:夢か現か、消えない温もりと般若の鉄槌
「マモル! マモル!」
……な……なんだ……?
耳の奥で、誰かが俺の名前を呼んでいる。
「マモル! マモル! 早く起きないと遅刻しちゃうわよ!」
……俺は眠たいんだよ……。昨日ちょっと遅くまで夜更かししちゃったからさ……もう少し寝かしてくれよ……。
「マモル……私、もう先に行っちゃうわよ?」
……ん……なんだ? 先に行くってどこに──。
俺はバッと布団を跳ね除け、勢いよく身体を起こした。
寝ぼけ眼で見回したそこは──見慣れた、実家にある俺の部屋だった。お気に入りのポスター、机の上の文房具、そして自分が寝ていたはずのベッド。
俺がポカンとしながら声のした方を見ると、そこには、制服のスカートを揺らして呆れた顔をしたチサが腕を組んで立っていた。
「チサ……なんで……お前がここに?」
チサは深いため息をついてから、開けっ放しのドアから廊下に顔を出し、一階の台所に向かって大声で怒鳴った。
「おばさん! マモルボケてんじゃない!?」
すると間髪入れず、一階からトントンと小気味よい包丁の音と一緒に、聞き慣れた母の「しょうがない子ね〜」という暢気な声が聞こえてきた。
チサは俺に向き直ると、腕時計をコンコンと叩きながら睨んできた。
「入学早々遅刻とか、本当に勘弁してよね。下で待ってるから、さっさと制服に着替えて降りてきなさい!」
そう言って、チサはフンと鼻を鳴らして部屋を出て行った。
静まり返った部屋に取り残された俺は、混乱する頭を落ち着かせるように、強く顔を両手で揉んだ。部屋のハンガーにかけられているのは、折り目のまだ新しい、これからの高校生活を共にするはずの制服だ。
「夢……だったのか?」
随分と、長いこと夢を見ていた気がする。
異世界に店舗ごと飛ばされて、魔族相手にコンビニのオーナーになるなんて、我ながらラノベの読みすぎ、妄想のしすぎというやつだろう。
俺は自分の頭の突飛さにふっと笑ってから、大急ぎで制服に袖を通し、階段を駆け下りた。
リビングでは、母がほかほかの朝食をテーブルに並べながら、「チサちゃんが待ってるんだから早くしなさいよ」と笑って見せる。
チサは口をとがらせながら、早くしろと言わんばかりに足でリズムを刻んで俺をせかしてくる。
俺は焼き立てのトーストを強引に口に放り込み、そのままチサを連れて家を飛び出した。
「マモル、走ろう!」
そう言って、チサが俺の手をぎゅっと握る。
その手の柔らかさと温もりに、「お……おおっ」とドギマギしながら、俺たちは並んで走り出した。
学校までのいつもの道のり。昨日見たテレビ番組の話、これから発表される新しいクラスのメンバーが誰なのか。そんな、どこにでもある他愛もない会話を交わしながら全力で駆ける。
やがて、目指す高校の校門が見えてきた。俺たちと同じように、遅刻の危機に瀕した生徒たちが全速力で門へと滑り込んでいくのが見える。
俺たちも必死に足に力を込め、校門を目指した。怖そうな体育教師が大きな鉄門をギギギと閉め始めたまさにその瞬間、俺たちはギリギリの滑り込みで敷地内へと入ることができたのだ。
俺たちのすぐ後ろを走っていた不運な連中は間に合わなかったらしく、強面の教師から校門の前でしこたま怒鳴り散らされているのが見えた。
「ふぅ……なんとか間に合わね!」
チサが乱れた前髪を直しながら眩しそうに笑い、「だな」そう言って俺も額の汗を拭いながら笑った。
クラス発表の掲示板を確認すると、奇跡的にチサと俺は同じクラスだった。
「また一緒だね、マモル」
チサがそう言って、嬉しさを隠せない様子で笑う。
「またお前と一緒かよ〜」
俺はあえてめんどくさそうに肩をすくめて見せたが、内心は飛び上がるほどうれしかった。
中学の頃とあまり変わらない懐かしいメンツに囲まれた、新しい高校生活。劇的な刺激は足りないかもしれないが、どこか穏やかで居心地のいい教室の中で、初日の一日はあっという間に終わっていった。
放課後の帰り道は、仲の良かった四、五人にチサを交えて、駅前のカラオケへ。
長く苦しかった受験勉強のプレッシャーから完全に解放された俺たちは、完全に羽目を外して、お互いの下手くそな歌に爆笑し合いながら心から楽しんだ。
家に帰り、美味しい晩飯を食べて、風呂で一日の疲れを癒す。自分の部屋に戻り、適当にテレビ番組を眺めながら、スマホでクラスの仲間たちとくだらないメッセージのやり取りを続ける。
夜の23時。眠気が限界を迎え、俺は心地よい疲労感とともにベッドへと潜り込んだ。
「それにしても、本当に不思議な夢だったな。すごくリアルだった……」
枕元でスマホの画面を消しながら、俺はあの異世界での出来事を思い出していた。
アラクネに、リゼッタ。妖精のモカに、うさんくさい関西弁のサカモト。
「あの異世界コンビニの出来事、いっそ自分で小説にしたら結構売れるんじゃないか?」
そんなことをニヤニヤと言いながら、俺は深い眠りについた。
大きめのふわふわした枕に顔をうずめ、愛おしさを込めて力いっぱいその枕を両手で抱きしめた。
・・・・店長さん・・・・店長さん・・・・。
・・・・・んっ?
耳元で、誰かが俺を呼んでいる。チサじゃない。もっと、大人の、甘ったるい声。
ゆっくりと、重い目を開ける。
目の前に広がっていたのは──驚くほど白く、肉感的な太ももだった。
俺はその至高の太ももを、自分のベッドの枕だと思い込んだまま、両手でがっしりと、力いっぱいに抱きしめていた。
柔らかい……それに、現実世界の枕では絶対にあり得ない、香水のような凄くいい匂いが鼻腔をくすぐる。
「店長さんは、朝からすっごくエッチやな〜」
クスクスと楽しげな甘い声が、頭の上から降ってきた。
俺は恐怖に血の気が引きながら、恐る恐る、視線を上へとスライドさせていく。
そこには、ロー〇ソンの制服の生地を今にも押し破りそうな、圧倒的な二つの山。そしてその先で、妖艶な微笑みを浮かべたアンナちゃんがこちらを見下ろしていた。
「バッっっ!!!」
俺は悲鳴を上げながら跳ね起き、アンナちゃんから全力で距離を取った。そして、呼吸を荒くしながらあたりを必死に見渡す。
「夢……? 夢……!? どっちが夢なんだ!?」
目の前では、アンナちゃんが相変わらず大人の余裕に満ちた優しい微笑みを浮かべている。
しかしその直後、俺の背後から、大気がガタガタと震えるようなただならぬ殺気と気配が漂ってきた。
俺は首の骨がギチギチと音を立てるような恐怖を感じながら、恐る恐る後ろを振り返る。
──バチーン!!!
記憶も感情も理性も、脳みそのすべての細胞をまとめて木っ端微塵に吹き飛ばしそうな大衝撃が、俺の右頬に炸裂した。
強烈なビンタによって俺の身体は宙を舞い、バックヤードの事務テーブルを派手にひっくり返しながら床へと転がった。
頭上から降ってきたのは、昨日開いたパーティーの残骸──空き缶や料理のジュースだ。それが頭からバシャバシャと容赦なく覆いかぶさってくる。
その冷たさとあまりの激痛によって、俺の脳みそは一瞬で「本来の現実」へと強制送還された。
(……そ……そうだ……っ! 昨日はアラクネの誕生日パーティーで、みんなで盛り上がって飲みすぎて、そのままバックヤードの床で雑魚寝しちまったんだ……っ!)
痛む頬を押さえ、涙目で視線を恐る恐る上へと戻すと、そこには──般若の面を被ったかのような、完全に瞳の奥の光が消え失せたリゼッタが仁王立ちしていた。
「私が出勤したら、店長さんが床で苦しそうに寝てたから、頭を膝に乗せて解放してあげたの。そしたら……目が覚めた途端に、そのままわたしの太ももにしがみついて顔をうずめてきて……」
アンナちゃんが指を頬に当てながら、わざとリゼッタの怒りを煽るような極上の爆弾を平然と付け足した。その言葉を聞いたリゼッタの般若の顔が、さらにピキピキと恐ろしく引きつっていく。
「あ……アンナちゃん……もう、それ以上、しゃべらなくて……いいよぉ……っ!!」
俺がガタガタと歯を鳴らしながら、必死の思いで言い訳の言葉を紡ごうとした瞬間。
──バチーン!!!!
一発目を遥かに凌駕する、世界が割れるような二度目の鉄槌がバックヤードに轟いた。
俺の意識は今度こそ何の言い訳も許されることなく、深い深い暗黒の闇の底へと完全に失われたのだった。




