第45話(第一部最終回):今、ここでできることを
「……マモル……マモル……っ」
遠くから、俺の耳に心地よく響く、どこか焦ったような少女の声が聞こえる。
なんだ……。俺は、あの手紙丸呑み窒息事件によって、ついに死んでしまったのか……!?
ガバッ!!!
俺は天国(あるいは地獄)の淵から傷だらけで走馬灯のように這い上がるように、フカフカの布団から勢いよく跳び起きた。
すると、開いた視界のわずか数センチの至近距離に、黒髪を揺らしたリゼッタの顔が飛び込んできた。
(……リゼッタ。お前、意識を失った俺を、わざわざこのベッドルームで看病してくれていたのか……?)
間近で見るリゼッタの顔は、驚くほど整っていた。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳、すっと通った綺麗な鼻筋、精度、さくらんぼのようにぷっくりとした魅力的な唇。
不意に、俺の引きこもり脳の煩悩が、この期に及んで最大出力でスパークした。
……なんて、可愛いんだ。
俺は吸い寄せられるように、ゆっくりと、本当にゆっくりと、リゼッタの唇に向けて自分の唇を近づけていった。
昨日までのすべての受難を乗り越え、ついに帰ってきた愛しのヒロインへ、俺の二十数年分のチェリーなファーストキスを捧げよう──。
バチィィィィィィィィンッッッッッ!!!!!!!
次の瞬間、俺の視界のなかで大輪の火花が激しく飛び散った。
「ぶふぇっっ!!!???」
俺の身体はベッドから文字通り綺麗な放物線を描いて転がり落ち、そのままの勢いで床を高速回転。開け放たれていたベッドルームの扉を勢いよくぶち破り、バックヤードの事務スペースに並べられていたパイプ椅子を数脚ドガシャァンとドミノ倒しに弾き飛ばして、ようやく停止した。
「あははははっ! 店長〜、見事なストライクだねっ!」
すぐ上で、アラクネが可愛い目を細めてケラケラと大爆笑している。
俺は全身の激痛に耐えながら、床にへばりついたままアラクネに向かって蚊の鳴くような声で確認した。
「ア、アラクネ……。……俺の首は、まだ俺の胴体に繋がっているか……?」
右頬に刻まれたリゼッタの完璧な掌の手形(二打席目)の激痛を感じながら、俺は再び遠のきかける意識を必死につなぎ止めるのだった。
◇
それから。
久しぶりに三人体制へと戻った迷宮のロー〇ソンは、まさに平和そのものだった。
リゼッタは数日ぶりの出勤とは思えないほど手際よく、久しぶりに会う魔族の常連客たちと「お久しぶりですー!」と軽快なトークを繰り広げ、ついでに新商品の『とれたてイチゴのパフェ』や、おすすめの『からあげクン』を恐ろしい勢いで売り込んでいく。
さすがは魔王の娘、圧倒的なカリスマ接客だ。リゼッタがレジに立つだけで、お店の日販(一日の売り上げ)はあっさりと従来の三割増しを記録した。
一方の俺はといえば、今朝のファーストキス未遂事件によってさらに肥大化した右頬を隠すため、最大サイズのLサイズマスクを深く装着して売り場に立っていた。
それでも、あの最悪の『マイルド角刈り』が日々少しずつ伸びてくれたおかげで、俺の髪型は長かった昭和の暗黒時代をようやく脱し、少しずつ平成のトレンドへと移り変わりつつあった。
──遅れて、待ちに待った昼休憩。
「やっぱり、みんなで食べるご飯は最高にうまいな」
バックヤードの机を囲み、三人で他愛もない雑談を交わしながら、廃棄のコンビニ弁当を口に運ぶ。
誰かとくだらない出来事で笑い合い、突っ込み合いながら食べる食事は、かつて日本の実家で、自室のドアの前に静かに置かれていた『母さんの手作りごはん』よりも、何倍も、何十倍も温かく、美味しく感じられた。
(……母さん、父さん。みんな、元気にしてるのかな……)
ふと、胸の奥から、最近は忙しさで敢えて考えないようにしていた『元の世界』への想いが、濁流のように頭の中に流れ込んできた。
この世界に飛ばされてから、怒涛の勢いで駆け抜けた一ヶ月。
俺が丸ごと消えてしまったあの駅前のロー〇ソンは、一体どうなったのだろう。俺がいなくなった後の世界で、俺の存在はどんな風に処理されているのだろうか。
俺は箸を置き、バックヤードの机の上にずっと放置されていた、自分の『スマートフォン』を手に取った。
もう何週間も触っていなかった、現代文明の遺物。
画面をロック解除し、オフラインでもストコンの電波経由でなぜか繋がる日本のニュースサイトを一通り巡回してみる。だが──どれだけスクロールしても、やはり「ロー〇ソンが店舗ごと異世界に消失した」とか「引きこもりニートが行方不明」などというニュースが報道された形跡は、一ミリたりとも存在しなかった。
「ふぅ……」
俺は小さくため息をつき、そっと目を閉じた。
やっぱり、元の世界において、俺の存在は最初からなかったことになっているのか、あるいは時間が止まっているのか。
確かな答えなど出ない。俺は静かにスマホの画面を暗転させ、再び机の上へとパタンと置いた。
そして、笑い声が響く二人の輪のなかへと、ドカッと椅子を引いて戻っていった。
「ちょっとマモル、食事中にいきなり立ち歩いてんじゃないわよ。行儀が悪いでしょ」
リゼッタがいつものようにジロリと俺を睨み、ツンとした嫌味を飛ばしてくる。
「ごめんごめん、ちょっとスマホの時計を見てただけだって」
俺はへらへらと笑いながら彼女の嫌味を聞き流し、アラクネが唐揚げを口いっぱいに頬張る姿を見て、再び笑った。
元の世界への未練が消えたわけじゃない。サカモトのセ〇ン包囲網だって、西の国のサイコ皇太子レオナルトの脅威だって、何一つ解決してはいない。
だけど──。
俺の居場所は、俺を待っててくれる仲間は、今、間違いなくこの青と白の看板の下にある。
(……よし。まずは、今、ここでできることを全力でやろう!)
プロ店長としてのプライドを胸に、俺は再び箸を握り直したのだった。




