第121話:冷ややかな来店客と、見えていないフリ
俺は客にバレないよう身をかがめ、カウンター内をこっそり移動した。ホットスナックのケースの隙間から、様子を窺う。
男は弁当コーナーから、ゆっくりとスイーツコーナーへと移動していた。
……待て。男の足元を見る。
(あ……歩いてない……!?)
地面から数センチ浮いたまま、まるで滑るように滑らかに移動しているのだ。
俺は口をパクパクと開閉させながら、慌ててアラクネの元へと戻り、椅子にドカリと腰掛けた。
アラクネの耳元に顔を近づけ、絞り出すような小声で話しかける。
「ア……ア……ア……ッ」
恐怖のあまり、次の言葉が出てこない。
「マモル……サカナみたい」
アラクネは俺の顔を見るなり、ケラケラと大声で笑い出した。
ふとレジ横の鏡に映った自分の顔を確認する。口を突き出し、パクパクと必死に動かす姿は……確かに完全に魚だった。
だが、今はそんなことを言っている場合じゃない!
俺は笑い続けるアラクネの口を強引に両手で押さえつけた。
「静かにしろ! 奴に聞こえるだろ!」
深呼吸を一度し、心を落ち着かせてからアラクネに話しかける。
「いいか、よく聞けよ。やっぱりあいつは人間じゃないし、モンスターの類でもない……『幽霊』だ」
「ゆうれい?」
「そうだ。幽霊だ」
「ゆうれいって、なに?」
「えっ……何? お前、幽霊知らないの!?」
「しらない」
「あーもうっ!!」
俺は頭を激しく掻きむしりながら、アラクネに「幽霊とは何たるか」を急いで伝授した。アラクネは「ウン、ウン」と頷きながら聞いている。
「……分かったか?」
「うん!」
アラクネは無邪気で明るい笑顔で答える。
……絶対分かってないな、これ。
まあいい。最悪、あいつが襲ってきても、戦闘力抜群のアラクネなら物理(あるいは魔法)で何とかしてくれるだろう。
問題は俺だ。俺はただの生身の人間だ。幽霊と正面切って戦えるわけがない。
俺は引きこもり時代に読み漁ったホラー漫画の知識を必死に思い起こしていた。
確か、有名な霊媒師が監修した本格ホラー漫画の中に、こう書いてあったはずだ──『幽霊が見えても、絶対に気が付かないフリをしろ。幽霊は自分の姿が見える人間に助けを求めて憑依してくる。だから、見えていないフリをし続けることこそが最大の防御である』と!
そう……霊感ゼロの振りを決め込める人間こそが、この状況において最強なのだ!
「アラクネ。俺はこれから何があろうと、あの男が『見えていない体』で行動する。お前も俺に合わせて無関心を装え……いいな?」
俺の迫真の念押しに、アラクネがコクリと頷いた。
しばらくすると、男がスーッと滑るような足取りでレジカウンターの方へと近づいてきた。
当然、俺は全く気が付いていないフリを決め込む。
アラクネも俺の言った通り、男を完全に無視して弁当コーナーの商品整理に向かった。
(……クソッ! 俺がそっちの作業に行けばよかった……!!)
後悔で泣きそうになりながら、俺はホットスナックのトングを握り締め、からあげクンの位置を何度も無駄に並べ替えてやり過ごそうとする。
ついに、男が俺の目の前──カウンター越しにピタリと立った。
視線を逸らすわけにはいかない。なぜなら、俺にはその男の姿が「見えていない」のだから。俺はただ、誰もいない正面をぼんやり眺めているだけの店員……!
だが、現実にはその男の顔が視界の半分をドアップで占領している。
まじまじと見ると、とてつもなく怖い。焦点を結ばない生気のない目。青白く変色した唇。その唇は、寒さからか小刻みに震えている。
『あのー……』
男が俺に向かって話しかけてきた。
俺は絶対に返事をしない。なぜなら見えていないし、声も聞こえていないからだ。
俺はたまらず顔を少し横に向け、遠くにいるアラクネに向かって大声で話しかけた。
「ア……アラクネ~! きょ、今日はお客さんもいないし、そ、そんなに丁寧に陳列しなくてもいいぞー!」
「うん!」
アラクネがヘラヘラしながら応える。
「ア、アラクネ……! お前にこっちのレジを頼もうかな……俺はバックヤードで発注作業があるし……」
そう言ってカウンターから逃げ出そうとした瞬間、男がスッと横に移動した。
カウンターと壁のわずかな隙間を男の身体が完全に塞ぎ、俺の退路は完璧に断たれた。
俺は引きつった笑みを浮かべ、必死に独り言を続ける。
「あ……そ、そうだった! 発注はさっきやったんだった! アラクネ……俺、ついうっかりしちゃったよ。あ……あまりにもお客さんが来ないから……う、うっかりしちゃったよ……ハハ……」
バックヤードへ逃げない理由をわざとらしく空に向かって言い訳した、その時──。
『……見えてますよね?』
ドクン……! ドクン……!
心臓が破裂しそうなほど狂ったように脈打ち始める。
「ア……アラクネ~……! こっちに来て話そうよ~……!」
上ずった情けない声でアラクネに助けを求める俺。
男はさらに身を乗り出し、俺の目の前数センチまで顔を近づけて、もう一度言った。
『見えてますよね? ……さっき「いらっしゃいませー」って言いましたから』
「ノーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!」
己のあまりの軽率さと愚かさに猛烈なめまいが差し込み、俺の視界は真っ暗になった──。




