第117話:公安の男と、嵐の前の日常
俺が休憩室に入ると、ベッドの千石さんが上半身を起こし、軽く手を上げて見せた。全身包帯だらけの痛々しい姿だが、その鋭い眼光は幾分か回復したように思う。
「大丈夫ですか……?」
俺はベッドの横の椅子に座り、千石さんに声をかけた。
「ああ、おかげさまで助かったよ」
千石さんはそう言って、どこか力なく微笑んだ。
「いったい何があったんですか? その大怪我は……」
俺が尋ねると、千石さんはベッドの脇にかけてあったコートの内ポケットへと手を伸ばし、警察手帳のような革製の手帳を取り出した。
「命の恩人に嘘はつけないからな」
そう言って、手帳を開いて俺に見せてくる。
「これって……」
そこに刻まれた金色の警察章と身分証の文字を見て、俺は思わず目を見開いた。
「警察庁警備局 外事課──異事象特別対策班の千石だ。まあ、いわゆる公安ってやつだな」
「ええええええええええええええええッッッ!!!!???」
あまりにも衝撃的すぎる肩書に、俺は思わず大声を上げて椅子から立ち上がりそうになった。
「そ、それで……その公安の千石さんが、一体なんでこんな異世界に……?」
「コンビニ大手三社の動きが怪しいとタレコミがあってね。それで極秘裏に捜査を進めていたんだが、やがて異世界に通じる【ゲート】の存在にたどり着いたってわけだ」
「千石さん……一人でここに来たんですか?」
「悪いが、これ以上は話せないな。超極秘事項なんでね」
「そうですか……。でも、なんでまたそんな大怪我をしてるんですか?」
「……ちょっと潜入捜査に失敗してね」
そう言って、千石さんは苦笑いを浮かべた。包帯の隙間から覗くおびただしい数の傷跡が、彼が潜り抜けてきた過酷な修羅場の数を無言で物語っている。
「なんで……うちの店に来たんですか?」
俺の問いに、千石さんは俺の目をまっすぐに見つめて答えた。
「君が……一番信用できそうだったから、かな」
「なんですかそれ……」
俺が呆れたように呟いたその時、千石さんが「ぐっ……」と顔を歪めて腹部を押さえた。
「いっ……つ……」
「あっ! すみません、喋らせすぎましたね。今はとにかくゆっくり休んでください」
俺が慌てて立ち上がり、部屋を出ようとしたその時──ガシッと強い力で腕を掴まれた。驚いて振り返ると、千石さんが真剣な眼差しで俺を見上げていた。
「俺がここに潜伏していることは、絶対に誰にも言わないでくれ。今は誰が味方で、誰が敵かもわからない状況だ」
「ロー〇ソンの本部にも……ですか?」
「ああ、そうだ」
「……わかりました。スタッフにもそのように伝えておきます」
「すまない……」
そう言うと、千石さんはゆっくりと手を離し、ベッドにあおむけになった。
──部屋を出た俺は、アンナちゃん、ルカ君、アラクネを集め、千石さんの正体と今の状況をかみ砕いて伝えた。
「なんか……話がどんどん大きくなっていきますね……」
ルカ君がストコンの前で少し怯えたように俺に言った。
「そうだね……。なんか……怖いや」
俺は苦笑いしながら答えた。とにかく……今は千石さんの傷が癒えるまで、いつも通りの日常を演じきるしかない。
「ルカ君、サカモトに伝えてくれ。今はロー〇ソンに来ない方がいい、しばらくはセ〇ンの工場でおとなしくしとけって」
「わかりました!」
ルカ君は頷くと、ストコンへ向かって歩き出した。
売り場へ戻ると、ちょうど出勤してきたリゼッタと鉢合わせた。
「おはよう、マモル!」
底抜けに明るい笑顔で挨拶される。それだけでどこか胸の奥がじんわりと癒されていく。
「おはよう、リゼッタ」
俺も挨拶を返す。サカモトの救出から千石さんの看病まで、もう何ヶ月も経ったかのような錯覚を覚えるが、すべてはほんの半日足らずの出来事だ。本当に、長い長い一日だった。
俺はリゼッタにも、問題のない範囲でこれまでの経緯を説明し、千石さんを休憩室で匿っていることを伝えた。
「任しといて! 誰が来てもぶっ飛ばしてやるから!」
そう言ってリゼッタは袖をまくり、腕をぐるぐると回して頼もしく胸を張る。
「レオンにも話して警備させようかしら? あの子、最近しばらく暇だって言ってたし」
「……いや、それだけは絶対にやめてくれ」
俺はリゼッタの危険すぎる提案を全力で即座にお断りした。あいつを一号店に呼んだら、警備どころか隙を見て俺たちの寝首をかきかねない。
とにかく、千石さんの身体が回復するまでは、できるだけ静かに、何事もなかったかのように過ごすしかないんだ──。




