第七話:城代の眼
夜半過ぎ。
カイは太郎丸を背負って、城門を出た。
足軽の出入りは、夜明け前の交代のために常に何人かが行き来している。傷を負った同期を背負っていれば「どうした」と問われるのは当然だが、カイは正直に答えた。
「長屋で、太郎丸が古参に踏まれた。先に薬師に運ぶ。組頭には朝、報告する」
門番の足軽は、しばらくカイを見つめた後、何も言わずに脇に退いた。
太郎丸の腹からは、応急で塞いだはずの傷から、また薄く血が滲み始めていた。
『応急』は、完治させるスキルではない。流出を止め、体力を5回復させる——それだけだ。城下の薬師まで、四半刻。間に合うかは、太郎丸の体次第だった。
——
城下、北の辻。
夜中でも灯りを点けている薬師の戸を、カイは木刀の柄で叩いた。
「薬師殿。城の足軽の急患でございます。御開けくださいませ」
戸は、思ったより早く開いた。
「……何だ、こんな夜中に」
出てきたのは、白髪混じりの老医師だった。眠そうな目をしていたが、太郎丸の腹を一目見るなり、目つきが変わった。
「腹を、踏まれたか」
「はい。一刻ほど前のことです。応急の手当ては施しましたが、これ以上は私の手に負えません」
老医師はカイの顔を一瞥し、すぐに太郎丸を中へ運び入れた。
「銭は、後で構わん。死んでからじゃ何も始まらん」
カイは深く頭を下げ、太郎丸を引き渡した。
(……ここの薬師は、まともだ)
老医師の指先は、慣れた手つきで太郎丸の腹を診ていた。
「肝が腫れておる。だが、出血は止まっておる。お前、何をした」
「水で冷やしました」
カイは、応急のことを話さなかった。スキルの存在は、伏せておくに越したことはない。
老医師は、それ以上は問わなかった。
「夜明け前には、容態が定まる。それまで、お前は城に戻れ。後はわしがやる」
「お願いいたします」
カイは銭袋を懐から出そうとしたが、老医師は手で制した。
「明日、城代から通達があるはずだ。城内での負傷は、城が銭を立て替える決まりがある。お前個人が払うべき筋ではない」
(……そんな決まりがあるのか)
カイは、もう一度頭を下げ、薬師の戸を出た。
——
城に戻る道すがら、カイの『野性の勘』が、もう一度、あの気配を捉えた。
闇の角。完璧に殺された生命反応。
(……まだ、見ているのか)
カイは振り返らなかった。振り返れば、相手は気配を消す。それは前回で分かっていた。
代わりに、カイは歩を進めながら、頭の中で整理した。
(——あの気配、敵か味方かは分からない。だが、長屋の事件を最初から見ていた可能性が高い。なら、城内のどこかに「俺を見ている誰か」がいるということだ)
(——上の人間か、それとも下の人間か)
カイには、まだ答えはなかった。
ただ、自分が「見られる側」になったという事実だけが、確かに腹の底に沈んだ。
——
夜明け。
カイが長屋に戻ると、すでに長屋の中は騒然としていた。
佐吉は床に転がったまま、白目を剥いて意識が戻らない。兵助は隅に座り込み、震えながらカイを見ていた。他の足軽たちは、藁布団から半身を起こし、声を潜めて事の成り行きを見守っている。
戸が、勢いよく開いた。
組頭の荒木田が、踏み込んできた。
「なんだ、この有様は! 佐吉、兵助、何があった!」
兵助が、震える指でカイを指した。
「……こ、こやつが、佐吉さんを……」
荒木田の目が、カイに向いた。
「カイ。お前か」
「はい」
カイは、淡々と答えた。
「同期の太郎丸が、佐吉、兵助に踏まれていました。体力——いえ、命の危険があると判断し、止めに入りました。佐吉は応戦してきたので木刀で制圧、兵助は脇差を抜こうとしたので木刀の切っ先で押さえました。太郎丸は、すでに城下の薬師に運んであります」
荒木田の眉が、跳ね上がった。
「勝手に、城下に出たのか」
「はい。組頭にお許しを得る時間はございませんでした。太郎丸の容態が、それを許しませんでした」
「それは——お前の判断か」
「はい」
(……来るなら、来い)
カイは、内心で身構えた。
荒木田は、佐吉と兵助の縁続きだ。私情で考えれば、カイを処断したい立場にある。だが——
「……お前、足軽になって何日だ」
「五日でございます」
「五日で、城内の規律をひっくり返したわけだ」
荒木田の声は、低く沈んでいた。
カイは、答えなかった。答えるべき問いではない。
荒木田は、しばらくカイを睨みつけた後、太い溜息をついた。
「……上に報告する。お前の処分は、私の裁量を超えた。ここで動くな」
「承知いたしました」
——
四半刻後。
長屋に呼び出しが来た。
「足軽カイ、本丸書院へ参られたし」
呼び出しに来たのは、若い祐筆だった。先日、廊下ですれ違った——カイが「武力22/30、知力48/65」と読んだ男だ。
(……本丸書院。組頭の上、物頭、いや、それより上か)
カイは木刀を置き、最低限の身仕舞いを整えて、祐筆について本丸へ向かった。
本丸の廊下は、足軽長屋とは別世界だった。磨き上げられた板間、整然と並ぶ襖、空気の冷たさまで、明らかに格が違う。
書院の前で、祐筆が頭を下げた。
「カイ、参上いたしました」
「通せ」
中から、低い声が返った。
カイは襖を開け、書院に入って、雪の上ではなく板間に膝をついた。
書院の上座には、四十前後の武士が一人、座していた。
濃紺の直垂、髷は端正、背筋は崩れない。眼光は鋭いが、それは威圧というより観察の目だった。
カイは深く頭を下げた。
「足軽カイ、参じました」
「面を上げよ」
カイは顔を上げた。
そして、その武士の姿を視認した瞬間——『野性の勘』が、声を上げずに警鐘を鳴らした。
(……重い。城に入って以来、すれ違った誰よりも、重い)
数値は読めない。だが、気配の重さだけで、太田や荒木田とは比較にならない格上であることが分かった。
「私は近藤忠吾。城代家老・佐久間殿の下で、城内の人事と規律を預かっておる」
(……家老格の側近、か)
カイは、もう一度頭を下げた。
近藤は、書状を一枚、手に取った。
「事の仔細は、荒木田から上がっておる。お前の言い分も、書きつけてある。だが、私が知りたいのは、書面に書かれぬことだ」
「……何なりと、お聞きください」
「お前は、なぜ太郎丸を助けた」
カイは、一拍、考えた。
(……「同期だから」と言うのが模範解答だ。だが、それで足りるか?)
カイは、自分の言葉を選んだ。
「太郎丸の体に触れたとき、命があと数呼吸しか持たないと、肌で分かりました。私が動かねば、誰も動かない。それは、長屋の理でございました。理を変えるなら、私が動くしかなかった。それだけのことです」
近藤の眉が、わずかに動いた。
「『理を変える』、と申したか」
「はい」
「足軽五日目の新入りが、口にする言葉ではないな」
カイは答えなかった。沈黙が、肯定でも否定でもない、ただの「事実の提示」になることを、カイはすでに知っていた。
近藤は、しばらく書状を見つめた後、目を上げた。
「お前を、どう処すべきと思う?」
(……来た)
カイは、自分の頭を急ぎ回転させた。
(——近藤様は、俺を試している。「処分されるべきです」と答えれば従順、「お咎めなしを」と言えば不遜。どちらでもない、第三の答えが要る)
「私は、規律を破りました。長屋の私闘も、城下への無断外出も、足軽の本分ではございません。お咎めは、当然のものとしてお受けいたします」
「で、あろう」
「ただ、一つだけ申し上げます。長屋で起きた『儀式』は、長年放置されてきたものと聞きました。今宵、私が動いたことで、それは止まります。お咎めの後、私を長屋に戻していただけるならば——もう二度と、長屋から夜中の呻き声は上がらないでしょう」
近藤の目が、細められた。
「……新入りが、長屋を取り仕切るというのか」
「取り仕切るのではございません。動く者がいる、と知らせるだけです。それで、十分でございます」
カイは、頭を下げたまま続けた。
「もし私が長屋を出されるか、あるいは罰として処断されるのなら、儀式は元に戻ります。それは、近藤様のご判断です。私が決めることではございません」
書院に、静寂が落ちた。
カイは、頭を下げたまま、自分の心音を数えていた。
『冷静沈着』は使っていない。使えば、近藤の重い気配を勘で読む手段を失う。今はそれが惜しかった。だから、自分の頭だけで、ここまで組み立てた。
近藤は、しばらく無言だった。
そして、ふと、笑った。
低く、短く。
「……荒木田が、お前を持て余すわけだ」
カイは、頭を下げたまま、何も答えなかった。
「処分は、こうする。城下への無断外出は不問。長屋の私闘については、佐吉と兵助の暴行が先に立証されておるゆえ、お前の行為は『正当防衛および同期の救助』とする。ただし、佐吉が肝を潰され、回復の見込みは薄い。これについては、お前に過剰な打撃の責が一片ある。罰として、向こう三月、長屋当番の早朝厩掃除を倍とする」
「……はっ。承知いたしました」
カイは深く頭を下げた。
(——軽い)
明らかに、軽い処分だった。長屋の規律違反者として、本来なら鞭打ちか減俸が相場のはずだ。それを「厩掃除二倍」で済ませた。
近藤は、それを承知の上で、軽く処したのだ。
「下がってよい」
「ありがとうございます」
カイは、頭を下げて立ち上がった。
襖を閉める寸前、近藤の声が、もう一度かかった。
「カイ」
「はい」
「お前の名は、覚えておく」
——
書院を出たカイは、長い廊下を歩きながら、自分の手のひらを開いた。
知らず、汗で濡れていた。
(……家老格の武士相手に、よく口が回ったな、俺)
『冷静沈着』を使わずに切り抜けたことが、自分でも信じられなかった。スキルに頼らずとも、思考は鍛えれば回る——その実感が、また一つ、カイの中に積み重なった。
すれ違いざまに、先ほどの祐筆が頭を下げた。
「カイ殿」
「はい」
「ご無事で何よりです。……書院の中で、笑い声が聞こえました。近藤様が下の者の前で笑われるのは、年に数度のことです」
カイは、軽く会釈をして、廊下を歩いた。
(……年に数度。それを、俺は引き出した)
カイの胸の中で、確かな手応えが広がっていた。
——
その日の夕刻。
太郎丸が、城下の薬師から長屋に戻された。
腹に大きな晒布を巻き、まだ歩くのは辛そうだったが、確かに自分の足で立っていた。
長屋に戻った太郎丸は、入り口でカイを見つけると、無言で深く頭を下げた。
カイも、無言で会釈を返した。
それで、十分だった。
——
夜。
長屋の藁布団の上で、カイは目を閉じた。
佐吉は、別の場所に移されていた。意識の戻る見込みは薄いという。兵助は、長屋には残っていたが、隅で身を縮めて、誰とも目を合わせなかった。
長屋の他の足軽たちの空気が、明らかに変わっていた。
カイへの視線が、警戒と——ある種の畏敬を含むものに変わっていた。
(……長屋は、当面、静かになる)
【経験値を獲得:城内派閥構造への足掛かり、上位者からの認知を確認】
【レベル:6 → 7】
【全基本能力値の天頂が上昇】
カイの脳内で、再び黄金の樹が、少し深く根を伸ばした。
【対象:カイ】(17歳・Lv.7)
【職】:足軽
【体力】:54 / 54 (+6)
【武力】:35 (+1)
【知力】:41 (+3)
【魅力】:58 (+3)
【統率力】:32 (+4)
【SP】:5
(……知力41。魅力58。統率力32)
数字の上昇に、戦闘での伸びとは違う傾向があった。武力はわずか1。だが、知力・魅力・統率力が、それぞれ3〜4も上がっている。
(——近藤様との対話で、伸びたのか。人と話すこと、人を動かすことで、こっちの数字が伸びるのか)
カイは、それを心に刻んだ。
(——力で伸ばす数字と、頭と言葉で伸ばす数字。両方、要る)
廊下の方から、また、あの足音が聞こえた気がした。
軽く、重心が低い、足音のない歩み。
カイは、目を閉じたまま、心の中で呟いた。
(……お前は、誰だ)
返事は、ない。
ただ、気配はゆっくりと遠ざかっていった。
——
■ 第七話・終 現在のステータス
【対象:カイ】(17歳・Lv.7)
【職】:足軽
【体力】:54 / 54
【武力】:35(剛力使用時:60)
【知力】:41
【魅力】:58
【統率力】:32
【SP】:5
【保有スキル】
野性の勘(Lv.1)/剛力(Lv.1)/鑑定(Lv.1)/冷静沈着(Lv.1)/交渉(Lv.1)/応急(Lv.1)




