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第三話:主の咆哮、泥中の牙

カイは雪を蹴って走りながら、走りながら、もう一つの問題を考えていた。


(……あの三人が村に戻れば、五郎にすべてを話す。そうすれば、五郎はハナに報復する。腹いせに、死にかけのハナを引きずり出して、雪の中に放り出すかもしれない)


胸の奥がチリッと焼けた。


(……だめだ。先に手を打たないと、熊を狩っても、戻った時にはハナが死んでいる)


カイは足を止め、雪道の真ん中で振り返った。


『野性の勘』を絞り込む。


(あの三人、どこまで戻った)


森の方から、村の方角へ意識を伸ばす。気配は——遠ざかっていた。だが、まだ叫び声が届く距離にはいない。意識を失った先頭の男を、二人がかりで担いでいるのだろう。動きが鈍い。


(間に合うかもしれない)


カイは森に入る前に、もう一つ寄り道をすることにした。


——


村の外れ、東の端。


そこに、寡婦の老婆・おおきちの小屋がある。


夫を流行り病で亡くし、子もいない。村の中では誰よりも貧しいが、誰よりも他人の痛みを知っている女だった。何度かハナに、温かい湯を分けてくれたことがある。


カイは雪を払って、お吉の小屋の戸を叩いた。


「お吉婆さん。カイです」


「……カイかい? こんな朝早くに、どうした」


戸を開けたお吉は、カイの顔と、肩に担いだ古槍を見て、目を丸くした。


「……あんた、何をしようとしてる」


「お吉婆さん。頼みがある」


カイは、雪の上に膝をついた。


「ハナを、しばらく預かってほしい。今すぐ。俺は、北の森に行く。戻るまで、村の人間に見つからないところに、ハナをかくまってくれ」


お吉の目が、ゆっくりと細められた。


「……北の森だって? あんた、死ぬ気かい」


「死にに行くんじゃない。ハナを生かすために行く。だから、戻るまでハナを頼む」


カイは懐から、五郎の取り巻きから奪った銅銭——男の懐にあった僅かな小銭を取り出した。


「これは少ないけど、礼だ。それと、もし俺が戻らなかったら、ハナを売ってでも生かしてやってくれ。婆さんなら、それくらいできるだろう」


「馬鹿言うんじゃないよ」


お吉はカイの手を押し戻し、銅銭を雪に落とした。


「あんたみたいな子供に、こんな物差し出されちゃ、こっちが困るんだよ。……いいから、ハナはあたしが見る。村の連中が探しに来ても、知らんって言ってやる。あたしの小屋の床下、隠れる穴があるんだよ。亭主が生きてた頃に、年貢から逃げるために掘っといた」


「……婆さん」


「行きな。早く行け。ハナはあたしが守る」


カイは深く頭を下げ、立ち上がった。


ハナを背負って、お吉の小屋に運び込むまで、四半刻もかからなかった。床下の穴は、人が二人横になれる程度の広さで、藁が敷かれていた。お吉は手早くハナに毛布を巻き、湯を含ませた布で口を湿らせた。


「兄様……どこ、行くの……」


ハナの掠れた声に、カイは妹の頬に手を当てた。


肌は燃えるように熱く、指先は氷のように冷たい。命の中心だけが燃えて、末端から凍えていく——そういう熱だ。呼吸は浅く、間が空く。


(……一刻、いや、半日もたない)


「すぐ戻る。お前を助ける薬を取りに行く」


カイは妹の額に短く触れ、立ち上がった。


——


北の森。


村の住人が「神域」と呼び、同時に「死地」として近づかない禁足地だった。


弥生の空から落ち始めた雪は、森に入るほどに密度を増していく。何百年も立ち続ける杉の巨木が、侵入者であるカイを無言で見下ろしていた。


「……ハァ、ハァ……」


カイの肺は、氷を吸い込んだように痛む。


普通の水呑なら、この森に入って数町(数百メートル)も行かぬうちに凍えて倒れるだろう。だが、今のカイには『野性の勘』があった。


(……あそこだ。あそこに、「死」が渦巻いている)


【スキル:『野性の勘(Lv.1)』発動中】


視界の先、距離にして百間(約180メートル)。吹雪の向こう側に、赤黒く脈打つ「気配の塊」が見えていた。


数値は読めない。だが、その気配の重さだけで、これまで出会ってきたどんな獣とも比較にならないことが、カイにはわかった。


(……勘が「桁違いに格上」と告げている。今までの取り巻きとも、五郎とも、比べ物にならない)


カイは雪に伏せ、気配を殺しながら、ゆっくりと近づいた。


途中、雪に半ば埋もれた「幸運」を見つけた。


大型のトラバサミ。


かつて、主を狩ろうとして返り討ちに遭った猟師が、放置していったものだろう。錆びついて、半分は土に還りかけているが、バネを試してみると、まだ「歯」は生きていた。


(……まともに戦えば、勝てない。それは確実だ)


カイは慎重に、戦場を整え始めた。


主が通るであろう獣道。倒木の影にトラバサミを設置し、枯れ葉と雪で巧妙に隠す。さらに、自分の身体に道中で見つけた獣の腐肉を擦り込む。人間としての臭いを消し、飢えた捕食者を誘い出すための「死臭」だ。


『野性の勘』が、罠を仕掛ける場所を「ここだ」と教えてくれた。獣の通り道の、最も足を抜きにくい雪溜まり。倒木との位置関係。風向き。すべての要素が、罠の効果を最大化する一点を指し示していた。


そして、頭の中で算段を組み立てる。


(……剛力は、一度しか撃てない。クールタイム30分。その30秒で、決める)


(罠で前脚を奪う。怒り狂って向かってくる。仕損じれば、即死。だが、勘で次の動きが読める。当てるのは、急所——喉だ)


準備が整った時、森の空気が震えた。


「……グ、オォォォォォン……ッ!」


大気を揺さぶる重低音。


杉の枝に積もった雪が、咆哮だけで雪崩のように落ちてくる。


闇の中から現れたのは、もはや熊という言葉では言い表せない、黒い「岩山」だった。


体長は優に一丈(約三メートル)超。凍りついた剛毛は鎧のように硬く、無数の傷跡が歴戦の証だ。そして、その顔面には、かつて猟師の矢を弾いたであろう、潰れた片目があった。


カイは『野性の勘』を最大限に絞った。


数字こそ読めないが、勘がそう告げていた。比較対象は——五郎の何倍、いや、何十倍か。


黒熊が鼻面を空に向け、クンと鳴らした。


腐肉の臭い、そしてその奥に潜む「生きた餌」の匂いを嗅ぎつけたのだ。


残った片目が、ギラリと光る。


「……来いよ、山の主」


カイは倒木の影から飛び出した。


——


黒熊が咆哮し、雪原を爆走する。地響きが足元まで伝わり、本能が「逃げろ」と絶叫した。


だが、カイは動かなかった。


『野性の勘』が、熊の突進の軌跡を、青い線として網膜に描き出している。右前脚の踏み込み。左前脚の振り上げ。次に来る一撃の方向まで、すべて見えていた。


(……今だッ!)


熊が右前脚を大きく振り上げた瞬間、カイは横に転がった。


直後——ガチィィィィン! という、耳を劈く金属音。


「ギャアアアアアアアァァァァァッ!!」


黒熊の悲鳴が地を這った。


隠されたトラバサミが、熊の右前脚を深く食い込んで噛んだ。錆びた鉄の歯が肉を裂き、骨に達する。熊は激痛に暴れ、周囲の巨木をなぎ倒すが、トラバサミに繋がれた鎖がそれを許さない。


だが、主はそれでも止まらなかった。


前脚一本を犠牲にしながら、熊は三本足で立ち上がり、左の剛腕をカイに振り下ろした。


「がはッ……!」


回避しきれなかった。


熊の爪が、カイの左肩から胸元を引き裂いた。ボロ布が千切れ飛び、鮮血が雪原を真っ赤に染める。


【ダメージ:6。体力 11 → 5 / 20】


カイは数間(数メートル)吹き飛ばされ、巨木の根元に叩きつけられた。


視界が真っ赤に染まり、急速に体温が失われていく。


(……痛い。熱い。寒い……)


朦朧とする意識の中、ハナの顔が浮かんだ。


『兄様……苦しい……』


あの小さな、震える声。


ここで俺が死ねば、お吉婆さんの床下で、ハナは独りぼっちで息絶える。誰にも看取られずに。


「……ふざけるな。死ぬのは、お前だ……ッ!」


カイは雪を噛み、無理やり意識を引き戻した。


黒熊が、前脚を食いちぎる勢いで鎖を引きちぎり、止めを刺さんとカイに迫る。


距離、わずか三歩。


カイは雪の中に半ば埋まっていた「折れた矢」を掴んだ。先ほど、熊の足元に転がっていた猟師の遺物。穂先は今も、鋭利な殺意を保っている。


(この一撃に、すべてを賭ける)


カイは槍を捨てた。槍では、剛力を込めても、毛皮の鎧を貫けない。だが、折れた矢の細い穂先なら——喉元の毛の薄い部分に、一点突破で潜り込ませられる。


『野性の勘』が、熊の喉元の「急所」を、淡い光で示していた。


「『剛力』ッ!」


【スキル:『剛力(Lv.1)』発動】

【現在体力 5 の一割を消費——切上げ1消費】

【体力:5 → 4 / 20】

【一時補正:武力 20 → 45(+25)】

【効果時間:30秒】


カイの体内で、何かが爆発した。


体力5の状態だ。消費は1。だが、この最後の1割で、生きるか死ぬかが決まる。


血管が浮き上がり、皮膚が内側から裂ける。残り少ない体力を燃料に、肉体が限界の出力を叩き出した。


「うおおおおおおおおおッ!!」


カイは熊の顎の下——『野性の勘』が示した唯一の弱点、毛の薄い喉元へと飛び込んだ。


肉が裂ける感触。


骨を砕く手応え。


折れた矢の穂先が、剛力のすべてを乗せて、熊の喉笛から頸椎までを貫通した。


「……ガ、……フッ……」


黒熊の巨体が、スローモーションのようにカイの上に崩れ落ちてきた。


熱い血の雨が、カイの全身を濡らす。


カイは意識が深い闇に沈むのを感じながら、それでも獲物の喉元から手を離さなかった。


——


どれほどの時間が過ぎたのか。


森を支配する死の静寂を、冷たい「声」が切り裂いた。


【強敵の撃破を確認。莫大な経験値を獲得します】

【レベル:1 → 4】

【全基本能力値の天頂が上昇。SP:15を獲得します】

【レベルアップ報酬:体力が最大値まで全快します】


「……あ、あぁ……。生きて、るのか……俺は……」


カイの身体を、温かな光が包んだ。


引き裂かれた胸の傷が塞がっていく。折れかけていた肋骨が、音を立てて繋がる。


重なった黒熊の巨体を押し除け、カイは立ち上がった。


末端の細胞にまで、これまで知らなかった活力が満ちていた。


【対象:カイ】(17歳)

【職】:水呑百姓

【体力】:36 / 36 (+16・全快)

【武力】:30 (+10)

【知力】:33 (+3)

【魅力】:51 (+1)

【統率力】:22 (+2)

【SP】:15


(……数字が、上がった。レベルが上がる、というのは、こういうことか)


カイには、まだその意味の重さは分からない。だが、自分の身体が確実に「別物」になったことだけは、肌で分かった。先ほどまで熊の一撃で吹き飛ばされた身体ではない。膝の安定感も、腕の重みも、全てが違う。


カイは、傍らに横たわる「北の森の主」を見つめた。


己の命を奪おうとした死神は、今や冷たい肉の塊に過ぎない。


カイは鉈を使い、熊の腹を割いた。万病に効くという真っ黒な「胆嚢」を取り出す。さらに、最も血の気の多い肉を、震える手で切り出した。


(これがあれば、ハナは助かる。……待ってろ。今すぐ戻る)


カイは熊の毛皮を剥ぎ取り、それを背負って森を走り出した。


レベルアップした肉体は、雪を蹴立てて疾走する。


だが、森を抜けたカイの耳に、風に乗って届いたのは、村の方向から響く声だった。


「水呑のカイの妹を出せ! お吉婆さん、匿っておるのは分かっておるぞ!」


それは、五郎の声だった。


カイの瞳に、激しい怒りの炎が宿る。


(……取り巻きの三人が、戻ったか。早く動いたな、五郎)


だが、お吉の床下の隠し穴を、五郎は知らないはずだ。


(間に合う)


雪煙を上げ、カイは修羅の形相で里へ駆け戻った。


最底辺の少年に宿った『将星の系譜』が、今、最初の下剋上を告げようとしていた。


——


■ 第三話・終 現在のステータス


【対象:カイ】(17歳・Lv.4)

【職】:水呑百姓

【体力】:36 / 36

【武力】:30(剛力使用時:55)

【知力】:33

【魅力】:51

【統率力】:22

【SP】:15


【保有スキル】

 野性の勘(Lv.1)/剛力(Lv.1)


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