第十話 広がるのは深い闇
灰色の雲が空を覆っている。その隙間を縫うように、月の光がかすかに地上を照らしていた。
静かだ。自分の呼吸音すら、やけに大きく感じる。
俺は木々の影に身を潜めながら、白の研究所を見つめていた。胸元に手を当てる。
隊服の紋章に触れた指先に、ほんの少しだけ自分の体温が残る。
……落ち着け。
ゆっくり息を吐いた。
******
俺は今、白の研究所を見張っている。
正直、まともな作戦とは言えない。でも、考えた末にこれが一番マシだと思った。――誰にも見つからない状況を作るより、誰に見つかっても言い訳できる状況を作る。だから俺は、あえて隊服を着てここに来た。手に持っているのは、ペン一本。もし見つかったら「落とし物を探していた」で押し通すつもりだ。
罪人の護送の日を選んだのも、そのため。
多少無理があっても、理由としては通る……はず。
……たぶん。
そこまで考えて、思考を放り投げた。正直、それ以上まともに考えられなかった。頭の中にあるのは、あの日のことばかりだ。
******
――緑の研究所。
エアフォルと向かい合ったあの部屋の空気を、今でもはっきり覚えている。
「よく来ましたね」
資料をめくりながら、あの人は何でもないことみたいに言った。
「罠かもしれないとは思いませんでしたか?」
その言葉に、喉が鳴る。
けど――
「思いました」
ちゃんと答えられた。
「状況だけ見れば、口封じされてもおかしくないと思います」
エアフォルの視線が、少しだけ鋭くなる。
「ですが、あなたたちがそれをするとは思っていません」
「信頼、ですか?」
「いいえ」
即答した。
「無条件に信用しているわけじゃありません」
それでも。
「あなたたちの、動植物に対する想いは信じられると思っています」
少しだけ、間を置く。
「それに……他人からどう見られるかすら気にしない人たちが、俺なんかに手間をかけるとも思えません」
我ながら、言い方はよくなかったかもしれない。でも、嘘は言ってない。
エアフォルは一瞬だけ目を細めて――笑った。
「なるほど」
くすりと、小さく。
「ちゃんと見ていますね」
その笑い方は、嘲りじゃなかった。
……少なくとも、そう思えた。
「では本題に入りましょう」
空気が変わる。
そして。
「結論から言います」
エアフォルは淡々と告げた。
「例の獣の発生は、人為的なものです」
――息が止まった。
「我々は現場から血液を回収しました。その分析結果から、麻酔成分が検出されています」
頭が、追いつかない。
「自然に摂取されるものではありません。つまり――誰かが意図的に使った」
誰かが。
あの獣を。
作った。
思考がぐちゃぐちゃになる。
怪我をした仲間。
怯える住民。
そして――あの人。
全部が繋がっていく。
必死に視線を戻す。
まだ、聞かなきゃいけない。
――なのに。
「そして」
エアフォルは、さらに言った。
「白の研究所が関わっていると、我々は考えています」
――思考が止まった。
******
……どれくらい時間が経っただろう。気がつけば、月は高く昇っていた。
そのときだった。動きがあった。息を殺して、目を凝らす。
――人影。しかも、一人や二人じゃない。集団だ。暗がりの中を、列をなして進んでいる。
そして気づく。
あれは――城の敷地から出てきている。
嫌な予感がした。
さらに目を凝らす。……繋がれている。
両手を。あの歩き方。あの雰囲気。見覚えがある。――罪人だ。ただ、一つ違う。誰も暴れていない。静かすぎるくらい、従っている。
まるで――操られているみたいに。先頭の男が、集団を引いていく。向かう先は――白の研究所。
そのまま中へ入っていった。先頭の男だけが、その場で止まる。
そして、踵を返して城へ戻っていく。姿が見えなくなった瞬間、俺は息を吐いた。
力が抜ける。木にもたれかかる。目を閉じる。
……考えろ。これは何だ。何が起きてる。深く、ゆっくり呼吸する。
目を開けると、月がやけに明るかった。冷たい光が、現実を突きつけてくる。
そして、気づく。
あの男。
あの先頭にいたやつ。
――俺と同じ。
黒の隊服を着ていた。
引き続き楽しんでいただけたら嬉しいです。




