17
――弥歌ちゃんを恐ろしく思うようになったのは、いつ頃からだろうか。
それは多分、あの日の、体育の授業中の――
*
まだ五月の初めだというのに、随分と蒸し暑い日だった。
五限の体育の授業。今学期は男の子は体育館でバレーボール、女の子はグラウンドで陸上と決められていた。五十メートル走のために、わたしたちは照りつける日差しの中、二人ずつ出席番号順で並んでいる。隣にいる弥歌ちゃんが、熱を逃がすように半袖の体育着の胸元を掴んでぱたぱたと動かしていた。弥歌ちゃんなら、顔に浮かんでいる汗の粒までもが美しく見えてしまうのが不思議だった。
「あっちい……私たちも体育館で授業受けさせろよ……」
「本当にそうだよね……溶けちゃいそうだよ」
「成花羨ましすぎる……」
少し恨めしそうなトーンで、弥歌ちゃんが言う。
成花ちゃんは風邪を引いてしまったらしく、今日は学校に来ていなかった。きっと風邪も辛いと思うけれど、この暑さから逃れるためなら体調を崩すのもいいかもしれないなんて考えてしまう。
体育の先生が白い旗を振り上げて、阿久津さんと海野さんが走り出す。二人の背中がどんどん遠ざかっていく。続いて、江藤さんと香川さんの順番が来る。また旗が振り上げられて、次はわたしと弥歌ちゃんの番になった。少し緊張しながら、クラウチングスタートの姿勢になる。
「のの」
名前を呼ばれて、わたしは隣の方を向いた。
弥歌ちゃんの綺麗な黒い瞳が、わたしのことを映し出していた。普段は下ろされている長髪は、簡素な髪ゴムで一つに纏められて、微かな風にさらさらとそよいでいる。
弥歌ちゃんは悪戯っぽく笑いながら、口を開いた。
「負けないからね?」
その笑顔に、どきりと心臓が跳ねた。
わたしはその気持ちを隠すように微笑みながら、言う。
「お、お手柔らかにお願い……」
「どうしようかな」
「ちょ、ちょっと!」
わたしの言葉に、弥歌ちゃんはおかしそうにあははっと笑った。
位置について、という声が聞こえる。わたしと弥歌ちゃんは一緒にはっとした表情になって、ゆっくりと前を向いた。よーい、という声が響く。
旗がばっと振り上げられて、わたしは地面を蹴った。視界が一気に流れていく。弥歌ちゃんの背中が少しずつ遠くに行ってしまう。わたしはどうにか彼女に追い付こうとする。
視界がぐらっと傾いた。何が起こったかわからないまま、手が擦れたような痛みが走る。転んだんだ――ようやくそう理解して、わたしはのろのろと立ち上がった。両手の手のひらを見ると、真っ赤な擦り傷ができていた。
「のの……!」
弥歌ちゃんが走り寄ってくる。
「大丈夫!?」
「あ、うん、大丈夫……ありがとう。長ズボン履いてたから、足は無事な気がする。でも、手、怪我しちゃった。やらかした」
わたしは自嘲するように笑いながら、弥歌ちゃんへと傷口を見せた。
弥歌ちゃんが息を呑んだのがわかった。
それから弥歌ちゃんは表情をなくして、すっと両手でわたしの右手首を掴んだ。
わたしの手が、弥歌ちゃんのほんのりと赤い唇へと近付いていく。
――弥歌ちゃんはちろりと桃色の舌を出して、わたしの傷口を舐めた。
痛みが走って、ひゃっと声を上げてしまう。
弥歌ちゃんの舌が、わたしの傷口の上でぬめぬめと動いていく。その度にわたしの口からは言葉になれなかった声が漏れる。弥歌ちゃんの瞳は静かに瞬きを繰り返している。弥歌ちゃんは次にわたしの左手を取って、同じように舐め始めた。痛みと、ぬめりと、うるさい自分の心臓の音――暑さも相まって、きっとわたしの顔は今、確かな赤さに染まっている気がした。
「おい、大丈夫かー!」
スタートラインに立っている先生の大きな声が届いて、弥歌ちゃんは目を見張ると、わたしの左手を口から離した。
弥歌ちゃんは夕暮れのように美しく、儚く笑う。
「……ごめん。ののの血が余りにも綺麗だったから、流れていっちゃうのが嫌で」
自分の心に、確かな一つの感情が生まれたのがわかった。
――恐怖心。
そう呼ぶに、ふさわしいものだった。
「保健室行こ。ついてくよ」
弥歌ちゃんはそう言って、わたしへと右手を差し出した。
「え……弥歌ちゃんの右手、汚れちゃうよ」
「汚れないよ。……綺麗になる」
そう言って、弥歌ちゃんはわたしの左手を握ると、保健室の方へと歩き出す。
逡巡する暇もなく、わたしはそれに倣う。




