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 帰りのホームルームが終わり、先生が教室を去っていく。

 おずおずと立川さんの方を見ると、ピンク色のリュックサックを背負って足早に教室から出て行った。何もされなかったことに安堵して、思わず深く息を吐いてしまう。


「ねえねえ」


 唐突に肩を優しく叩かれて、わたしはびっくりして声のした方を向く。

 高い位置で結ばれたポニーテールが印象的な、背が高めで整った顔立ちをした女の子がそこにいた。名前は確か……佐久間さん。わたしの左隣の席に座っていて、自己紹介のときの溌剌とした笑顔が印象的だった。


 佐久間さんは両手をそれぞれわたしと弥歌ちゃんの肩に置いていた。弥歌ちゃんもびっくりしたようで、ぱちぱちと瞬きしている。

 にこっと笑って、佐久間さんが話し始めた。


「聞いたよー、昼休みのこと。わたしさ、トイレから帰ってきたら教室がめっちゃざわざわしてて、いや何事!? って思ったんだよねー。それで桜井ちゃんに聞いてみたらさ、もー、マジで鳥肌だったー!」

「……へえ、鳥肌?」


 弥歌ちゃんは佐久間さんの言葉を繰り返した。笑っているけれど、どこか眼差しには警戒心が滲んでいる気がした。

 そんな弥歌ちゃんに、佐久間さんはきらきらした笑顔を零しながら告げる。


「うん! まじでさ、川相ちゃんって、めっちゃヒーローじゃん! って思ってー」

「え、ヒーロー?」


 弥歌ちゃんは面食らったようだった。佐久間さんはぶんぶんと頷きながら、「そうだよー」とにこにこ笑う。


「だってさ、樫原ちゃんのこと川相ちゃんは助けてあげたんでしょ? もーめっちゃ痺れた! あーもう何でわたしトイレ行ってたんだろ、わたしもいたら川相ちゃんに加勢できたのに! もーマジで酷いよね、樫原ちゃん、立川さんに叩かれたんでしょ? マジ最低、暴力振るうとかあり得ないんだが!」


 佐久間さんは両手の人さし指を交差させて「バツ」の形をつくる。

 わたしは呆然としていた。中学生の頃は、誰も助けてくれなかったのに。弥歌ちゃんが変わった人なんだと思っていた。でも、佐久間さんも、こう言ってくれている。わたしのために、こんなにも怒ってくれている。その事実に、何だか涙が出そうになった。


「…………ふ」


 微かな笑い声が聞こえた気がした。わたしは、弥歌ちゃんの方を見る。



 ――俯いている弥歌ちゃんの口は、三日月を想わせるようにつり上がっていた。



 え、と思う。

 心底嬉しそうで、それでいてどこか歪みを帯びた口角。

 でも、顔を上げた弥歌ちゃんはもう、普通の笑顔に戻っていた。


(気のせい……?)


 わたしが不思議に思う中で、弥歌ちゃんが目を細めながら口を開く。


「そうだよね、あり得ないよね? ……佐久間さんは、いい人だね」


 いい人、という言葉を、慈しむような繊細な響きで弥歌ちゃんは口にした。

 長い睫毛の下で覗く黒い瞳は、終わりの見えない穴のように深遠だった。

 佐久間さんは目を見張って、それからぶんぶんと首を横に振る。


「いや、いい人とかじゃないってー、別にフツーだよ! てゆーかわたしからしたら、川相ちゃんの方がいい人なんだけど! 机キックして威嚇とか、かっこよすぎたわー」


 弥歌ちゃんの目が、うっすらと見開かれた。

 それからどこか、寂しそうな微笑みを浮かべる。


「……かっこよくなんかないよ。というかごめん、私が蹴飛ばした机、佐久間さんのだった気がするわ」

「あー全然気にしないで、物殆ど入れてなかったし。それにわたしの机キックして威嚇できるなら、もう幾らでもキックしてくれて平気だし。ばんばんやっちゃって!」

「いや、流石にいざというときにしかやらないよ」


 おかしそうに笑いながら、弥歌ちゃんは言う。

 それから、佐久間さんへと尋ねた。


「佐久間さんって下の名前、何だっけ」

「あ、わたし? わたしねー、成花! 佐久間成花」

「ありがと。そしたら成花、私たちと友達になってよ」

「え、まじ!? やったー嬉しい、ぜひぜひ! てゆーかいきなり呼び捨ていいね、距離詰まった感じすんね。わたしも二人のこと、弥歌とののって呼んじゃおー」


 佐久間さんはそう言って、楽しそうに笑う。

 下の名前を覚えてくれていたことに驚くと共に、嬉しかった。

 今まで二人の話を聞いているだけだったわたしは、ようやく声を発した。


「あ、ありがとう。成花、ちゃん」

「お、ちゃん付けもいいねー! まろやかな感じする」

「いや、まろやかって何だよ」


 弥歌ちゃんのツッコみに、佐久間さん――成花ちゃんは、あははっと笑い声を溢れさせる。


 弥歌ちゃんは精緻に整った顔立ちとか、低めの声とかから、季節でいうと冬っぽい。それに対して佐久間さんは、天真爛漫で明るくて、どこか夏のような感じがする。


 タイプの違う、それでいてとても優しい二人と友達になれて、わたしは幸せだと思った。

 心の奥深いところから滲んできたような幸福感だった。


 *


 それからわたしは高校で、弥歌ちゃんと成花ちゃんと一緒に過ごすようになった。


 弥歌ちゃんは美人だし、わたしを助けてくれた出来事もあったから、最初は色んなクラスメイトに話し掛けられていた。でも弥歌ちゃんの対応は全体的にそっけなくて、特に男の子に対しては会話のキャッチボールをする気がそもそもないようだった。成花ちゃんやわたしにはとても優しく接してくれるから、不思議だった。


 成花ちゃんは弥歌ちゃんをとても気に入っているらしく、弥歌ちゃんに合わせてわたしたち以外との交流を意図的に減らしているようだった。


 わたしはそもそも人見知りだしコミュニケーションを取るのも不得意だし、何より二人も素敵な友達ができてしまったことに深く満足してしまって、積極的に友達を増やしていく気には全くならなかった。


 だからわたしたち三人のグループは、どこか箱庭のようになっていた。


 わたしはわたしたちが箱庭であることが愛おしかった。弥歌ちゃんと成花ちゃんが別のクラスメイトと仲良くなり、距離が遠ざかってしまうことが怖かったから。


 ところで、弥歌ちゃんに怯えているのか、立川さんはもうわたしに何もしてくることはなかった。それに加えて、わたし以外の誰も新しい虐めの標的にされることはなかった。どちらかというと立川さんがクラスで孤立してしまった感じがして、少し可哀想だとも感じたが、今までされたことを考えると進んで仲良くする気にもなれなかった。


 澱んだ灰色だった学校生活が、二人のお陰で温かなオレンジ色に染まり始めた。


 もう学校は、わたしにとって処刑場ではなくなった。


 もしかしたら夢を見ているのかもしれないと、時折不安になった。そういうときは頬を強く摘んで、実在する痛みに浸る。一度弥歌ちゃんに見つかって、何してんの、とおかしそうに笑われた。

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