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15

 ――学校という場所がわたしにとって処刑場となってしまったのは、いつからだろうか。



 中学校から高校に切り替われば、何かが変わるとそう信じていたのに。


「また樫原かしはらと同じ学校とか、最悪なんだけどー! きもーい」


 自分の席に座るわたしの目の前には、立川たちかわさんが立っている。明るい茶色の長髪を二つに分けて結んで、顔をにたにたとした笑顔に染めている。

 中学時代にわたしを虐めていた近村ちかむらさんのグループにいた女の子だ。


 油断していた。近村さんは勉強が得意ではないから、わたしが勉強を頑張って偏差値の高い高校に行けば、離れられると思っていた。だからわたしは一生懸命勉強して、地頭の悪い割にはいい偏差値の高校に入ることができたのに。まさか立川さんがいて、しかも立川さんと同じクラスになってしまうなんて。


「ねえなんか言ったらどうなのー? そういううじうじしたとこがきもいってまだわかんないのかなー?」


 わたしは俯いた。辛い。苦しい。心が痛い。こういうとき、ちゃんと言い返せるくらい強い人間だったら、虐められずに済んだだろうか?


 少しだけ、視線を動かす。昼休みだからクラスには沢山の人がいて、多少の話し声も聞こえてくるけれど、皆がわたしたちに注目しているのがわかった。このままじゃ、わたしと立川さんの間にある絶対的な力関係がばれてしまう。胃の中がぐるぐるする。気を抜いたら吐いてしまいそうだ。始まったばかりのクラスで吐いたりしたら皆から悪いイメージを持たれてしまう。汚いって思われてしまう。きもいって言われてしまう。やだ。やだ。やだ……


「……なんか喋れって言ってんだろ!」


 頬に痛みが走る。数秒遅れて、叩かれたのだと気付いた。じんじんとした痺れのような痛みに、視界が少しずつ滲んでいく。だめだ。いきなり泣いたりしたらだめだ。高校生にもなって泣くなんてださいとか、弱いとか、きもいとか思われてしまう。だめだと思っているのに滲みは酷くなっていく。せめて涙を、瞳から離れさせてはいけない。わたしは歯を噛み締めて耐えようとする。



 ――大きな音が、した。



 最初は立川さんが何かしたのかと思った。でも、音が聞こえたのは後ろからだった。わたしは目を見張りながら、振り返った。

 長い黒髪の女の子が、立っていた。息を呑むほどに美しい女の子だ。彼女の側では机が倒れていた。女の子はナイフを想わせる冷たい表情を浮かべていた。


 名前は確か……川相、さん。


 川相さんはゆっくりと、立川さんの方に近付いていく。立川さんは少し動揺したようだったけれど、それでも鋭い眼光で川相さんのことを睨んだ。


「な、何だよ……なんか文句ある訳?」

「うん。あるよ」


 川相さんの声は女の子にしては低かった。冬の夜のような声だと思った。


「……あるなら言ってみなよ。あ、でもこれ警告だけど、虐められっ子を助けた人間がどうなるかなんて、大体わかってるよね?」


 立川さんはそう言って、口角をつり上げた。いけない、と思う。立川さんは標的をわたしから川相さんに移す気なんだ。絶望しながら言葉を探すわたしの側で、川相さんは言った。


「それじゃあ、私からも警告」


 そう言って川相さんは、誰も座っていない近くの机を蹴飛ばした。しんと静まり返った教室に、大きな音が響き渡る。立川さんの表情が確かな恐怖に歪んだのを、見た。

 川相さんは艶のある長髪をさらりと揺らして、昏い目をして言った。


「……私は、優しくないよ。お前を血塗れになるまで殴ることが、選択肢としてあるよ」


 ひ、と立川さんが声を漏らす。

 川相さんは立川さんの耳元に唇を近付けて、はっきりと告げる。



「――二度と、暴力を振るうな」


 *


「……川相さんっ!」


 わたしが名前を呼ぶと、川相さんは立ち止まって振り向いた。

 廊下にはわたしたちの他に誰もいなくて、まるで世界に二人きりになったみたいだった。

 川相さんは微笑う。どきりとした。そういう表情もするんだ、と思った。


「……何?」

「えっと、その……さっき、ありがとう。わたしのこと、助けてくれて……」


 お礼をぼそぼそとした声でしか言えない自分の意気地のなさが嫌いだった。

 川相さんは数度瞬きしてから、にやりと笑った。


「わざわざ追い掛けて、言いに来てくれたの? 気にしないでいいのに」

「いやっ、流石に気にするよ……! だって、川相さんがわたしに代わって虐められちゃう可能性も、あったし……」

「ああ。私なら大丈夫だよ。さっきも言ったでしょ、私は優しくないんだ」


 川相さんはそう言って笑う。

 どうしてかその笑顔には、陰があるような気がした。

 その理由はわからなかったけれど、わたしはぶんぶんと首を横に振った。


「優しくない訳ないよ……! だって川相さんはわたしのことを助けてくれたんだよ? ……助けてもらったの、初めてだった。すごく、嬉しかった……」


 わたしは少し俯きながら、素直な自分の思いを伝える。

 言葉を紡ぐことは苦手だ。考えれば考えるほど、心の奥底に眠る感情から言葉が遠ざかっていく感じがするから。


 上手く、伝わっているだろうか――どきどきしながら、川相さんのことを見た。

 川相さんはどこか面食らったような表情を浮かべていた。

 それから、寂しそうに笑った。


「……喜んでもらえたのなら何より。……ところで、一つ聞きたいんだけど」

「え、何……?」


 首を傾げたわたしに、川相さんは目を細めながら問う。



「――どうしてあの女を、殴らなかったの?」



 ……一瞬、質問の意味がわからなかった。


 あの女――立川さんの、ことだ。どうして殴らなかったか……? その理由をどうにか手繰り寄せようとしてみるけれど、しっかりとした理由が見つからない。見つからないまま、わたしは見切り発車で喋り出してしまう。


「えっと、その……痛い思いさせちゃうから? いや……違うかな、ううん、何だろう……やり返されちゃうから? なのかな、えーと、」


 しどろもどろになってしまうわたしを、川相さんはじっと見つめていた。

 恐ろしいほど綺麗な形をした目の、終わりの見えない夜の空のような瞳が、わたしだけを映し出していた。


(……誤魔化したら、だめだ)


 わたしはその結論に辿り着いて、川相さんへと頭を下げる。


「ごめん……適当なこと、言っちゃった。正直に言うと、理由なんてないのかも。殴るっていう行動が、あのときも、……今までも、わたしの頭の中にちっとも浮かんでこなくて。あはは、馬鹿だよね……それくらいしないと状況が変わる訳なかったよね、」


 理由を問われているのに導いた答えが「理由がない」だなんて、川相さんをがっかりさせてしまうだろうか。自分の曖昧さに嫌気がさした。


「……顔、上げて」


 そう言われて、わたしは恐る恐る顔を上げる。

 川相さんは、不思議な表情をしていた。微笑んでいるのだけれど、寂しそうで、でも嬉しそうで、けれど悲しそうで、それでいて憧憬も混ざり合っているようで――わたしには、川相さんがどうしてそんな風に微笑んでいるのか、全くわからない。

 川相さんの、花びらのようにほんのりと赤い唇が、開いた。


「樫原さんって下の名前、何だっけ」

「え、わたしの……? のの、だけれど」

「ああ、そういえばそうだった。ねえ、のの」


 いきなり呼び捨てで呼ばれた驚きで目を丸くしているわたしへと、川相さんは右手を差し出した。


「私と友達になってよ」


 びっくりして、え、と声が漏れる。

 冗談を言っているのかと思ったけれど、川相さんの目付きはどこまでも真剣だった。

 わたしは恐る恐る、川相さんの右手を優しく握る。


「……か、川相さんさえよければ、わたしとしてはとても、嬉しいです」


 何故か敬語になってしまう。それがおかしかったのか、ふ、と川相さんが笑い声を溢れさせた。


「それじゃ、よろしく。あ、私下の名前、弥歌だから。弥歌でいいよ」

「……弥歌、ちゃん」

「呼び捨てでいいのに」

「慣れていなくて……」

「ふうん。可愛いね」


 川相さん――弥歌ちゃんはわたしから手を離しながら、微笑んで言った。心臓が跳ねる。弥歌ちゃんの方がわたしなんかよりずっと、ずっと可愛い見た目をしているのに。そう思いながらも、言葉にすることができない。きもいって思われちゃうんじゃないかって、根強い怯えがわたしの中に潜んでいる。


 何も言わないでいるわたしに、弥歌ちゃんはくすりと笑った。


「照れてんの? やっぱ可愛いじゃん、のの」

「そっ、そ、そんなことは、ないと思う……」

「そんなことあるのに。ののは謙虚だね」


 弥歌ちゃんは口角を上げながら言う。それから、続いている廊下の先を指さした。


「ねえ、友達成立記念に校内探検しない? 私この高校完全に立地で選んだからさ、文化祭で下見とかもしてなくて、全然教室の配置とか把握してないんだよね」

「え、そうなの!? 珍しいね……わたしでよければ、お付き合い、します、する」


 敬語を言ってからため口に軌道修正してどうする、と脳内で自分にツッコむ。

 弥歌ちゃんはおかしそうにあははっと笑った。

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