14
ゆっくりと息を吸って、吐いてを繰り返しながら、私は屋上へと繋がる階段を昇る。
屋上のドアが見えてきたと同時に、私は違和感に気が付いた。
――肉塊が、いた。
驚いて歩みを止めたところで、私はあることに気付く。
肉塊に残された二つの瞳は、真っ青だった。
綺麗で、静謐で、深遠で、正常な海の色彩だった。
「…………瑞陽、先輩……?」
私の言葉に、青色の目が驚いたように見開かれて、それから肉塊はそっと頷いた。
「……何で、こんな、ところに」
そう問うと、もう唇かもわからない唇が、柔らかく動いた。
「…………し、に、た、い、の」
私は目を見開いた。
震えてしまう声で、尋ねる。
「どうして、ですか」
「な、ん、で、か…………わ、か、ら、な、い、け、ど…………し、に、た、い、の」
もう美しい声の面影はなかった。
肉と肉が深く擦れ合うような、不気味な響きだった。
私は口角を歪めて、首を横に振る。それから、残されていた数段の階段を昇った。彼女との距離が、段々と近付いていく。私は彼女の目の前で足を止めて、両腕でぎゅっと彼女のことを包み込んだ。濃い肉のにおいの中に、あの頃みたいな、ミントのような香りが混ざり合っている気がした。
私は、静かに微笑んだ。
「……大丈夫ですよ。私が、貴女のことを、殺してあげますから」
「…………こ、ろ、し、て…………く、れ、る、の?」
「……はい。きっと、痛くないです。目を覚ましたら、そこにはきっと、正常な四月十四日が広がっているはずだから。だから、信じて、ください」
彼女のささやき声が、耳元で聞こえた。
「…………よ、か、っ、た」
私は歪に微笑んで、彼女にキスをする。血の味が口内に広がっていく。零すことなく、その全てを飲み込もうと思う。多分それが愛だろうから。
私は暫く彼女と抱擁した後で、そっと身体を離す。セーラー服は彼女の体液で真っ赤に染まっていた。……ようやく、少しだけ、皆と同じになれた気がした。
私は、笑った。
「……行ってきます」
*
ドアを開くと、そこには今までと変わり果てた屋上の景色があった。
屋上だと呼べる部分は残されていたけれど、縁を境界とするようにして赤一色の世界が広がっている。その異様さに、思わず一瞬だけ足を止めてしまう。
……でも、すぐに歩き出した。
背伸びして金網のフェンスに手を掛けて、足をも乗せる。この前は全く動くことのなかった肉体が、今はすんなりと言うことを聞いてくれた。
フェンスを跨ぎ、向こう側へと降りる。ゆっくりと、縁を目指す。真っ赤な世界が段々と近付いてくる。
(綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗)
(私が死ねば)
(綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗)
(瑞陽先輩や成花を)
(綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗)
(救える)
(綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗)
(そもそも)
(綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗)
(この世界は)
(綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗)
(もう滅びるだろう)
(綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗綺麗)
私は屋上の縁に立つ。少し手を伸ばすだけで、赤色に触れられる。今から触れるどころではなく、その中に身を投げることになるのだと思うと、歓喜と、恐怖と、憧憬と、哀情と、幸福と、絶望と、名状し難い幾つものぐちゃぐちゃの感情とが混ざり合って、身体が張り裂けてしまいそうだった。
時間が経過していくにつれて勇気が消えてしまいそうだったから、目を閉じた。
身体を、傾けた。
言葉が、零れた。
「…………ようやく汚い血を捨てられる、」
何故だか落ちていくのが懐かしいような気がした
*
*
*
きゅるきゅるきゅる……きゅる、きゅる…………きゅ、る。
*
*
*
『――――ようこそ、私の美術館へ』
……そんな声が聞こえて、私は目を開いた。
ガラス張りの高い天井と、陶器のように真っ白の壁と、高級感のあるカーペットが敷かれた床。静謐でいて優しい音楽がうっすらと流れており、乏しい明かりが幻想的な空間を演出している。
(…………美術館?)
私はその言葉と、何度も繰り返していた四月十三日の記憶を思い出す。
違和感に気付いた。あれだけ脳内を蠢いていた「侵入思考」が、綺麗さっぱりなくなっている。まるで、脳が丁寧に洗浄されてしまったかのように。
混乱しながら情報を探すように視線を彷徨わせていると、少し先に、「経路↑」と書かれた表示があることに気付く。
どうしてか、その文言に従わなくてはならないような心地になる。
私は立ち止まっているのをやめて、歩き出す。
表示の通りに、右に曲がる。
――壊れた少女たちが、展示されていた。
ある少女は、全身から肉を突き破るように色とりどりの花を咲かせ。
ある少女は、胸部の空洞から数多の星々が煌めく夜空を覗かせ。
ある少女は、抉れた頭部にゆっくりと回転する極小の惑星を携え。
ある少女は、切り刻まれた両脚の周りに華やかな蝶々が幾つも舞い。
私は呆然と、その異質な空間に佇んだ。
やがて、キャプションプレートが存在していることに気付く。私はリズムのおかしくなった呼吸を繰り返しながら、それらを一つずつ見て回った。それぞれ、「花畑の輪廻」「星屑の亡霊」「自転の死神」「蝶々の天国」と書かれている。
「……どうして、こんな、酷い……」
私は顔にべっとりと滲んだ汗を右手で拭って、少女たちから目を逸らす。
……「経路↓」と書かれた表示が、目に入る。
この空間に居続けるのが苦しくて、私は引き寄せられるように歩き出す。
表示の通りに、左に曲がる。
――歯車の少女が、そこにいた。
虚ろだった瞳は閉じられていて、頬の辺りには流れていた血が拭き取られたと思われる跡が微かに残っていた。
歯車の回転はぴたりと止まっていて、以前目にしたときよりもずっとひび割れが進行していた。
私は暫くの間、何もすることができないまま立ち尽くす。
歯車の少女の側にもキャプションプレートが存在していることに、気付く。
私は覚束ない足取りで歩き始める。歯車の少女の姿が、視界の中で段々と大きさを増していく。この行動が正解か不正解かすらわからない。心臓は恐怖の鎖で縛り付けられているかのようだった。
私は歩みを止めて、キャプションプレートを見る。
――「歯車の女神」と、書かれていた。
私はこの少女のことを知らない。……知らないはずなのに、何故だか酷く懐かしい。ふわりと広がるセミロングの茶髪も、積もり立ての雪のように混じり気のない白色の肌も、顔にうっすらと広がっている可愛らしいそばかすも、その存在の全てが、どうしようもなく懐かしいように思える。
「…………『のの』、」
私は夢の中で「私」が彼女に対して呼んでいた名前を、縋るように呼ぶ。
「君は誰なの。君にとって、私は何だったの? ……お願い、教えてよ……」
『――私の芸術品の過去を知りたいと、心の底から思いますか?』
……いつの間にか、「何か」が私の隣に立っている。
「何か」を構成する数多の内臓は各々の律動を繰り返していて、まるで全てが独立した命を持っているかのようだった。
私はゆっくりと、深く、頷いた。
目も鼻も口もないのに、「何か」が妖しく微笑んだのがわかった。




