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 帰りのホームルームの時間、わたしは絆創膏の貼られた両手と目を合わせていた。


「……のの?」


 弥歌ちゃんに声を掛けられて、ばっと顔を上げる。ぼんやりとしている間に、ホームルームは終わったみたいだった。弥歌ちゃんはくすりと笑う。


「どうかした?」

「あ……ぼうっとしていただけ」

「そうなんだ。早く帰ろうよ」

「そうだね……あ、少し待っていてもらってもいい? お手洗いに行きたくて」

「ああ、全然大丈夫だよ。教室で待っているから」

「ありがとう」


 わたしは弥歌ちゃんにお礼を行って、教室を出てお手洗いへと向かう。用を足してから、洗面所で丁寧に手を洗う。小花柄のハンカチで手を拭いて、弥歌ちゃんの元へ戻ろうと足早に廊下へ出た。


「あ、樫原さん! ちょっといいかしら」


 背後から呼び止められて、振り向いた。そこには担任の三葉みつば先生が立っていて、わたしと目が合うと両手を胸の前で合わせる。


「ちょっと手伝ってほしいことがあって。今って時間ある? 十分くらいで終わるんだけど!」

「あ……」


 弥歌ちゃんを待たせているから、どうしようと思った。でも、三葉先生の困った表情を見ていると、上手く断ることができそうになかった。十分ならと自分に言い聞かせて、ゆっくりと頷く。


「……わかりました。大丈夫です」

「本当? ありがとう! そうしたら一緒に職員室まで行きましょう、走る……とまずいから早歩きで!」

「え、あ、はい、わかりました!」


 わたしは三葉先生に言われた通り、共に職員室へと向かった。



 わたしはプリントの山を抱えながら、自分のクラスである一年四組の教室を目指していた。


 三葉先生は明日家庭の都合でお休みなのだけれど、明日配布を頼まなければならないプリントを職員室に置きっぱなしにしてしまったらしい。しかし顧問を務めるバスケ部の活動に向かわなければいけないとのことで、わたしが代わりに運ぶことになった。今頃三葉先生は体育館だろうか? 問題なく間に合っていればいいなと、歩きながら考える。


 職員室は一階で、一年生の教室は三階だ。加えて、一年四組は四つのクラスの中で職員室から最も遠い位置にある。別館にある旧教室はどこも三組までだから、こういう状況のときも多少楽に運べるんじゃないかなと思った。


(弥歌ちゃんのこと、待たせちゃっているな。申し訳ない……)


 一年四組のクラスプレートが、段々と近付いてくる。プリントは教卓の上に置いておこうと考えて、わたしは開いている前方のドアから教室へと入った。


 わたしが教室を出た頃よりもクラスメイトの数は減っていて、弥歌ちゃんを含めて四人ほどしかいなかった。きっと皆、部活動に行ったか帰宅してしまったのだろう。弥歌ちゃんと成花ちゃんは放課後は遊びたいらしく、何の部活にも入っていなかった。わたしは運動神経が悪く、そのほかに頑張りたいことも特になかったので、どこか安堵しながら弥歌ちゃんたちに倣っていた。


 わたしは教卓の上にプリントの山を乗せて、弥歌ちゃんの方へと歩み寄る。弥歌ちゃんは自分の机に突っ伏して眠っているようだった。細い腕から覗く寝顔までもが、途方もなく美しい。弥歌ちゃんを見つめていると、五限の体育の授業のことを思い出した。わたしは、絆創膏と目を合わせる。この奥にある傷は、弥歌ちゃんが舐めた傷だ――その事実を改めて認識すると、また顔が熱を帯びたような心地になった。


 ふと、弥歌ちゃんの腕の側にスマホが置かれていることに気付いた。真っ赤なスマホケースに入っていて、明かりの落ちた黒い画面にわたしの顔が反射している。まるで弥歌ちゃんの瞳のようだと思って、ぼんやりとスマホを見つめていた。


 ――明かりが点いた。


 わたしは呆然と目を見張る。……待ち受け画面に設定されていたのは、赤一色だった。体育の授業で見た自分の流れたての血が、記憶の中で鮮やかに咲く。それほどまでに鮮烈な赤色が画面いっぱいにただ広がっていた。赤色の中心部には成花ちゃんから届いたメッセージが表示されていた。〈てかクレープ食べ行きたくね?〉血溜まりに置かれたクレープというアンバランスな映像が、脳を這う。


 再び明かりが落ちて、画面は先程と同じく黒一色に戻った。わたしは鼓動の早まっている心臓の辺りへ両手を添える。ゆっくりと呼吸を繰り返して、動悸を落ち着けようとする。


「のの」

「ひゃっ」


 名前を呼ばれて、思わず驚きの声が漏れた。

 細い腕から覗く弥歌ちゃんの顔の、真っ黒な瞳が、わたしのことを映し出していた。まるで明かりのないスマホの画面のようだった。弥歌ちゃんの瞳の奥にも、きっと鮮やかな赤色の血液が眠っている――わたしはそんな想像を振り払って、取り敢えず微笑んだ。


「眠って、いたの……? ごめんね、起こしちゃって」

「はぐらかさなくていいよ。見たんでしょ?」


 弥歌ちゃんは頭を上げて、わたしへと問う。

 わたしは少し視線を彷徨わせてから、おずおずと頷いた。

 弥歌ちゃんは机の横のフックに掛けていたリュックサックを背負って、にやりと笑う。

 それから、わたしの耳元にそっと、顔を近付けた。



「綺麗だったでしょ?」



 冬の夜のように静かな、冷たい声で、弥歌ちゃんはささやいた。

 あのとき感じた恐怖心が、また、わたしの心を柔らかく包み込む。

 弥歌ちゃんの顔が離れる。少し上がった口角までもが、……美しい。


「……のの、顔赤いよ?」

「えっ、や、嘘っ」

「ほんとだって。トマトみたいになっている」

「そんなに!?」

「そんなに」


 弥歌ちゃんはおかしそうに笑った。それから、帰ろっか、とわたしへ告げる。

 廊下を並んで歩くわたしたちの間には、暫く沈黙があった。グラウンドから聞こえてくる部活動の喧騒が、どこか別世界のことのように思えた。弥歌ちゃんの端整な横顔をちらりと見て、わたしはまた顔が熱くなったような心地になる。



 ……恋をしてしまったのだと、ふと気付いた。

 美しくて優しい弥歌ちゃんに滲む、真っ赤で冷たい血塗れの刃物のような恐ろしさ。

 その恐ろしさに、どうしようもなく惹かれている自分がいた。



 頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていく。誰かに恋をするのなんて初めてなのに、はっきりとこれが「恋」だとわかった。確かな赤色の輪郭を持ちながら、わたしの脳をぐらぐらと揺らす。


 窓から差し込む陽光を受けて、弥歌ちゃんの影が廊下から壁にかけて長く伸びている。この気持ちを隠し通さなければならない、と強く思う。だってわたしの恋心を知ってしまえば、弥歌ちゃんはわたしから離れていってしまうかもしれない。だってわたしは可愛くないし、おどおどしているし、……何よりわたしたちは、女の子同士だ。弥歌ちゃんの唇が〝きもい〟という言葉を放つ瞬間を想像して、わたしは思わず泣いてしまいそうになった。


 弥歌ちゃんがくしゃみをして、わたしの意識は現実に引き戻される。

 咄嗟に、声を掛けた。


「大丈夫?」

「ああ、うん。ヒノキの花粉かも」

「そっか、もうスギじゃなくてヒノキの時期だよね」

「そうだね。……私、ヒノキのこと嫌いなんだよね」

「え、どうして? 花粉を飛ばすから?」

 弥歌ちゃんは、首を横に振った。

「いや。ヒノキの花言葉、ののは知っている?」

「えっ……いや、わからないや」


 弥歌ちゃんはそっと、不滅、と告げる。


「……恐ろしい言葉だと思わない?」


 弥歌ちゃんは寂しげな眼差しで、呟くように言った。弥歌ちゃんが「不滅」という概念をどうして怖がっているのかはわからなかった。自身の恋心を自覚してしまった今となっては、弥歌ちゃんの手を握ったり背中をさすったりして励ましの意を伝えることにも、躊躇いが生まれてしまう。わたしはわかっていないのに、そうかもしれないね、と伝えた。

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