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――「4 13 月」
――「10:04」
きゅるきゅるきゅるきゅるきゅるきゅる、と微かな音が響いている。
首からつま先まですっぽりと布団に包まれながら、私は表示されているデジタル時計の数字と目を合わせていた。
私の住んでいる家は二階建てだ。飛び降りたとしてもきっと、幾つかの骨を損傷するだけ。高校の屋上は四階分の高さがあるから、飛び降りたらほぼ確実に死ねると思う。
(…………でも、)
そもそも私がループを終わらせたいのは、私自身が平穏な日常を取り戻したいからだった。ループの中で死んでしまったら、ちゃんと普通の時間の流れに帰ることができるのだろうか? 歯車の少女は、私を正常な世界へと解放してくれるのだろうか……?
「……答えが、欲しい」
そう、ひとりごちる。
私は現実から逃避するかのように、充電ゲーブルに挿しっぱなしだったスマホを引っこ抜いて手に取る。通知が来ていたので、メッセージアプリを開いた。
〈弥歌、今日休みー?〉
〈弥歌がいないとつまんねー(唇を尖らせている絵文字)〉
見覚えのある文章に、私は「……成花」と呟きながら口角を歪めた。
*
「――――弥歌?」
……私はゆっくりと、まぶたを持ち上げる。
身体のあちこちが抉れたお母さんが、心配そうに微笑いながら私のことを見つめている。
「よかった……今日、学校から携帯に電話があったのよ。連絡がないけれど、欠席かって」
私は、ぅあ、と喉が潰れたかのような汚い声を漏らす。
父親に殴られて、傷だらけになっていたぼろぼろのお母さんの姿を思い出す。
切れた唇から滲む真っ赤な血、散らばった青痣、透明な涙の滲んだ黒色の瞳、
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
私は殺してしまいたい記憶を脳から剥がすように勢いよく髪を毟り出す。お母さんは血相を変えて、仕事鞄を床に放り出すと私の身体を強く抱きしめた。
「どうしたの、弥歌!? 大丈夫だから、落ち着いて!」
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……」
「大丈夫よ! 大丈夫だから……!」
お母さんの血の香りがする。いいにおいだ。私にもこの血だけが流れていればよかったのにと思う。そうすれば私は、私は…………
*
歯車の少女の歯車は段々と崩壊している。
*
――「4 13 月」
――「10:04」
私は廊下に立っている。自室のドアに、油性マジックで「体調が悪くて寝込んでいます。起こさないでくれると助かります。弥歌」と書いた紙をセロハンテープで貼った。
こうすればお母さんは、仕事から帰ってきても私の部屋に入ってくることはないだろう。
「昨日」見た、抉れた身体のお母さんのことを思い出して、私の口から言葉の残滓が微かに零れた。髪を毟りながら部屋に入り、ドアを閉める。
きゅるきゅるきゅるきゅるきゅるきゅる、と微かな音が響いている。
『今日、学校から携帯に電話があったのよ。連絡がないけれど、欠席かって』
ふと、「昨日」お母さんにそう告げられたのを思い出した。
もう午前十時を過ぎてしまった。今から高校に欠席連絡をすれば、お母さんの元に連絡はいかないだろうか? 余計な心配を掛けるのが心苦しくて、私は充電ケーブルからスマホを引っこ抜く。メッセージアプリから、通知が来ていた。
〈弥歌、今日休みー?〉
〈弥歌がいないとつまんねー(唇を尖らせている絵文字)〉
手が勝手に、動き出していた。
〈私が死んじゃっても成花は悲しまないでほしい
成花には幸せに生きてほしい〉
送信ボタンを押したところで、我に返る。
メッセージを取り消そうかと考えた。でも、今成花に伝えた思いは、「一昨日」の成花に伝えることができなかった、心の奥底に眠っていた祈りのような思いで……
正常だった最初の四月十三日を思い出す。ほかほかのピザまんと、成花が一口くれた肉まん。単純な幸福に包まれていたときのこと。
私は欠席連絡をしないまま、スマホの明かりを落としてベッドに横たわる。
目を閉じて、成花との思い出に浸った。
邪魔をするように浮かんでくる血液への愛着や殺意は、瑞陽先輩に教えてもらったおまじないで全部殺した。
*
目を開くと、デジタル時計は二十三時過ぎを示していた。
違う四月十三日を迎えたとき、目が覚めるのは基本的にアラームの鳴り響く午前七時半だ。だからきっと、「今日」のままのはずだが……私はそれを確認するために、自室のドアへと近付いていく。ゆっくりと開くと、「体調が悪くて寝込んでいます。起こさないでくれると助かります。弥歌」と書かれた紙が貼られていた。
私はドアを閉じて、ふと自分が眠りに落ちる前に成花に送っていたメッセージのことを思い出す。
確認しないまま「明日」を迎えてしまおうかと、臆病な思考がよぎる。でも、それはとても失礼な行いではないだろうか? それに、今日の成花に会えるのは、文字通りの意味で今日だけだ。
私は大きく息を吐いて、枕元に置きっぱなしだったスマホの明かりを点ける。
大量の通知が届いていた。
目を見張りながらメッセージアプリを開くと、その全てが成花からのものだった。
心配の言葉。励ましの言葉。明るく振る舞おうとした言葉。真剣な言葉。そのどれもが、途方もなく優しくて……時折、不在着信の通知が挟まっていた。
私は一つのメッセージで、画面をスクロールする手を止める。
〈明日、学校休んでどっか行こーよ。奢ったげる! 気分転換しよー!〉
……気付けば私は大声で泣いていた。堪えることのできない嗚咽を漏らしながら、ベッドにもたれかかるように体育座りして、ひんやりとした胴体と脚の間に顔を埋めて、美しくなった今日が破壊される瞬間を待っていた。
*
歯車の少女の歯車は段々と崩壊している。
*
――「4 13 月」
――「10:04」
きゅるきゅるきゅるきゅるきゅるきゅる、と微かな音が響いている。
私は布団にくるまりながら、ただ目を閉じていた。
自室の扉に紙は貼ったし、成花からのメッセージが届く前に高校に欠席連絡を入れた。
「…………高校、行って、…………死ななくちゃ」
自分を急かすようにそう呟いたけれど、身体が動く気配はちっともなかった。
そういう臆病な自分が嫌いだった。
憎いとすら、思った。
傷だらけのお母さんの前でただ泣くことしかできなかった、無力な自分を思い出すから。
*
……廊下から、音が聞こえる気がした。
ぐちゅ…………ぐちゅ…………ぐちゅ…………ぐちゅ…………
何か、水気のあるものが這いずっているような音だった。
ぐちゅ…………ぐちゅ…………ぐちゅ…………ぐちゅ…………
音は段々と大きさを増していって、私の部屋の前でぴたりと止まった。
私はベッドに上体を起こして座りながら、ただ呼吸を繰り返していた。
布団の端をきゅっと掴む。
ぐちゅ…………ぐちゅ…………ぐちゅ…………ぐちゅ…………
再び音が聞こえ始めて、私の部屋から少しずつ遠ざかっていく。
音が完全に聞こえなくなって、私は震えてしまう両手を擦り合わせてどうにか落ち着けながら、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
ドアの前で、十秒ほど逡巡する。
でも、確認しないでいる方が恐ろしくて、結局私はドアを開けた。
開けてしまった。
暗い廊下に、私の部屋の明かりが零れ落ちて。
真っ赤な、血液、が、見えた。
血溜まり、は、どこまでも、続いていた。
私は小さな悲鳴を漏らし、反射的に大きな音を立ててドアを閉めた。
ベッドに駆け込んで、丸くなりながら布団を被る。目を閉じても鮮烈に浮かび上がってくる赤色。その色彩がお母さんの肉の奥に流れている血であることを、もう私は理解していた。数え切れないくらい見てきたから、わかってしまうのだ。
(綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……綺麗……)
おまじないを唱える余裕もなく、私の思考は「綺麗」の濁流に溺れていった。
*
歯車の少
女の歯車は段
々と崩壊している




