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 私は何事もなかったかのように、二限目の英語の授業が始まる少し前に教室へと戻った。


 二年一組のクラスメイトたちは、成花のように、三年生たちのように、瑞陽先輩のように、赤色を滲ませた身体になっていた。


 私はその事実を努めて意識しないようにしながら、自分の席に腰掛ける。斜め左前の席に座っている成花が、振り向いた。一瞬だけ目が合ったけれど、私はすぐに視線を机の上へと逸らした。


 見続けたくなかった。大好きな友達の、グロテスクな姿なんて。


 それなのに、(綺麗な血)と思考は延々とささやき続ける。その度に私は、(侵入思考)と心の中で呟く。瑞陽先輩が私に贈ってくれた、優しい青色のおまじないだ。そう呟くだけで、少しずつ平静を取り戻せているかのように思う。


 チャイムが響くと同時に、英語の先生が教室に入ってくる。

 授業が始まる。


 先生が気まぐれに当てた回答者は、いつも通り関根さんだった。

 関根さんが教科書の音読を始める。腹から零れた腸が、声に合わせて淡く揺れている。


 *


 四限目までの授業を受け終えて、昼休みとなる。

 私は()()()()()に向かおうと思って、席を立ってドアの方へと歩き出そうとした。


「弥歌っ……!」


 ……立ち止まる。

 振り返ると、笑顔の成花がいた。


 笑顔だったけれどいつもとは異なっていて、何だか曖昧な、無理やり目を細めて口角を上げているような表情だった。

 きっと、私に気を遣っているのだろう――そう気付き、胸が痛くなる。


「弥歌、学食行こーぜ! わたし、うどん食べたいんだよねー」


 より一層明るい声を出す友達を、無下にすることはできそうになかった。




「いただきまーす!」


 成花は左手だけで両手を合わせるような「いただきます」の動作をして、左手で箸を持ってうどんを食べ始める。かつては右利きだったはずなのに、成花はずっと昔から左利きだったかのような滑らかな動作を見せていた。


「てゆーか弥歌、そんだけでいいの?」


 成花は、私のトレイの上に乗っている三個の唐揚げを見つめながら、首を傾げた。


「なんかそれって、わたしのうどんとかにおかずとして合わせる枠のやつじゃね? ……あ、もしかして弥歌、ダイエットしようとしてるでしょ! ただでさえ美人なのに、これ以上美人になってどうすんだよー!」

「ううん。肉の繊維を噛み千切りたいだけだよ」


 私はそう言って、箸を使って唐揚げを一つ摘んだ。口の中へ入れて、ぶちぶちぶちぶちと咀嚼する。


(……美味しい)

(鶏の血も、きっと綺麗)

(侵入思考)

(鶏の血も、きっと綺麗)

(侵入思考)


「…………弥歌、」


 私は顔を上げて、目を見開いた。

 成花はトレイに箸を置いて、どこか今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべていた。


 彼女のそんな面持ちを見たのは初めてで、私は言葉を失ってしまう。

 成花は少し震えた声で、話し始めた。


「……なんかさ、わたしの勘違いだったらごめんだけどさ、弥歌、なんか悩んでない……? いやほんと、勘違いだったらマジごめん! でも……なんか今朝も、弥歌、しんどそうだったし、わたし弥歌のことほんと大事だから、友達だから、辛いときは巻き込んでほしいってゆーか……」


 私は、「あの日」成花が伝えてくれたことを思い出した。


『あの、さ。もしもまた、四月十三日になっちゃって……わたしが、そのこと全部忘れちゃってても。また、相談してね?』

『わたしに心配掛けるとか、全くもって、考えなくていーから! 友達なんだから、何回でも巻き込んで! 弥歌、意外とそういうこと気にするでしょ?』


 ……そうだった。

 心臓を透明な手でぎゅっと掴まれたような心地になる。

 二回目の四月十三日で、成花はあんなにも温かい言葉を掛けてくれたのに。

 三回目も、四回目も、五回目も……私は一度たりとも、成花を巻き込むことはなかった。


「……でも、それは、……成花が、大切な人だからで、あって」


 微かな声で、ひとりごちる。


「弥歌……? ごめん聞き取れなかった、何て言ったの?」


 焦げ茶の柔らかな色彩の瞳が、真っ直ぐに私だけのことを映し出している。


 ――優しい成花。


 いつだって前向きで、明るくて、友達想いで、誰かを助けることで発生する労力なんてちっとも気にすることはなくて、

 ……暴力を振るうことなんて最初から脳内の選択肢に存在していないかのような、

 優しい成花。


(流れている血もどこまでも純粋な赤さでどうしようもなく美しいから、)


 私は小さく首を横に振って、ぼそりと告げた。


「…………成花はさ、」

「うん、何?」

「……私が死んじゃったら、悲しい?」


 私の言葉に、成花は目を見張る。桃色の唇は淡く開かれていた。

 少しの沈黙の後で、成花はくしゃりと表情を歪めた。


「……悲しいに決まってんじゃん、当たり前でしょ。……あはは、なんか想像しただけで胸ぎゅってなんね。……てゆーか、弥歌、」


 成花はとても寂しそうな顔をして、微笑んだ。



「――絶対に、死んだりなんかしちゃだめだからね」


 *


 昼ご飯を食べ終えた私は成花と別れ、本館の屋上へとやって来た。

 屋上は普段から開放されている。壊れた生徒たちは楽しそうにお喋りしていたり、お弁当を食べていたり、本を読んでいたりした。

 私はふと、違和感に気付く。


 ……遠くの方の空が、真っ赤に染まっていた。


 息を呑みながら、「昨日」見た海の赤色を思い出す。

 夕焼けとは全く違う、狂おしい色彩だった。広がる空の赤色と青色のグラデーションを見つめながら、私はのろのろとフェンスの方へ近付いていく。恐らく二メートルほどの高さがあったが、金網なので頑張れば登って向こう側へ行くことができそうだった。


『――弥歌ちゃんが、死を選ぶ。そうすれば、繰り返す意味は消失するかもしれない』

『――絶対に、死んだりなんかしちゃだめだからね』


 二人の言葉が、かわるがわる脳内に反響する。私は獲物を噛み千切る獣のように、自身の柔い唇へと歯を突き立てた。鉄錆に似た味がほんのりと口内へ広がる。空には烏の大群が飛んでいた。かあ、かあ、かあ、かあ、かあ、かあ、かあ、かあ。嘲笑われているかのように思う。


(…………死ななきゃ、)


 私は手のひらに爪を食い込ませてから、そっとフェンスに手を掛けた。

 でも……足は、機能を失ってしまったかのように動いてくれなかった。


「…………ああ、クソ、」


 苛立って、フェンスを殴り付ける。

 少しばかり赤く染まった握りこぶしを見て、私はぼんやりと謝罪を繰り返しながら、


(……死にたい)


 と、思う。

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