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 別館、旧一年四組の教室にて。


「ループしているんです、もう五回目なんです、五回目の四月十三日なんです、今日、」


 椅子に座ってぐしゃぐしゃに泣いている私の背中を、瑞陽先輩は優しくさすってくれる。

 ぼやけた視界に映る時計は、午前八時半過ぎを示していた。もう、一限目の数学の授業が始まっている頃だろう。最近さぼってばかりだなと、未だ残り続けている歪な優等生気質がちくりと胸に針を刺す。


「そう、だったんだ」

「はい、それだけじゃなくて、なんか世界が変になっているんです、皆身体が壊れているのに『いつものこと』だって言うんです、ねえ、瑞陽先輩も『いつものこと』だって思いますか……?」


 私の問いに、瑞陽先輩は難しそうな表情を浮かべながら、人さし指を桜色の唇の下部に添えた。


「そうだね……私にとって違和感のないことではあるけど、皆『いつものこと』だって言うのは、何だか不自然な気がする。もっと違う表現が混ざってもいいんじゃないかな」


 瑞陽先輩の言葉に、安心する。

「いつものこと」というフレーズを自分から使わず、それどころかその奇妙さを同調して否定してくれるところに。

 私はありがとうございますと感謝を述べてから、ぐじゅぐじゅの膿を吐き出すように、瑞陽先輩へと話し続ける。


「しかも、私の思考もなんか、変になっているんです、……殺意とか、血が綺麗とか、残酷なことをどんどん、どんどん勝手に考え出して、やめたいって思うほど接着剤で脳にべっとりくっついたみたいに剥がれてくれなくて、私は……ループに気付くことができている私だけは、せめて、正常でいなければならないのに、」


 嗚咽に邪魔されて、上手く言葉を紡ぐことができない。

 それでも瑞陽先輩は、温かく微笑みながら私の話を聞いてくれていた。


「……ねえ、弥歌ちゃん」

「何ですか……?」

「『侵入思考』という概念を知ってる?」

「……いや、わかんないです、」


 瑞陽先輩は、真っ直ぐに私を見つめながら頷く。


「侵入思考というのは、望んだ訳ではないのに、不快感を伴う思考が頭の中に文字通り侵入してくること。多くの人に見られる、極めて一般的な歪んだ思考なの。そして、脳というのは意識すればするほどそのことを考えてしまうもの。だから――弥歌ちゃんは、おかしくなんてないの」


 美しい、はっきりとした声音で、瑞陽先輩はそう告げる。

 私は涙を流しながら、暫しの間言葉を失った。

 それから、ゆっくりと口角を上げる。


「……そうなんですね、よかった……」

「うん。そもそも弥歌ちゃんは、四月十三日が繰り返してることに、恐らく一人だけ気が付いてる状況でしょう? それならきっと、脳に強い精神的負荷が掛かってるはずだよ。だから、思考が多少の歪みを帯びて当然だと思う」

「……ありがとうございます、瑞陽先輩、」

「いいんだよ。ところで弥歌ちゃんは、どの四月十三日に私と知り合ったの?」

「二つ前……三回目の四月十三日です。私、体育の授業で怪我しちゃって、保健室に行ったら瑞陽先輩と初めて出会って」

「そうなんだね。確かに私、身体が弱くてよく保健室のベッドで眠ってるんだ」


 瑞陽先輩は、どこか悪戯っぽく言う。


「その『二つ前』の私は、弥歌ちゃんに何かしてあげられた?」

「はい。私がループの中で初めて怪我したことで瑞陽先輩に出会えたみたいに、思いっきり違うことをすればループを抜けられるんじゃないかって、アドバイスしてくれました。だから、『昨日』は学校をさぼってみたんです」

「ふふ、大胆だね。そうしたら、どうなった?」

「……皆の身体が、どんどん壊れ出して。なんか、二つ前の四月十三日にすっごい目が充血していた人がいて、もしかしたらそれも兆候だったのかも……嫌だ、怖いです」


 太ももの上に置いた両手を、強く握りしめる。

 温もりを感じた。瑞陽先輩の両手が、私の両手に重ねられていた。

 青色の瞳は、穏やかな波のように優しい。


「大丈夫、怖くないよ。私は、絶対に弥歌ちゃんの味方でいるから」


 目を見張る。

 気付けば、言葉が零れ落ちていた。


「……瑞陽先輩は、どうして私なんかに優しくしてくれるんですか?」

「聞きたいの?」


 瑞陽先輩は淡く首を傾げた。纏められた長髪が、柔らかく揺れる。

 私が少しの逡巡の後でゆっくりと頷くと、瑞陽先輩は可憐に微笑んだ。



「――好きだから。弥歌ちゃんのことが」



 ……繰り返している時間が、静止してしまったかのように感じられた。

 瑞陽先輩の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。


「…………え、だって、『今日』の私たちは『今日』初めて出会ったはずで、」

「ひとめぼれ」


 その五文字を世界に置き去りにして、瑞陽先輩は私の身体を抱きしめた。

 唇に、柔らかいものが触れる。

 それが瑞陽先輩の唇だと、離れてからようやくわかる。

 瑞陽先輩は心臓のない空洞の左胸を両手で押さえて、微かに目を細めた。


「ひとめぼれ、したの。弥歌ちゃんに」


 私の心臓は勝手に鼓動を速めていた。

 これは告白だ、と脳が理解する。男に好意を寄せられることは何度もあったが、女から好意を寄せられるのはこれが初めてだった。

 男ならば、すぐに拒絶の意を伝える。

 でも、女だとしたら、どうすればいい……?

 瑞陽先輩の真っ青な瞳に、吸い込まれてしまいそうになる。底の見えない深い海に溺れてしまいそうになる。


(奥底の血は青い……?)

(奥底の血は青い……?)

(奥底の血は青い……?)

(奥底の血は青い……?)

(奥底の血は青い……?)


 私はゆっくりと、頷こうとした。

 その瞬間、きゅるきゅるきゅるきゅる、と音が聞こえた。反射的に音のした窓の方を見ると、歯車の少女が映り込んでいてこちらを見つめていた。



『最初のキスは、ののがいいかも』



 ふと、そんな言葉を思い出す。

 何だったっけ、と記憶を辿った。三回目の四月十三日と四回目の四月十三日の狭間で見た桜の夢で、「私」が歯車の少女に告げていた内容だった。


「…………あ」


 自分の口から、変な声が漏れた。

 窓に映る歯車の少女の赤い血が溢れている虚ろな瞳から、一筋透明な涙が零れたような気がした。

 二つの液体が、混ざり合ったような気がした……


 

「――弥歌ちゃん」



 瑞陽先輩が私の顔を覗き込む。歯車の少女の姿は、隠れて見えなくなった。

 私ははっとなる。まだ、瑞陽先輩からの告白に返答することができていない。失礼だったかもしれないと思い、申し訳なくて少しばかり目を伏せた。

 頭を優しく撫でられて、私は顔を上げる。

 瑞陽先輩は慈愛に満ちた眼差しで、私のことを見つめていた。


「ごめんね、困らせちゃったかな。つい、本音が漏れちゃって……でも、答えは出さなくていいよ。弥歌ちゃんが真剣に考えてくれた答えを、きっと『明日』の私は忘れてしまうから。それは弥歌ちゃんに対して、すごく失礼なことだと思うから……」


 瑞陽先輩はそう言いながら、私の身体をまた抱きしめる。

 抱擁は温かいのに、彼女の香りはひんやりとしている。相反する性質に、自分の脳が少しずつとろけていくような心地がした。


「……ねえ、弥歌ちゃん」


 耳元で、瑞陽先輩のささやき声が聞こえる。澄んだ泉のような声、天国のような声――



()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」



 ――呆然と、目を見開いた。

 その通りだった。

 この世界の人々の身体は段々と崩壊しているのに、

 ……私の身体だけが、綺麗なままだった。


「不思議だと思わない? 弥歌ちゃんだけがループに気が付いてて、弥歌ちゃんの身体だけが壊れない。弥歌ちゃんだけが、他の人のように歪まない――私はこの部分に、ループを終わらせる鍵が存在してるんじゃないかって考える」


 歪んだ時間を切り裂いていく刃物のような言葉だった。

 瑞陽先輩に背中を撫でられながら、私は掠れた声で問う。


「……瑞陽先輩は、どうすればループが終わると、思うんですか?」

「……言いたくないな、」


 瑞陽先輩は私の耳元から顔を離し、私と真っ直ぐに目を合わせた。

 真っ青の瞳には美しい透明が滲んでいた。

 それでも言わなくちゃだめだよね、と瑞陽先輩は透き通った声で寂しそうに呟く。


「……きっと、ループを引き起こしてる何らかの『原因』が存在する」


 歯車の少女の姿が、脳裏に咲いた。


「『原因』にとって、弥歌ちゃんは大切な存在なんじゃないかな。弥歌ちゃんを綺麗なまま、美しいまま、この歪んだ世界に閉じ込めておきたいんじゃないかな。……だから、」


 瑞陽先輩の目から、頬を滑り落ちるように、涙が柔らかく伝っていった。


「――弥歌ちゃんが、死を選ぶ。そうすれば、繰り返す意味は消失するかもしれない」

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