第2項 共同責任帳は増やさないはずでしたが、磁器箱と蹄印の欄が来ました
共同責任帳は、増やさない。
そう決めた。
少なくとも、僕はそう決めた。
ミーナも頷いた。
グレナさんは笑った。
サフィラは薬湯を置いた。
リリカは、腰帯から出した補強用の作業糸で表紙を補強した。
つまり、かなり正式に決まった。
四文化圏共同責任帳。
第1文化圏の幼年期共同帳約束。
第4文化圏オーガの盾内誓約。
第5文化圏ラミアの身体管理関係。
第13文化圏アラクネの糸結び構造。
それらを無理やり一冊にまとめた、結束市ラガンでもかなり面倒な帳である。
上役は頭を抱えた。
父は笑った。
ミーナの母は泣いた。
グレナさんの冒険者仲間は酒をおごってきた。
サフィラの薬師組は、僕の食生活改善計画を提出してきた。
リリカの糸番衆は、僕の部屋の梁にいつの間にか安全結びを作っていた。
つまり、もう十分である。
十分すぎる。
だから、僕は帳の最後にこう書いた。
――追加欄なし。
その翌朝。
結束市の南門から、白い磁器箱を積んだ龍人の女商人と、四つの蹄で石畳を鳴らすケンタウロスの女護衛が来た。
僕は、その時点で逃げるべきだった。
*
龍人の女商人は、名をリンファと言った。
若い。
だが、若いという言葉だけでは少し足りない。
背筋がまっすぐで、声が澄んでいて、指の動きが細かい。
角はまだ短い。
鱗は頬の端と手首に薄く出ている。
衣は淡い青。
腰には、小さな官印袋。
胸元には、白磁の欠片を磨いた飾り。
そして、後ろには木箱が六つ。
白く塗られた封札。
龍人文字の焼印。
朱の細い封紐。
箱の側面には、骨のように白い磁器の意匠が描かれていた。
「ボーンリュージン磁器、輸出荷六箱」
リンファはそう言って、通行証を出した。
発音は柔らかい。
だが、帳へ書く時には強い名だった。
ボーンリュージン。
龍人高炉街と白磁工房の中でも、薄く、軽く、白く、光を通す磁器を扱う若い商会。
骨のように白い。
龍人の窯で焼く。
だから、ボーンリュージン磁器。
そういうことらしい。
外部文化圏の商人には、だいたい一度で覚えられる。
とてもよい商号である。
少し不吉でもある。
そこがまた売れるのだという。
商売は分からない。
いや、商売そのものは分かる。
名付けの勢いが分からない。
「紹介状はありますか」
僕が聞くと、リンファはすぐに薄い板札を出した。
「既存顧客、ラガン北倉のサーウェル商会より紹介。新規顧客、結束市西門内、白食器取扱いのハウゼン家へ面会予定です」
整っている。
通行証。
紹介状。
封札。
荷の数。
商号。
訪問先。
護衛契約。
全部、きれいに揃っている。
これは楽な仕事だ。
僕は、そう思った。
その時点で、すでにだめだった。
*
リンファの横に立っていた護衛は、ケンタウロスだった。
名をエリュカという。
上半身は女。
腰から下は、四つの蹄を持つ馬体。
背は高い。
肩も広い。
髪は短く結ばれている。
腰には短槍。
背には折り畳み式の盾。
脚の筋肉が、石畳の上で静かに張っている。
人間の護衛が「立つ」と言うなら、彼女は「構える」と言った方が近い。
動いていないのに、いつでも動ける。
そんな姿勢だった。
「護衛契約書を」
僕が言うと、エリュカは胸元から革筒を出した。
器用に紐を解き、契約書を置く。
手際がいい。
リンファが横から言った。
「エリュカは、私の専属護衛です」
「専属」
「商売の相棒です」
その言い方は、とてもはっきりしていた。
恋人ではない。
家族でもない。
雇い主と雇われ護衛、だけでもない。
商売の相棒。
リンファはそう言った。
エリュカも否定しなかった。
「私は走る。リンファは売る」
エリュカが言った。
「荷を守る。道を選ぶ。倒すべきものは倒す。避けるべきものは避ける。値を上げる話はリンファがする」
「値を上げる話だけではありません」
リンファが静かに言った。
「下げない話もします」
「大事だな」
「大事です」
二人は、互いを見ずに言った。
慣れている。
強い信頼だ。
文化圏は違う。
身体の形も違う。
見るものも違う。
だが、商売の呼吸が合っている。
僕は感心した。
その時、背後でミーナが小さく言った。
「ノル」
「何だ」
「感心してる場合じゃないからね」
「なぜ」
「若い女商人と、格好いい女護衛よ」
「仕事だ」
「それでいつも増えるの!」
増えない。
増やさない。
追加欄なし。
僕はそう決めている。
*
問題は、磁器箱の三番だった。
荷札には、六箱とある。
一番、二番、三番、四番、五番、六番。
全部そろっている。
封紐もある。
焼印もある。
重さもおおむね合う。
だが、三番箱だけ、音が違った。
僕が叩いたのではない。
エリュカが蹄をわずかにずらした時、石畳が鳴った。
その振動で、三番箱だけ中で小さく鳴った。
ちり、と。
とても小さい音だった。
リンファの目が一瞬で変わった。
「止めてください」
彼女は言った。
「三番を開けます」
新規顧客に会いに行く途中で、封を開ける。
これはよくない。
非常によくない。
磁器は、封のまま見せることで価値がある。
封を切れば、疑いが残る。
疑いが残れば、値が落ちる。
だが、割れたまま持ち込めば、もっと落ちる。
エリュカはすぐに箱の前へ移動した。
四つの脚が、自然に箱を囲む。
誰も近づけない立ち方だった。
「道中では鳴っていなかった」
エリュカが言った。
「北倉からここまでの間で?」
「いや、門前の石畳を越えた時かもしれない」
「揺れましたか」
「車輪が一度沈んだ」
僕は荷車の車輪を見た。
右後輪に白い粉が少しついている。
磁器の粉ではない。
石粉。
道の低いところで、車輪が欠け石を踏んだのだろう。
箱の中身は、繊細な白磁。
わずかな衝撃でも、重ね方が悪ければ縁が触れる。
「三番箱の中の詰め草は、誰が入れましたか」
僕が聞くと、リンファがすぐ答えた。
「高炉街の梱包番です。私は検品しました」
「湿りは?」
「乾いていました」
「予備の詰め草は」
「あります」
「開封証人が必要です」
「誰を」
「ギルド職員一名。輸出者一名。護衛一名。可能なら、既存顧客側の者も」
「サーウェル商会の者は北倉にいます」
「呼びます」
僕は鐘を鳴らした。
ミーナがすぐに走った。
僕より速い。
当然である。
彼女は本気の時、帳場の誰より速い。
「ノル」
リンファが僕を見た。
「あなたは、箱を守るつもりですか。それとも、商談を守るつもりですか」
「両方です」
「両方は難しい」
「だから、手順にします」
リンファは少し黙った。
そして、小さく頷いた。
「分かりました。任せます」
任された。
よくない。
非常によくない。
若い女商人に、商談の初手を任された。
背後で、グレナさんが笑った気配がした。
「まただねえ」
「違います」
「まだ何も言ってないよ」
「違います」
*
三番箱は、証人立会いで開けられた。
リンファの手は震えなかった。
エリュカは動かなかった。
だが、彼女の耳は少し後ろへ伏せていた。
緊張している。
ケンタウロスの緊張は、人間の肩より脚に出るらしい。
僕はそこを見てしまった。
見ただけである。
「ノル」
サフィラが横から言った。
「どこを見ていますか」
「脚の緊張を」
「そういうところです」
なぜ怒られるのか。
仕事である。
箱の中には、白磁の薄皿が十枚入っていた。
そのうち、一枚の縁が欠けている。
大きな破損ではない。
だが、商品としては出せない。
そして、その欠けた縁が、隣の皿を傷つけかけていた。
「一枚で済んだか」
エリュカが言った。
リンファは深く息を吐いた。
「済ませます」
彼女は、欠けた一枚を取り出した。
白い。
薄い。
光を通す。
縁だけが、少し欠けている。
その欠け方を、リンファは長い爪の先でなぞった。
「これは売れません」
「はい」
「ですが、見本としては使えます」
「欠けています」
「だから、断面を見せます」
リンファの目が商人の目になった。
「ボーンリュージン磁器は、薄さと白さだけではありません。断面の緻密さを見せられます。欠けたものを隠すより、欠けても中まで白いことを見せる」
強い。
この人は強い。
商談で、欠けを傷ではなく説明に変える気だ。
エリュカがわずかに笑った。
「いつもの目だ」
「ええ」
「では、守る」
「お願いします」
短いやり取りだった。
信頼している。
本当に信頼している。
僕は、また感心した。
ミーナが横でため息をついた。
「もうだめかもしれない」
「何が」
「あんたが」
*
新規顧客のハウゼン家へ向かうことになった。
本来なら、僕は同行しない。
ギルドの仮帳場職員が、いちいち商談へついていくわけにはいかない。
だが、今回は開封証人が僕である。
三番箱の開封記録、欠けた皿の扱い、見本転用、商談前説明。
そこまで書いた以上、紹介元と新規顧客の前で説明できる者が必要だった。
「同行をお願いします」
リンファが言った。
「ギルド職務としてなら」
「もちろんです」
リンファは微笑んだ。
上品だった。
非常によくない。
エリュカが荷車の横へ移動した。
「乗るか」
「どこへ」
「私の後ろだ。歩くより早い」
ケンタウロスの背に乗る。
それがどういう意味を持つのか、僕は知らない。
知らないが、背後に四人いる。
四人とも、こちらを見ている。
僕は慎重に言った。
「文化圏上、問題はありますか」
エリュカは少し考えた。
「護衛中、依頼人や負傷者を背に乗せることはある」
「では、職務上は問題なし」
「ただし、落とさないと誓う」
「重い意味がありますか」
「少し」
「少し」
「かなり」
言い直した。
やはり。
僕は地面を見る。
歩いて行ける距離ではある。
ただし、荷車の速度に合わせると遅い。
ハウゼン家との面会時刻もある。
「歩きます」
僕は言った。
ミーナが露骨にほっとした。
グレナさんが笑った。
サフィラが頷いた。
リリカが、腰帯から伸ばしていた仮糸を少し緩めた。
すると、エリュカが言った。
「足の遅い書記だな」
「はい」
「荷車に遅れると、商談に遅れる」
「はい」
「なら乗れ」
「しかし、文化圏上の意味が」
「護衛契約として処理する」
「書面にできますか」
「できる」
エリュカは契約書を取り出した。
速い。
非常に速い。
ケンタウロスは走るだけでなく、契約も速いらしい。
「一時輸送補助。対象、ギルド証人ノル。目的、商談立会い。範囲、南門仮帳場より西門内ハウゼン家まで。身体接触は輸送上必要な範囲。落下防止誓約あり。婚姻・伴侶・背預けの儀ではない」
「最後が大事です」
ミーナが言った。
「大事だねえ」
グレナさんが言った。
「とても大事です」
サフィラが言った。
「構造上、明記が必要です」
リリカが言った。
四人の圧が強い。
エリュカは四人を見た。
そして、何かを察した顔をした。
「お前、面倒な男か」
「否定したいです」
「否定は弱いな」
「はい」
僕は署名した。
乗った。
高かった。
とても高かった。
エリュカの背は安定していた。
歩き出すと、揺れはあるが、崩れない。
蹄の音が石畳を打つ。
胸の奥に響く。
「怖いか」
エリュカが聞いた。
「少し」
「正直だな」
「嘘を書くと後で困るので」
「背ではなく帳の話か」
「どちらもです」
エリュカは小さく笑った。
その笑いが、風の中で聞こえた。
非常によくない。
とてもよくない。
*
ハウゼン家の商談は、荒れた。
まず、新規顧客の番頭が欠け皿を見て顔をしかめた。
「輸出初回で欠けとは」
リンファは頭を下げた。
「封内の一枚に欠けが出ました。隠さず、見本としてお持ちしました」
「見本?」
「はい。こちらが断面です」
彼女は欠けた皿を光へかざした。
薄い白磁の断面に、光が通る。
白い。
中まで白い。
濁りがない。
番頭の目が少し変わった。
リンファは続けた。
「外の白さは、釉で見せられます。しかし、断面の白さは、土と焼きの差です。欠けたものを売るつもりはありません。ですが、欠けても中までこの白さであることを、最初にご覧いただきたい」
うまい。
非常にうまい。
傷を、品質説明に変えている。
番頭は皿を受け取ろうとした。
その瞬間、エリュカの蹄が一つ鳴った。
かん、と。
番頭の手が止まる。
「手袋を」
エリュカが言った。
「何だと」
「脂がつく」
「護衛が口を出すのか」
「商品を守るのも護衛だ」
番頭の眉が上がった。
空気が悪くなる。
僕はすぐに前へ出た。
「ハウゼン家番頭殿。開封証人として記録します。欠け皿は販売品ではなく、断面確認用見本です。以後の検分は手袋使用、もしくは布越し。これは輸出者側の品質保持手順として記載できます」
番頭は僕を見た。
「ギルドの者か」
「はい。結束市商人ギルド仮帳場、ノルです」
「仮か」
「仮ですが、帳は書けます」
番頭は少し鼻で笑った。
だが、手袋を出させた。
よし。
仮でも勝てる時はある。
リンファが横目で僕を見た。
目が少し笑っていた。
非常によくない。
*
商談は続いた。
ハウゼン家は値を下げようとした。
リンファは下げなかった。
番頭は、初回破損を理由にした。
リンファは、破損処理の透明性を理由にした。
番頭は輸送不安を突いた。
エリュカが街道ごとの揺れと荷締め方法を説明した。
番頭は、次回も欠けるのではと言った。
僕が、今回の開封記録と再梱包手順、車輪沈み地点の記録、紹介元サーウェル商会への照会欄を提示した。
番頭は、若い商人にしては準備がよいと言った。
リンファは言った。
「若い商人だから、準備します」
強い。
この人は、やはり強い。
最終的に、初回六箱のうち五箱は通常検品、三番箱の欠け一枚は販売外見本、次回取引は試験的に十二箱。
値下げなし。
ただし、輸送中破損時の立会い記録手順を契約に追加。
商談は成立した。
リンファは静かに頭を下げた。
エリュカは黙って立っていた。
だが、彼女の尾が少しだけ揺れた。
嬉しいらしい。
分かりにくい。
しかし、分かると少し嬉しい。
非常によくない。
*
帰り道、リンファは言った。
「ノルさん」
「はい」
「あなたは、よい帳を書きますね」
「ありがとうございます」
「欠けを隠さず、傷にせず、商談に残しました」
「必要だったので」
「必要でも、できない者は多いです」
褒められている。
非常によくない。
エリュカも言った。
「背で硬くならなかった」
「かなり硬くなっていました」
「最初だけだ」
「落ちたくなかったので」
「落とさないと言った」
「だから乗れました」
エリュカは少し黙った。
そして言った。
「そうか」
短い。
だが、何かが重い。
僕はすぐに聞いた。
「今のは文化圏上、重い言葉ですか」
「少し」
「少し」
「かなり」
まただ。
背後から四人分の視線を感じる。
いや、今回は背後にはいない。
しかし、感じる。
共同責任帳の視線である。
*
南門へ戻ると、四人が待っていた。
なぜいるのか。
仕事はどうしたのか。
聞いてはいけない気がした。
ミーナは僕を見た。
次にリンファを見た。
次にエリュカを見た。
そして深く息を吐いた。
「増えた?」
「増えていない」
僕は即答した。
「契約は?」
「一時輸送補助契約のみ」
「身体接触は?」
「輸送上必要な範囲」
「誓約は?」
「落下防止」
「感情は?」
「帳に書きにくい」
「出た」
ミーナが頭を抱えた。
グレナさんは笑っている。
「これは、もう半分増えてるねえ」
「増えていません」
サフィラがリンファの顔を見た。
「疲れていますね。商談後の熱です」
リンファが少し驚いた。
「分かるのですか」
「分かります」
「龍人の体調も?」
「完全には。でも、顔色と手の冷えは見ます」
「興味深いです」
「薬湯を出します」
「いただきます」
危ない。
サフィラとリンファが薬湯で接続した。
リリカは、エリュカの脚まわりを見ていた。
「蹄用の荷紐配置、すごくきれいです」
エリュカが少し眉を上げた。
「分かるのか」
「はい。重心が前へ逃げないよう、横糸が二重です。荷車牽引用ではなく、護衛走行用ですね」
「その通りだ」
「見せてもらっても?」
「触るな。だが、見てもいい」
危ない。
リリカとエリュカが紐で接続した。
ミーナは僕を睨んだ。
「ノル」
「はい」
「本当に増やさない気ある?」
「あります」
「説得力がない」
「なぜ」
「今、二人とも自然にうちの輪に入ってるからよ!」
僕は見た。
リンファはサフィラの薬湯を受け取っている。
エリュカはリリカに護衛紐を見せている。
グレナさんはエリュカと肩の高さを比べている。
ミーナはリンファの紹介状の文字の美しさに少し悔しそうな顔をしている。
なるほど。
輪に入っている。
構造としては、かなり自然である。
リリカなら、仮糸を広げながらそう言うだろう。
そう思った瞬間、リリカがこちらを見た。
「ノルさん」
「何だ」
「構造上、かなり自然です」
やはり。
*
その夜、リンファとエリュカは、ギルドの客室に泊まることになった。
翌朝、サーウェル商会へ報告。
その後、ハウゼン家との次回契約書を整える。
つまり、僕の仕事はまだ終わっていない。
共同責任帳は増やさない。
だが、商業帳は増える。
それは仕方ない。
僕はそう思っていた。
しかし、夕食後、リンファが僕の机へ来た。
エリュカも一緒だった。
さらに、ミーナ、グレナさん、サフィラ、リリカも来た。
僕の部屋は、また狭くなった。
とても狭い。
オーガ、ラミア、アラクネ、龍人、ケンタウロスが一部屋にいる。
第1文化圏の幼なじみもいる。
そして、僕がいる。
密度が高い。
文化圏的にも、物理的にも高い。
「ノルさん」
リンファが言った。
「本日の件、ありがとうございました」
「仕事です」
「仕事でした」
彼女は頷いた。
「ですが、仕事以上のことでもありました」
よくない。
非常によくない。
「本日、あなたは私の商号を傷にしませんでした。欠けた皿を、隠すものではなく、説明するものに変えました」
「それはリンファさんの判断です」
「判断を帳に置いたのは、あなたです」
リンファは白磁の欠片を机に置いた。
三番箱の欠けた皿の縁。
小さく磨かれている。
「龍人商人にとって、初回取引の欠けを共に処理した者は軽くありません」
「文化圏上の重みがありますか」
「少し」
「少し」
「かなり」
今日三度目である。
僕は頭を抱えた。
エリュカが続けた。
「私は、背に乗せた」
「一時輸送補助契約です」
「そう書いた」
「書きました」
「だが、落とさないと誓った」
「書きました」
「私は、商売相棒以外を背に乗せることは少ない」
「先に言ってください」
「聞かなかった」
「聞きました」
「少し、と答えた」
「かなりでした」
「かなりだったな」
なぜ認めるのか。
遅い。
非常に遅い。
ミーナが、静かに言った。
「それで?」
リンファとエリュカは、互いを見た。
そこには、やはり恋愛ではない強い信頼があった。
商売の相棒。
道と荷を共にしてきた者同士の信頼。
その上で、二人は同時に僕を見た。
「共同責任帳に、商業責任欄を追加していただきたいのです」
リンファが言った。
「護衛輸送責任欄も」
エリュカが言った。
「婚姻ではなく?」
僕は確認した。
リンファは微笑んだ。
「最初は」
エリュカは短く言った。
「今は、少し違う」
四人がざわついた。
いや、六人か。
僕もざわついた。
「違うとは」
僕が聞くと、リンファは白磁の欠片を指で押さえた。
「あなたの帳に入る商売は、傷を隠さない。私はそれを信じたい」
エリュカは、自分の胸を軽く叩いた。
「私は、リンファの荷を守る。今日、あなたも守った。なら、守る輪が増える」
「輪」
リリカが反応した。
「輪ですか」
「道の輪だ」
エリュカが言った。
「走る者は、前だけ見ない。横も、後ろも、荷も見る」
リリカの目が輝いた。
「横糸構造です」
「やめてくれ」
僕は思わず言った。
「構造にしないでくれ」
「もう構造です」
リリカは言った。
無慈悲だった。
*
話し合いは長くなった。
ミーナは、まず第1文化圏上の登録可能性を確認した。
「商業責任欄なら、仮登録はできる。でも共同責任帳に入れるなら、家内関係と混ざる危険があるわ」
グレナさんは腕を組んだ。
「護衛なら、うちの盾内誓約と近いね。エリュカの背預けと、あたしの盾内は似てるところがある」
サフィラは薬湯を配りながら言った。
「商談後の体調管理も必要です。リンファさんは、緊張後に手が冷えるタイプです」
リンファは少し驚いた顔をした。
「分かるのですね」
「分かります」
リリカは、携帯していた図示用の仮糸を広げ、巨大な関係図を作った。
「ノルさんを中心にすると危険なので、今回はノルさん中心ではなく、共同責任帳そのものを結び目にします」
「それは助かる」
「ただし、結果的にノルさんも結ばれます」
「助からない」
エリュカは図を見て、短く言った。
「走りにくそうだ」
「図なので」
「道なら、ここの線は曲げた方がいい」
「なるほど!」
リリカがさらに線を足した。
危ない。
アラクネとケンタウロスが、関係図を道路設計にし始めた。
リンファは、僕の帳へ視線を落とした。
「ノルさん」
「はい」
「あなたは、どう思いますか」
「正直に言えば」
「はい」
「これ以上増やすと、僕の理解が追いつきません」
「でしょうね」
リンファは笑った。
少しだけ、柔らかく。
「ですが、理解する前に記録することもあるのでしょう?」
痛いところを突かれた。
ミーナが横で小さく笑った。
「その通りよ」
「ミーナまで」
「だって、その通りだもの」
僕は帳を見た。
追加欄なし。
そう書いてある。
その下に、余白がある。
なぜ余白を残したのか。
過去の自分を責めたい。
帳に余白を残すと、必ず何かが入る。
*
結論は、こうなった。
四文化圏共同責任帳は、六文化圏共同責任帳にはしない。
これはミーナの強い主張だった。
「名前を変えるたびに制度が揺れるから」
正しい。
だから名称はそのまま。
ただし、補助別紙を付ける。
商業責任別紙。
護衛輸送責任別紙。
そこに、リンファとエリュカの名を仮登録する。
婚姻欄ではない。
伴侶欄でもない。
家内欄でもない。
ただし、共同責任帳の外でもない。
非常に曖昧である。
だが、結束市ラガンでは、曖昧なものをいきなり切ると揉める。
いったん仮欄を作る。
見る。
揉める。
直す。
また見る。
だいたい、制度とはそういうものだ。
「では、署名を」
僕が言うと、リンファは細い筆で名を書いた。
字が美しい。
悔しいほど美しい。
ミーナも見ていた。
やはり悔しそうだった。
エリュカは、署名の横に蹄印を押した。
大きい。
紙の三分の一を使った。
「大きすぎます」
僕が言うと、エリュカは首を傾げた。
「蹄だからな」
「次から専用欄を作ります」
「頼む」
専用欄。
また増えた。
*
署名が終わった後、リンファは僕に白磁の欠片を渡した。
「これは?」
「商業責任別紙の控え印にしてください」
「印?」
「欠けを隠さなかった日の印です」
「重いですね」
「少し」
「少し」
「かなり」
僕は受け取った。
受け取ってしまった。
白磁の欠片は軽い。
だが、帳の意味としては重い。
エリュカは、自分の護衛紐の端を短く切った。
「これは輸送責任別紙へ」
「護衛紐を切っていいのですか」
「結び直せる」
「重いですね」
「少し」
「もういいです」
エリュカは笑った。
その笑いは、短く、低く、気持ちよかった。
非常によくない。
僕は机に向かい、別紙を書いた。
商業責任別紙。
輸出者リンファ。
ボーンリュージン磁器。
初回破損隠蔽なし。
欠け皿見本転用。
新規顧客ハウゼン家取引成立。
護衛輸送責任別紙。
護衛エリュカ。
一時輸送補助。
落下防止誓約。
背預け、ただし婚姻儀ではない。
ただし、今後検討。
最後の一行は、僕ではない。
誰かが書き足した。
字を見る。
ミーナではない。
サフィラでもない。
リンファでもない。
リリカの字でもない。
グレナさんだ。
「グレナさん」
「何だい」
「今後検討、とは」
「人生は長いからねえ」
エリュカが頷いた。
「道も長い」
リンファが微笑んだ。
「商売も長いです」
サフィラが薬湯を置いた。
「体調管理も長期です」
リリカが腰の糸束から作業糸を結んだ。
「構造も長期安定型です」
ミーナが頭を抱えた。
「もう、本当にどうするのよ」
僕は帳を見た。
四文化圏共同責任帳。
商業責任別紙。
護衛輸送責任別紙。
白磁欠け印。
蹄印。
護衛紐。
薬湯。
糸。
盾。
木札。
婚姻制度。
商売。
護衛。
責任。
感情。
全部、帳に書きにくい。
だが、書かないともっと揉める。
「なるほど」
僕は筆を取った。
「責任を取る、という言葉は、さらに増えるんだな」
六人が同時にこちらを見た。
ミーナが言った。
「そこじゃない」
グレナさんが笑った。
「いや、今回は半分そこだね」
サフィラがため息をついた。
「お兄さん、やっぱりそういうところです」
リリカが頷いた。
「構造としては進展です」
リンファが静かに笑った。
「商売としても、悪くありません」
エリュカが短く言った。
「守るものが増えた」
僕は帳へ一行書いた。
――追加欄なし、の記載は削除。
なぜなら、すでに増えたからである。




