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十五文化圏周縁抄 お飾り坊ちゃん立志伝  作者: 黒瀬 量衡


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第1項 責任を取ってくださいと言われましたが、婚姻制度のことでした

「責任を取ってください」


 そう言った女は、四人いた。


 幼なじみ。


 冒険者のお姉さん。


 薬湯を持った妹分。


 糸を絡ませたドジっ娘。


 場所は、結束市ラガン。


 十五文化圏の荷と人と証文が、一度ここへ入り、ここからまた外へ出ていく、流通の大きな結び目である。


 北から鉄が来る。


 南から薬草が来る。


 東から糸と織物が来る。


 西から塩と干し肉が来る。


 人間の商隊。


 オーガの護衛隊。


 ラミアの薬師組。


 アラクネの糸荷。


 ドワーフの刻印箱。


 ケンタウロスの早駆け便。


 ヤマトの紙包み。


 龍人の官印付き木箱。


 そうしたものが、朝から晩までこの市の門を通る。


 荷はここで積み替えられる。


 護衛はここで雇い替えられる。


 封紐はここで確認される。


 通行証はここで書き足される。


 揉め事はここでいったん止められる。


 止められなければ、次の街道で血を見る。


 だから、商人ギルドは忙しい。


 そして僕は、その商人ギルドで働いている。


 働いている、と言うと少し立派に聞こえる。


 正しく言うなら、父の商会の名で押し込まれた、若手見習いである。


 親の七光り。


 お坊ちゃん。


 帳場の飾り。


 父の名で椅子をもらった男。


 そう呼ばれても、あまり反論はできない。


 僕は、ギルド職員になるのか、商人になるのか、父の商会を継ぐのか、まだ決めていなかった。


 明日も帳場に座る。


 荷札を直す。


 通行証の穴を埋める。


 異文化圏の言い分を聞く。


 護衛契約に足りない欄を書き足す。


 それだけはする。


 けれど、その先は考えていない。


 考えなくても、父の商会は大きい。


 考えなくても、食うには困らない。


 考えなくても、たぶん何とかなる。


 僕はそんなふうに、適当に生きていた。


 その結果が、これである。


 四人の女が、僕の借り部屋に並んでいる。


 全員、本気の顔をしている。


 問題は、四人とも、責任という言葉の意味が少しずつ違っていることである。


 さらに大きな問題は、僕がそれを、恋愛ではなく婚姻制度の差として処理しようとしてしまったことである。


「なるほど」


 僕は帳を開いた。


「つまり、文化圏ごとに婚姻制度が違うんだな」


 四人が、同時にこちらを見た。


 幼なじみのミーナは、耳まで赤くして怒った。


「そこじゃない!」


 オーガの冒険者、グレナさんは、腕を組んで笑った。


「いや、半分はそこだけどねえ」


 ラミアのサフィラは、薬湯の入った小瓶を胸に抱えた。


「お兄さん、そういうところです」


 アラクネのリリカは、床に落として絡ませた持参の仮糸をほどきながら言った。


「構造としては合っています。でも、感情が抜けています」


 感情。


 それは、帳に書きにくいものだった。


     *


 僕の仕事は、きれいな仕事ではない。


 王都の商会主が座る大きな机ではない。


 銀貨の山を数える仕事でもない。


 港で大型船を買い付けるような仕事でもない。


 僕がいるのは、結束市ラガンの商人ギルド、その入口近くの仮帳場である。


 そこへ来るものは、だいたい整っていない。


 荷札の字が違う。


 封紐の色が違う。


 重さの単位が違う。


 護衛契約の名前と、実際に立っている護衛の名前が違う。


 荷物の中身が、申告より湿っている。


 干し肉が百束と書かれているのに、九十二束しかない。


 ただし、八束は道中で護衛へ支払ったと主張される。


 その護衛は、支払いではなく分け前だと言う。


 商人は契約書を出す。


 護衛は誓いを持ち出す。


 ラミアは湿りを見ろと言う。


 アラクネは封紐を見ろと言う。


 オーガは背中を見ろと言う。


 第1文化圏の役人は、紙を見ろと言う。


 全部、少しずつ正しい。


 だから、面倒くさい。


 僕の仕事は、それをいったん紙に落とすことだった。


 落とせないものもある。


 だが、落とせるところまで落とす。


 そこから先は、上役に回す。


 僕は若手だから、難しい判断はしない。


 面倒な責任は、上役へ送る。


 そのはずだった。


 なのに、自分の責任だけは、上役へ送れないらしい。


     *


 最初に僕の前へ来たのは、ミーナだった。


 ミーナは幼なじみである。


 同じ第1文化圏の出身。


 同じ路地で育った。


 同じ井戸の水を飲んだ。


 同じ洗い場で叱られた。


 同じ冬に、焼き栗を分けた。


 彼女の父は、父の商会と取引のある小商人だ。


 ミーナ自身も、今はギルドの写し場で働いている。


 字が速い。


 帳の端を折らない。


 封蝋を垂らす位置がきれい。


 僕よりよほど職員に向いている。


 僕がそれを言うと、彼女は怒る。


「あんたが真面目にやればいいだけでしょ」


「真面目にはやっている」


「目の前の仕事だけでしょ」


「仕事は仕事だ」


「その先よ。あんた、ギルドに残るの? 商人になるの? 父親の商会を継ぐの? いつまで仮職員みたいな顔してるのよ」


 痛いところを突く。


 ミーナは昔からそうだ。


 僕の襟が曲がっていれば怒る。


 帳の端が折れていれば怒る。


 朝食を抜けば怒る。


 将来を考えていなければ怒る。


 人はそれを世話焼きと言う。


 僕は、幼なじみだからだと思っていた。


 そのミーナが、ある朝、僕の机に古い木札を叩きつけた。


「これ、覚えてる?」


 木札には、子どもの字でこう刻まれていた。


 ノルとミーナ。


 おおきくなったら、いっしょの帳場。


 僕は懐かしくなった。


「ああ。十歳の頃のやつだな」


「そうよ」


「字がひどいな」


「見るところ、そこ?」


 ミーナは拳を握った。


「これは約束でしょ」


「子どもの約束だろう」


「第1文化圏では、家同士が黙認した幼年期の共同帳約束は、婚約の芽として扱える場合があるの」


「場合がある、だろう」


「場合があるなら、あるの!」


 彼女は真っ赤な顔でそう言った。


 僕は帳を開いた。


「なるほど。幼少期共同帳約束。婚約予備事案。証人は?」


「うちの母と、あんたの叔母さん」


「強いな」


「強いのよ」


 ミーナは胸を張った。


 そして、すぐに目を逸らした。


「べ、別にあんたの嫁になりたいとか、そういうのじゃないから」


「違うのか」


「違わないけど違う!」


 難しい。


 第1文化圏の婚姻制度は、やはり複雑である。


     *


 二人目は、グレナさんだった。


 第4文化圏オーガの冒険者である。


 年上。


 背が高い。


 肩が広い。


 笑うと牙が見える。


 酒場の長椅子に座ると、周囲の男たちが少し姿勢を正す。


 戦場では大盾を持つ。


 街道では荷馬車の横を歩く。


 倉庫の荒事では、扉ごと悪漢を外へ出す。


 そして、僕との距離が近い。


 とても近い。


 彼女は結束市に出入りする護衛冒険者で、何度も商人ギルドで契約を結んでいた。


 僕は、その契約を何度か直したことがある。


 報酬欄の抜け。


 負傷時の治療費。


 荷馬が死んだ場合の責任。


 盗賊ではなくゴブリンに襲われた場合の追加危険手当。


 商人がよく削る欄である。


 僕はそれを書き足した。


 なぜなら、後で揉めるからである。


 それだけだった。


 僕にとっては、ただの仕事だった。


 グレナさんにとっては、違ったらしい。


 ある日、彼女は僕の机へ来るなり、肘をついた。


「ノル」


「はい」


「あたしの盾の内側で三晩寝た男が、ただの書記ですって顔をしてるのは、さすがにどうかと思うよ」


「護衛依頼中でしたから」


「そうだよ」


「野営地が狭かったので」


「そうだね」


「雨も降っていましたし」


「降っていたねえ」


「だから、盾の内側に入れてもらいました」


「入れたねえ」


「助かりました」


「それで終わり?」


 グレナさんは笑っていた。


 だが、目は笑っていなかった。


 僕は少し姿勢を正した。


「終わりではないのですか」


「オーガの盾は、雨宿りの屋根じゃない」


 彼女は自分の胸を拳で軽く叩いた。


「盾の内側に入れるってことは、命の内側に入れるってことさ」


 僕は筆を取った。


「盾の内側。命の内側。誓いに類する関係」


「帳に書くな」


「すみません。職業病で」


 グレナさんはため息をついた。


 それから、僕の顎を指で持ち上げた。


 近い。


 やはり近い。


「あんたは弱い」


「はい」


「剣も下手」


「はい」


「魔法もない」


「はい」


「でも、あの夜、逃げなかった」


 雨の夜を思い出す。


 狼の群れ。


 壊れた荷車。


 負傷した馬。


 グレナさんの左肩から流れる血。


 僕は逃げなかった。


 いや、正しく言えば、逃げられなかった。


 帳と薬袋を抱えて、彼女の盾の後ろに座り込んでいた。


「あんたは震えていた」


「はい」


「でも、あたしの後ろに残った」


「はい」


「それは、オーガの女にとって軽くない」


 僕は考えた。


 命を預けた。


 盾の内側にいた。


 負傷時に離れなかった。


 契約上の治療費を削らせなかった。


 これらは、第4文化圏における誓いの形成要件に近い。


「なるほど」


「何がなるほどだい」


「文化圏差です」


「あんた、本当に殴るよ」


 グレナさんは笑いながら、僕の頭を片手で抱え込んだ。


 柔らかいものと、強い腕と、革鎧の匂いが同時に来た。


 僕は、これもオーガ式の親愛表現なのだろうと思った。


 違ったらしい。


     *


 三人目は、サフィラだった。


 第5文化圏ラミアの薬師見習いである。


 年は僕より下。


 妹分。


 そう思っていた。


 彼女は人間の上半身に、長い蛇身を持つ。


 動きは静かだが、気づくとすぐそばにいる。


 薬草の匂いがする。


 湯気の匂いもする。


 結束市では、薬草も大きな荷である。


 乾いた葉。


 湿らせておく根。


 煮出す実。


 粉にする樹皮。


 熱のある者に使うもの。


 傷へ使うもの。


 腹を壊すもの。


 腹を治すもの。


 それらは、ラミアの薬師組がよく持ち込む。


 僕はその荷札を何度も直した。


 湿りに弱い荷を、乾いた干し肉の横へ積ませない。


 熱を嫌う薬を、炉の近くに置かせない。


 毒と薬の封紐を、同じ色にしない。


 それだけだった。


 僕にとっては、やはり仕事だった。


 サフィラにとっては、違ったらしい。


 彼女は、僕の体調をやたら見るようになった。


「お兄さん、今日も朝ごはんを抜きましたね」


「忙しくて」


「だめです」


「後で食べる」


「後で食べる人は、たいてい食べません」


 サフィラはそう言って、机に小さな椀を置いた。


 薬湯。


 根菜の粥。


 焼いた薄い肉。


 そして、胃を温める香草。


「いつも悪いな」


「悪いと思うなら、毎朝ちゃんと食べてください」


「気をつける」


「気をつける人も、たいてい気をつけません」


 厳しい。


 だが、彼女の言うことはだいたい正しい。


 僕はよく朝食を抜く。


 よく夜更かしをする。


 よく冷えた指で筆を持つ。


 サフィラはそれを見つけるたび、僕の手に温かい布を巻いた。


 僕は、親切な妹分だと思っていた。


 ある日、彼女は僕の手首を取った。


「お兄さん」


「何だ」


「私、もうかなり深いと思います」


「何が?」


「関係が」


 僕は粥を吹き出しかけた。


「関係?」


「はい」


 サフィラは真剣だった。


「毎朝、体温を見ています」


「助かっている」


「食事も見ています」


「助かっている」


「寝不足も見ています」


「申し訳ない」


「薬湯も飲ませています」


「本当に助かっている」


「疲れて倒れた時は、尾で寝床を温めました」


「……それは初耳だ」


「お兄さん、寝ていましたから」


 彼女は当然のように言った。


「第5文化圏では、身を預かることは軽くありません。熱を見ること。湿りを見ること。食べるものを見て、眠る場所を整えること。それは、かなり家の内側のことです」


 僕は筆を探した。


 サフィラに手を押さえられた。


「今は書かないでください」


「いや、重要な文化資料で」


「お兄さん」


「はい」


「そういうところです」


 サフィラは少し頬を膨らませた。


「私は妹分ではありません」


「違うのか」


「違います」


「では、何と呼べば」


 サフィラは真っ赤になった。


 尾の先が床をぱたぱた叩く。


「そ、それを私に言わせるんですか」


「制度上の名称が分からないと、帳に」


「帳から離れてください!」


 その日から、僕の机には薬湯が二つ置かれるようになった。


 一つは体調用。


 もう一つは、僕が余計なことを言った時に黙らせる用らしい。


     *


 四人目は、リリカだった。


 第13文化圏アラクネの糸番である。


 糸を扱う種族である。


 糸。


 幾何学。


 結び。


 文様。


 構造。


 第13文化圏の者たちは、関係を糸で見るという。


 結束市では、アラクネの糸荷はとても重要である。


 荷紐。


 封紐。


 織物。


 仮結束材。


 開封確認用の細糸。


 契約箱に巻く色糸。


 どの荷が開けられたか。


 どの契約が切れたか。


 誰が責任を持つか。


 それを糸で見る文化圏である。


 リリカは、その第13文化圏の出身だった。


 ただし、少し問題があった。


 彼女は、よく絡まる。


 自分の糸に。


 他人の糸に。


 荷紐に。


 暖簾に。


 洗濯紐に。


 時々、何もない場所でも転ぶ。


「す、すみません!」


 それが彼女の口癖だった。


 僕が最初に彼女を助けたのは、ギルドの裏庭だった。


 納品用の糸束を運んでいたリリカが、門の金具に糸を引っかけ、自分の脚と荷車と干し布をまとめて縛ってしまったのである。


 僕は三十分かけてほどいた。


 彼女は涙目で何度も頭を下げた。


「本当にすみません。弁償します。糸も、布も、時間も」


「いや、ほどけたからいい」


「でも、あなたは私の糸をほどきました」


「そうだな」


「結び直しもしました」


「したな」


「端も持ちました」


「持ったな」


 リリカはその場で固まった。


 僕は、またどこか絡まったのかと思った。


 違った。


 後日、彼女は巻物を持ってきた。


 広げると、そこには複雑な線が描かれていた。


 僕。


 リリカ。


 糸束。


 門の金具。


 荷車。


 干し布。


 そして、赤い線。


「これは?」


「関係図です」


「事故の?」


「はい。ですが、第13文化圏では、事故であっても結びは結びです」


「なるほど」


「あなたは、私の糸をほどき、結び直し、端を持ちました」


「はい」


「つまり、もう外側ではありません」


 僕はしばらく考えた。


「弁償では済まないということか」


「違います」


「では、修繕費を」


「違います」


「では」


 リリカは、顔を真っ赤にした。


「あなたは、私の結び目の中にいます」


 そう言った拍子に、彼女の腰帯へ差していた関係確認用の仮糸束がほどけた。


 緊張して、留め具へ指を引っかけたらしい。


 落ちた仮糸が椅子に絡まり、僕の足に絡まり、彼女自身の脚にも絡まった。


「あっ」


「危ない」


 僕は立ち上がろうとした。


 立てなかった。


 二人で床に転がった。


 リリカは僕の胸の上で固まり、さらに赤くなった。


「す、すみません! 違うんです! これは罠糸ではなくて、その、関係の確認用の仮糸で……あっ、また絡まりました!」


「仮糸」


「はい!」


「便利だな」


「便利ではありません! いま完全に絡まりました!」


 僕は笑ってしまった。


 リリカも、少しだけ笑った。


 その時から、彼女は僕のところへ関係図を持ってくるようになった。


 僕は、それを文化研究だと思って読んでいた。


 違ったらしい。


     *


 四人が同時に意識し始めたのは、春の大市の少し前だった。


 僕はまったく気づいていなかった。


 気づいていなかったので、全員に同じ日の同じ時間の手伝いを頼んだ。


 ミーナには、古い家約束の写しを。


 グレナさんには、護衛契約における盾内誓約の証言を。


 サフィラには、薬師組の身体管理記録の読み替えを。


 リリカには、第13文化圏の結び契約の図解を。


 同じ部屋に四人がそろった。


 その時点で、何かが起きると気づくべきだった。


 僕は気づかなかった。


「助かる。四人とも、それぞれの文化圏の制度が分かるから」


 そう言った瞬間、部屋の温度が下がった。


 ミーナが目を細めた。


「それぞれ?」


 グレナさんが笑った。


「制度?」


 サフィラが薬瓶を置いた。


「お兄さん」


 リリカが手にした仮糸を震わせた。


「あの、これは構造上、たいへん危険です」


 僕は帳を開いた。


「大丈夫だ。順番に聞く」


「順番?」


 ミーナが言った。


「順番なら、私が最初よね」


 グレナさんが片眉を上げた。


「古いだけで先っていうのは、第1文化圏の悪い癖だよ」


「命を預けたのは最近でも、幼い頃から一緒だったのは私です」


「でも、あたしの盾の内側にいたのはノルだ」


「お兄さんの朝ごはんを見ているのは私です」


「え、ええと、糸で見ると、全員ノルさんに集まっています」


 リリカが恐る恐る言った。


 三人が同時に彼女を見た。


 リリカは慌てて手を振った。


「あっ、違います! 悪い意味ではなく! 構造上です!」


 僕はその関係図を見たくなった。


「それ、後で見せてくれ」


「今そこじゃない!」


 四人の声が重なった。


     *


 それから、膠着状態が続いた。


 ミーナは正面から来た。


 幼なじみの強さである。


 僕の部屋を片づける。


 古い木札を見える場所に置く。


 叔母に昔の約束を確認する。


 僕の外套を勝手に繕う。


 そして、ことあるごとに言う。


「順番は大事だからね」


 僕は頷いた。


「帳でも順番は大事だ」


「そういう意味じゃない!」


 怒られた。


 グレナさんは横から来た。


 冒険者の強さである。


 酒場で隣に座る。


 僕の肩に腕を回す。


 耳元で笑う。


 護衛依頼の帰りに、僕を片腕で馬車へ放り込む。


「あたしと来るかい?」


「どこへですか」


「いいところ」


「ギルドですか」


「もう少し柔らかい場所だね」


「施療院?」


 グレナさんは、しばらく僕を見た。


 それから頭を抱えた。


「鈍いにもほどがある」


 サフィラは下から来た。


 生活の強さである。


 朝食。


 薬湯。


 温かい布。


 寝不足の確認。


 昼の軽食。


 夕方の胃薬。


「お兄さん、今日から夜更かし禁止です」


「仕事が」


「だめです」


「でも」


「だめです」


 彼女は優しい。


 だが、だめなものはだめと言う。


 僕は従った。


 リリカは、構造で来た。


 糸の強さである。


 彼女は部屋に巨大な関係図を張った。


 僕を中心に、四人の線が伸びている。


 さらに、家名、誓い、薬湯、糸、盾、朝食、幼年期の木札、看病、命の貸し借り、結び直しが細かく結ばれていた。


「すごい」


 僕は感心した。


「これなら報告書に使える」


 リリカは泣きそうな顔になった。


「報告書ではないです」


 僕は首を傾げた。


 難しい。


 文化圏差だけでなく、感情差も大きいらしい。


     *


 四人は互いにけん制していた。


 だが、嫌い合っていたわけではない。


 それもまた、僕は気づくのが遅かった。


 ある雨の日、ミーナが僕の外套を繕っている横で、サフィラが薬湯を温めていた。


 グレナさんは濡れた革手袋を火に近づけすぎないよう見ていた。


 リリカは糸で窓の隙間をふさいでいた。


「ミーナさん、針仕事、きれいですね」


 サフィラが言った。


「べ、別に普通よ」


「ノルさんの袖、いつも直しているんですか」


「いつもじゃないわよ。たまたまよ。たまたま、ほつれているのを見つけるだけ」


「毎回?」


「毎回たまたま」


 グレナさんが笑った。


「かわいいねえ」


「からかわないでください!」


 ミーナは赤くなった。


 別の日、グレナさんが古傷を押さえていた。


 サフィラはすぐに気づいた。


「肩、熱を持っています」


「このくらい平気さ」


「だめです」


「ノルみたいなことを言うねえ」


「お兄さんより聞き分けがありません」


 サフィラは布と薬を出した。


 グレナさんは最初、笑っていた。


 だが、処置が終わると少し真面目な顔になった。


「ありがとよ」


「当然です。体を壊したら、ノルさんが心配します」


「あたしじゃなく、ノルのためかい」


「両方です」


 グレナさんは、しばらく黙った後、サフィラの頭を撫でた。


 また別の日、リリカが市場で転びかけた。


 ミーナが袖を掴み、グレナさんが荷車を止め、サフィラが擦り傷を見た。


 リリカは泣きそうになった。


「いつもすみません。私、邪魔ばかりで」


 ミーナはそっぽを向いた。


「邪魔なら助けないわよ」


 グレナさんは笑った。


「絡まってる方が、リリカらしい」


 サフィラは薬を塗った。


「でも、転び方は改善しましょう」


 リリカは泣いた。


 それから笑った。


 四人は、少しずつ仲良くなっていた。


 そして、仲良くなるほど、問題は深くなった。


 誰か一人だけが勝つと、他の三人が泣く。


 それを、四人とも分かってしまったからである。


     *


 最初に冗談を言ったのは、グレナさんだったらしい。


 後で聞いた話である。


 僕はその場にいなかった。


 四人だけで、ギルド裏の小部屋に集まっていたという。


 ミーナが言った。


「このままだと、誰も進まないわ」


 サフィラが頷いた。


「お兄さんは、全然気づいていません」


 リリカが小さく手を上げた。


「気づいていないというより、全部文化資料に変換しています」


「最悪ね」


「最悪です」


「かわいいけど最悪だねえ」


 グレナさんが笑った。


 ミーナは彼女を睨んだ。


「笑いごとじゃありません」


「なら、どうするんだい。あんたが正妻になる?」


「な、なれるものなら……」


 ミーナはそこで黙った。


 サフィラを見た。


 リリカを見た。


 グレナさんを見た。


 全員、本気だった。


 ミーナは唇を噛んだ。


「……私だけが幸せになるのは、嫌」


 サフィラが小さく頷いた。


「私も、皆さんを傷つけたくありません」


 リリカは糸の端を握った。


「構造上、一つを切ると、全体が歪みます」


 グレナさんは腕を組んだ。


「じゃあ、切らなきゃいい」


 三人が彼女を見た。


 グレナさんは肩をすくめた。


「第1文化圏だと面倒だろうけどね。第4文化圏じゃ、誓いを複数で支えることもある。盾は一枚でも、後ろにいる者は一人とは限らない」


 サフィラが考え込んだ。


「第5文化圏でも、身を預かる者が複数いる家はあります。熱を見る者、薬を見る者、寝床を見る者が分かれることはあります」


 リリカの目が輝いた。


「第13文化圏では、複数の糸が一つの結び目に集まる形は、むしろ安定構造です」


 ミーナだけが、真っ赤になっていた。


「ま、待って。第1文化圏では、そんな簡単には」


 グレナさんがにやりと笑った。


「じゃあ、あんたは降りるかい」


「降りない!」


「なら、考えな」


 ミーナは両手で顔を覆った。


 長い沈黙のあと、小さな声で言った。


「共同帳……」


「ん?」


「家同士の正式婚ではなく、異文化間の共同責任帳としてなら、仮登録できるかもしれない」


 リリカが即座に携帯していた図示用の仮糸を張った。


「つまり、四文化圏共同責任構造」


 サフィラが薬瓶を置いた。


「体調管理も分担できます」


 グレナさんが笑った。


「夜の見張りも分担だね」


 ミーナが叫んだ。


「そこはまだ早い!」


 四人は顔を見合わせた。


 それから、なぜか全員笑ったらしい。


 結論は、同じだった。


 全員がノルを好き。


 全員、他の三人にも幸せになってほしい。


 全員、諦める気はない。


 全員、ノルの鈍感さに腹が立っている。


 そして全員、自分たちをここまで本気にさせたノルの魅力が悪い、という点で一致した。


 ひどい。


 僕は何も知らなかった。


     *


 その夜、僕は部屋で帳をまとめていた。


 題名はこうである。


 異文化間婚姻制度比較控。


 第1文化圏における幼年期共同帳約束。


 第4文化圏オーガにおける盾内誓約。


 第5文化圏ラミアにおける身体管理と家内関係。


 第13文化圏アラクネにおける糸結び構造。


 よい出来だった。


 少なくとも、僕はそう思った。


 これを四人に見せれば、誤解は解ける。


 それぞれの制度差を整理し、どの行為がどの文化圏でどれほど重いかを確認し、今後の不用意な越境を防げる。


 そう考えていた。


 扉が叩かれた。


「どうぞ」


 開いた。


 四人がいた。


 ミーナは髪を整えていた。


 グレナさんはいつもより薄い革上衣だった。


 サフィラは薬湯ではなく、甘い香りのする小瓶を持っていた。


 リリカは両手いっぱいに糸束を抱えていた。


「ちょうどよかった」


 僕は立ち上がった。


「比較表ができた。これで誤解は」


「誤解じゃない」


 四人が同時に言った。


 僕は止まった。


「誤解ではない?」


 ミーナが一歩前に出た。


「そうよ。私は、あんたが好き」


 僕は瞬きした。


 グレナさんが続いた。


「あたしもだよ」


 サフィラが頬を赤くして言った。


「私も、お兄さんが好きです」


 リリカが糸束を落としかけながら言った。


「わ、私もです。構造上も、感情上も、好きです」


 部屋が静かになった。


 僕は、帳を見た。


 四人を見た。


 もう一度、帳を見た。


「それは……文化圏ごとの好意表現の差ではなく?」


 ミーナの拳が震えた。


「まだ言うか!」


 グレナさんが笑った。


「これは重症だねえ」


 サフィラがため息をついた。


「お兄さん、診断します。鈍感です」


 リリカが小さく頷いた。


「かなり深い鈍感構造です」


 僕は椅子へ座り直そうとした。


 座れなかった。


 グレナさんが後ろに回り、退路を塞いでいた。


 ミーナが僕の襟を掴んだ。


 サフィラが僕の手首を押さえた。


 リリカが腰帯から引き出した仮糸が、足元へ伸びた。


「待ってくれ」


 僕は言った。


「これは、どの文化圏の婚姻手続きだ」


 ミーナが真っ赤な顔で言った。


「知らないわよ。あんたが新しく作りなさい」


 グレナさんが耳元で笑った。


「責任を取るって、そういうことだろう?」


 サフィラが真剣な顔で言った。


「お兄さん、逃げると身体に悪いです」


 リリカが半泣きで叫んだ。


「すみません、糸が絡まりました。でも、構造上はもう戻せません!」


 次の瞬間、僕は寝台の上に倒れていた。


 正確には、倒された。


 ミーナが左腕を押さえている。


 グレナさんが背後から肩を押さえている。


 サフィラが右手を握っている。


 リリカの仮糸が、僕の足と寝台の脚と、なぜか彼女自身の腰帯にも絡まっている。


 四人が、同時にこちらを見た。


「あなたが悪いんです」


 そう言われた。


 僕は天井を見た。


 そこには、リリカが持ち込んだ仮糸が一本、きれいに伸びていた。


 中心で、四本の糸が一つに結ばれている。


 なるほど。


 構造としては、安定している。


 そう思ってしまった自分が、たぶん一番悪い。


「待ってくれ」


 僕は最後に言った。


「せめて、帳に書かせてくれ」


 四人は顔を見合わせた。


 そして、ミーナが言った。


「後で」


 グレナさんが笑った。


「生きてたらね」


 サフィラが慌てて言った。


「死なせません!」


 リリカがさらに慌てて言った。


「あっ、すみません、また糸が!」


 寝台がきしんだ。


 僕の帳は、机の上で開いたままだった。


 そこには、こう書かれている。


 異文化間婚姻制度比較控。


 だが、いま必要なのは比較ではなかった。


 これはハーレムではない。


 少なくとも、僕が望んで作ったものではない。


 四つの文化圏の女たちが、それぞれの理屈と好意と友情を持ち寄り、親の七光りで適当に生きていた若手ギルド員一人に、ついに責任を取らせに来た事故である。


 そして、その事故は今、僕の寝台の上で、新しい制度になろうとしていた。

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