表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十五文化圏周縁抄 お飾り坊ちゃん立志伝  作者: 黒瀬 量衡


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/3

第3項 共同責任帳は増やさないはずでしたが、漆器箱と潮歌と川筋の欄が来ました

 追加は、厳格な審査を経ること。


 前回、僕は帳にそう書いた。


 四文化圏共同責任帳。


 そこに、商業責任別紙と護衛輸送責任別紙が付いた。


 龍人の女商人リンシュウ。


 ケンタウロスの女護衛エリュカ。


 白磁の欠け印。


 蹄印。


 護衛紐。


 ボーンリュージン磁器。


 初回破損隠蔽なし。


 背預け、ただし婚姻儀ではない。


 ただし、今後検討。


 最後の一行は、今も納得していない。


 だが、帳に残った。


 帳に残ると、強い。


 だから僕は、次の頁にこう書いた。


 ――追加は、厳格な審査を経ること。


 これならよい。


 追加欄なし、などと不用意に断言したから、かえって増えたのである。


 ならば、次は手順にする。


 審査。


 確認。


 証人。


 比較。


 保留。


 評議。


 これで簡単には増えない。


 そう思った。


 その三日後。


 結束市ラガンの西門から、黒漆の箱を積んだヤマトの商人と、潮の匂いをまとったセイレーンの女船長と、川水の匂いをまとったリザードマンの女船主が来た。


 僕は、その時点で帳を閉じるべきだった。


     *


 ヤマトの商人は、名を志乃と言った。


 ヤマト風に言うなら、八雲屋志乃。


 年は、僕とそう変わらない。


 だが、立ち方が違う。


 静かである。


 声も静か。


 衣も派手ではない。


 墨に近い濃紺の着物。


 帯は深い赤。


 髪は後ろでまとめ、簪は一本だけ。


 ただ、その一本が黒漆だった。


 光を吸うような黒。


 角度を変えると、底に赤が沈む。


 たぶん、高い。


 非常に高い。


 そして、その後ろには黒い箱が八つ。


 箱もまた、黒漆である。


 側面に、薄く金の波。


 蓋の端に、小さな朱。


 荷札は紙。


 封は紙縒り。


 さらに、その上から細い絹紐が掛けられている。


 ヤマトの荷は、紙の顔をして来る。


 だが、紙だけでは終わらない。


 折り方。


 封じ方。


 紐の掛け方。


 墨の濃さ。


 印の傾き。


 余白。


 それらが、いちいち意味を持つ。


 非常に面倒である。


 ただし、美しい。


 美しいから、さらに面倒である。


「ヤマト漆器、八雲屋荷八箱」


 志乃は、静かに言った。


「うち二箱は、結束市から龍人文化圏方面への見本荷。残り六箱は、北倉サーウェル商会経由、王都向けです」


 整っている。


 商会名。


 荷数。


 経路。


 紹介元。


 見本荷。


 販売荷。


 すべて整っている。


 だが、僕はすぐに背後を見た。


 リンシュウがいた。


 なぜいるのか。


 仕事なのは分かる。


 ボーンリュージン磁器の次回十二箱契約の件で、今日もギルドへ来ていた。


 分かる。


 分かるが、今この場にいるのはよくない。


 白磁の商人と、漆器の商人。


 同じ食器。


 同じ高級品。


 同じ輸出候補。


 同じ新規販路。


 つまり、競合である。


 リンシュウの目が、志乃の黒漆箱を見た。


 志乃の目が、リンシュウの白磁飾りを見た。


 空気が、薄く鳴った。


 まだ何も言っていない。


 だが、もう面倒だった。


     *


 志乃の横にいた女は、さらに面倒だった。


 セイレーンである。


 名をネレイアと言った。


 片目には黒い眼帯。


 古い革でできたそれは飾りではなく、実際に海で失った片目を覆うものだという。


 腰には短剣。


 肩には船長外套。


 腕には、細い鱗が光っている。


 片手には、大きな船長帽を持っていた。


 広いつば。


 潮で少し白くなった縁。


 赤い羽根飾り。


 いかにも海賊らしい帽子である。


 本人も、それを分かっている顔で笑っていた。


「船長ネレイア」


 彼女はそう名乗った。


「商船の船長さ。たまに海賊と呼ばれる」


「たまに、ですか」


「相手によるね。襲ってきた船から見れば海賊。助けた船から見れば護衛船長。港役人から見れば厄介者。志乃から見れば」


「船の相棒です」


 志乃が静かに言った。


 ネレイアは笑った。


「だそうだ」


 その声には、潮と酒場と甲板の匂いがあった。


 信用できる。


 信用できない。


 どちらも同時に来る声だった。


 そして、もう一人いた。


 荷車の後ろ、川水の匂いをまとって立つ、リザードマンの女船主である。


 名をラシュカ。


 細長い瞳。


 水を弾く鱗。


 濡れた縄を握る、節の強い指。


 腰には船鍵。


 腕には、川幅と水深を書き込んだ革札。


 彼女は海の船長ではない。


 川の船主である。


 結束市ラガンへ入るには、大河を遡らなければならない。


 海を知るセイレーンだけでは足りない。


 川の浅瀬。


 砂州。


 水門。


 流木。


 季節ごとに変わる水深。


 それを知る者が必要だった。


 だからネレイアは、川口からラシュカと契約した。


「海はネレイア。川は私」


 ラシュカは短く言った。


「荷は志乃。帳はそちら」


「僕ですか」


「そう見える」


 どうして、すぐこちらへ来るのか。


 僕は帳を開きかけた。


 ミーナに止められた。


     *


「漆器ですか」


 リンシュウが、静かに言った。


 声は穏やかだった。


 だが、白磁の薄皿より硬かった。


「はい」


 志乃も穏やかに答えた。


「ヤマト漆器です」


「湿気には強いのでしょうね」


「ええ。水気には強いです」


「光は通りますか」


「通しません」


「では、中の濁りは見えませんね」


 空気が凍った。


 ミーナが小さく息を呑んだ。


 サフィラが薬湯の瓶を押さえた。


 リリカが腰の糸束から引き出した作業糸がぴんと張った。


 エリュカの蹄が、かすかに鳴った。


 グレナさんだけが笑っていた。


 なぜ笑っているのか。


 この人は、修羅場を酒の肴だと思っているところがある。


 志乃は、表情を変えなかった。


「光を通すものだけが、清いとは限りません」


 静かに言った。


「漆は、重ねます。塗り、研ぎ、また塗り、また研ぐ。中の仕事は、表に出さずとも残ります」


「見えないものを信じろと?」


「見える白さだけを信じるよりは」


 リンシュウの目が細くなる。


 志乃の目も細くなる。


 白磁と黒漆。


 透けることを誇る商人と、隠すことを誇る商人。


 感性が違いすぎる。


 とてもよくない。


「ノルさん」


 リンシュウがこちらを見た。


「あなたは、どちらが商談向きだと思いますか」


 志乃もこちらを見た。


「結束市の帳場の方は、どう見ますか」


 やめてほしい。


 非常にやめてほしい。


 僕はただの仮帳場職員である。


 白磁と漆器の美学論争を裁く立場ではない。


 しかし、両方が見ている。


 さらに、背後から視線もある。


 ミーナ。


 グレナさん。


 サフィラ。


 リリカ。


 エリュカ。


 ネレイア。


 ラシュカ。


 全員、こちらを見ている。


「用途が違います」


 僕は言った。


「白磁は、光を通すことで品質を見せられます。初回取引や遠隔商談で強い。漆器は、重ねた仕事と使い込んだ後の変化を売れます。贈答、長期関係、家の格を見せる場で強い」


 リンシュウは黙った。


 志乃も黙った。


「競合しますが、同じ食器ではありません。白磁は明かりの前に置く。漆器は手に取らせる。売り場も、説明も、客も分けるべきです」


「では」


 リンシュウが言った。


「並べない方がよいと?」


「いいえ」


 僕は首を振った。


「並べるなら、喧嘩させるのではなく、対にします」


「対」


 志乃が言った。


「白磁に冷たい果実。漆器に温かい汁物。白磁に光。漆器に手触り。龍人の白と、ヤマトの黒。骨のような白と、夜のような黒。商談としては、むしろ強い」


 ネレイアが口笛を吹いた。


「いいねえ」


 グレナさんが笑った。


「またやったねえ」


「何をですか」


「女商人二人の商売を同じ卓に乗せた」


 しまった。


 そういう見方もある。


     *


 リンシュウは、次にラシュカを見た。


 ほんのわずかに、目を細めた。


 本当にわずかだった。


 だが、ラシュカは気づいた。


 リザードマンは、水面の小さな波を読む。


 龍人の目つきくらい、読む。


「龍人商人か」


 ラシュカが言った。


「はい。ボーンリュージン磁器のリンシュウです」


「白い皿の人」


「白磁です」


「皿だろう」


「白磁です」


 短いやり取りだった。


 だが、もう噛み合っていない。


 リンシュウは、言葉を整える商人である。


 ラシュカは、水路で荷を沈めないために必要な言葉だけを使う船主である。


 感性が違う。


 さらに悪いことに、龍人文化圏では、リザードマンを下に見る者が少なくない。


 水辺にいる。


 泥に近い。


 低地を這う。


 そういう古い侮りが、商人の言葉の底にも残る。


 リンシュウは礼を失してはいなかった。


 だが、礼を守っていることと、見下していないことは同じではない。


 ラシュカはそれを分かっていた。


「龍人は、高い場所から水を見る」


 ラシュカが言った。


「私たちは、水の中から空を見る」


 リンシュウは少し黙った。


「商談に詩は不要です」


「これは水深の話だ」


「水深?」


「上から見ただけの水は、浅く見える」


 ラシュカは、静かに言った。


「龍人が私たちを見る時と同じだ」


 空気が重くなった。


 エリュカの蹄が、石畳を一つ鳴らした。


 ケンタウロスと龍人にも、領土の問題がある。


 草原の境。


 山道の通行権。


 古い見張り台。


 どちらの旗を立てるか。


 文化圏としては、決して軽い関係ではない。


 だが、エリュカはリンシュウを見て言った。


「リンシュウ個人と、龍人の領土役人は別だ」


 リンシュウは、少しだけ目を伏せた。


「それは、助かります」


「ただし、馬道を勝手に塞ぐ龍人は蹴る」


「商人としては、塞がないよう努力します」


「なら、今は蹴らない」


 会話としては物騒だった。


 だが、成立していた。


 個人と文化圏は同じではない。


 ただし、完全に切り離せるものでもない。


 それが、結束市ラガンの面倒なところである。


     *


 ネレイアとラシュカは、仲がよいわけではなかった。


 だが、話が早い。


「潮が上がる前に、浅瀬を抜ける」


「川風は東。帆は半分でいい」


「三番箱は真ん中。漆器は水を嫌わないが、揺れは嫌う」


「白磁なら上だね」


「白磁は乗せていない」


「龍人の前で言うと怒るよ」


「怒るなら、荷を水に落とさない船に乗せればいい」


 ネレイアが笑った。


 ラシュカは笑わなかった。


 だが、口元だけ少し動いた。


 海路と水路は違う。


 潮と川も違う。


 だが、どちらも流れで生きる。


 水位を見る。


 底を見る。


 風を見る。


 荷の湿りを見る。


 船底の音を聞く。


 そこでは、セイレーンとリザードマンは通じる。


 しかし、エリュカは眉を寄せていた。


「待つのか」


「潮を待つ」


 ラシュカが言った。


「道なら、迂回する」


 エリュカが言った。


「水は迂回できない時がある」


「なら、別の道を探す」


「川は道ではない。流れだ」


「道も流れだ」


「違う」


「違わない」


 エリュカとラシュカが、同時に黙った。


 合わない。


 全くもって合わない。


 ケンタウロスは移る。


 草を追い、水を探し、季節とともに動く。


 同じ場所に留まらない。


 道は選ぶもの。


 悪ければ変えるもの。


 遠ければ走るもの。


 だが、リザードマンは流域で生きる。


 川筋。


 湿地。


 水門。


 魚の上がる時期。


 雨季の濁り。


 乾季の底。


 同じ水を、何代も見る。


 海へ出るセイレーンも、潮と港を体に覚える。


 彼女たちにとって、水は通過する場所ではない。


 棲む場所であり、記憶であり、商売の底である。


 エリュカにとっては、道は踏み越えるもの。


 ラシュカにとっては、水は踏み越えれば沈むもの。


 合うはずがなかった。


     *


 問題は、漆器箱の五番だった。


 また箱である。


 最近、箱がよく問題を起こす。


 荷札には八箱とある。


 一番から八番まで、全部そろっている。


 紙封も破れていない。


 絹紐もある。


 ヤマトの墨印も合っている。


 重さも、おおむね合う。


 だが、五番箱だけ、匂いが違った。


 僕ではない。


 サフィラが気づいた。


「この箱、薬草ではない匂いがします」


「漆の匂いでは?」


 志乃が聞く。


「漆ではありません。潮と、川泥と、少しだけ酒」


 ネレイアが目を細めた。


「川口の荷替え倉だね」


 ラシュカも箱の底を見た。


「泥が違う。結束市の川泥ではない。もっと下流」


 志乃の顔が変わった。


「五番は、川口で船を替えました」


「海から川へ?」


 僕が聞く。


「はい。ネレイアの船から、ラシュカの川船へ」


「その時の確認記録は」


 志乃は袖の内から紙を出した。


「あります」


 きれいな記録だった。


 ヤマトの紙。


 墨の字。


 箱番号。


 荷替え時刻。


 立会人。


 船長印。


 船主印。


 だが、リリカが絹紐を見て小さく言った。


「紐は、一度ほどかれています」


 全員が彼女を見た。


「切れているわけではありません。でも、結び目の戻りが浅いです。端の撚りが、一段だけ逆です」


 アラクネはこういう時、本当に強い。


 サフィラは箱の端を指で示した。


「酒の匂いはここからです」


 ネレイアが言った。


「川口の荷替え番に、安酒を飲む奴がいる」


 ラシュカが頷いた。


「二人いる。一人は手が雑。一人は手が細かい」


「今回のは」


「手が細かい方」


 怖い。


 即答である。


 水路の者は、水だけでなく人も覚えている。


「開けます」


 志乃が言った。


 ヤマトの商人が、自分の漆器箱を開ける。


 それは重い判断だった。


 封を切れば、価値が落ちる可能性がある。


 だが、疑いを抱えたまま商談へ持っていく方が悪い。


 このあたりは、リンシュウと似ている。


 傷を隠さない商人同士。


 しかし、感性は合わない。


 難しい。


     *


 五番箱は、証人立会いで開けられた。


 証人が多すぎた。


 僕。


 ミーナ。


 リンシュウ。


 エリュカ。


 ネレイア。


 志乃。


 ラシュカ。


 サフィラ。


 リリカ。


 グレナさん。


 多い。


 非常に多い。


 ただし、全員が別のものを見る。


 ミーナは紙封。


 リンシュウは商品価値。


 エリュカは荷の動線。


 ネレイアは潮の匂い。


 志乃は漆の艶。


 ラシュカは川泥。


 サフィラは匂い。


 リリカは紐。


 グレナさんは人の顔。


 僕は帳。


 意外と役割が分かれている。


 構造としては、安定している。


 そう思った瞬間、リリカがこちらを見た。


「ノルさん、今、構造と思いましたね」


「思っていない」


「手元の仮糸が動きました」


「僕の思考に反応しないでくれ」


 箱の中には、黒漆の椀が入っていた。


 六客。


 どれも美しい。


 だが、志乃は一つを見て、手を止めた。


「違います」


「何が」


「艶が浅い」


 僕には分からない。


 黒い。


 きれい。


 艶もある。


 だが、志乃には違うらしい。


 彼女は椀を持ち上げ、光を斜めに当てた。


「これは、うちの漆ではありません」


 リンシュウの目が鋭くなった。


「偽物?」


「似せ物です」


 志乃の声は静かだった。


 だが、怒っている。


「形は似せています。箱も、紙も、紐も戻している。ですが、漆が違う」


 ネレイアが低く言った。


「川口で入れ替えたな」


 ラシュカも言った。


「荷替え中だ」


「誰が」


「荷替え番か、見ていた港役人か、似せ物を用意した商人か」


「同じ船の者では?」


 志乃が言った。


 ネレイアは、珍しく笑わなかった。


「可能性はある」


 その言葉は、荒かった。


 だが、痛かった。


 長い船旅。


 嵐。


 水不足。


 夜の見張り。


 荷崩れ。


 港役人への賄い。


 海賊まがいの追い払い。


 助けた者。


 見捨てた者。


 同じ船の仲間は、きれいな言葉だけでは済まないのだろう。


 志乃も、ネレイアを責めなかった。


「分かっています」


「悪い」


「あなたが悪いとは言っていません」


「船の上のことは、あたしの責任だ」


「荷の価値は、私の責任です」


 ラシュカが短く言った。


「川口から上は、私の責任」


 三人は互いを見た。


 商売相手。


 船の仲間。


 川筋の仲間。


 清濁合わせて知る者同士。


 その空気は、白磁と蹄の二人とは違う。


 こちらは、もっと塩辛く、もっと泥深い。


 とても濃い。


     *


 偽物の椀は、一客だけだった。


 他の五客は本物。


 だが、一客だけでも問題である。


 六客揃いの漆器は、揃っているから価値がある。


 一客だけ違えば、全部の価値が揺れる。


「売れません」


 志乃は言った。


「揃いとしては」


 リンシュウが、すぐに言った。


 志乃が彼女を見る。


「どういう意味ですか」


「揃いでは売れません。ですが、比較見本にはできます」


 志乃の眉がわずかに動いた。


「白磁の欠け皿の真似ですか」


「役に立った手順です」


「漆器と磁器は違います」


「違います。だからこそ、比較できます」


 また空気が硬くなる。


 しかし、今度はただの喧嘩ではなかった。


 商談である。


 リンシュウは続けた。


「本物の漆と似せ物を並べる。光の返り。手触り。重ねの深さ。匂い。使い込んだ後の違い。あなたの漆器を説明するには、偽物がある方が分かりやすい」


 志乃は黙った。


 ネレイアが笑った。


「白いお嬢さん、なかなか悪いことを言う」


「悪いことではありません」


 リンシュウは平然と言った。


「商売です」


「いいねえ」


 志乃はしばらく考えた。


 そして、偽物の椀を置いた。


「売り物からは外します。ただし、比較見本として使います」


 リンシュウが頷いた。


「その方がよいです」


「あなたに言われるのは少し悔しい」


「私も、あなたに同じことを言われたら悔しいです」


「磁器と漆器です」


 リンシュウが言った。


「漆器と磁器です」


 志乃が返した。


「並び順に意味がありますか」


 僕が聞いてしまった。


 二人が同時にこちらを見た。


 聞くべきではなかった。


「あります」


 リンシュウが言った。


「あります」


 志乃も言った。


 リンシュウは白磁の欠け印を指で押さえた。


「光を通す磁器が先です。客はまず、目で清さを見る」


 志乃は黒漆札を撫でた。


「手に残る漆器が先です。客はまず、触れて深さを知る」


「白が先です」


「黒が先です」


「磁器と漆器です」


「漆器と磁器です」


 会話が進まない。


 だが、商売としてはかなり本気である。


 ネレイアが面白そうに言った。


「じゃあ、昼は磁器、夜は漆器でどうだい」


「雑です」


 リンシュウが言った。


「雑ですね」


 志乃も言った。


「おっと、そこは合うんだね」


 グレナさんが笑った。


「いいねえ。全くもって合わない者同士なのに、合わないところだけ合ってる」


     *


 問題は、偽物の出どころだった。


 ネレイアは、川口の荷替え倉を疑った。


 ラシュカは、下流の荷替え番を疑った。


 志乃は、ヤマト出荷時点では本物だったと断言した。


 リリカは、絹紐の結び目を見た。


 サフィラは、酒と川泥の匂いを見た。


 ミーナは、封紙の糊の乾き方を見た。


 エリュカは、箱底の擦れを見た。


 グレナさんは、周囲の顔を見ていた。


「ノル」


「何ですか」


「これ、捕まらないよ」


「なぜ」


「川口の荷替え番、港役人、似せ物を用意した商人、見ないふりをした誰か。たぶん全部少しずつ絡んでる」


 僕は黙った。


 たしかに。


 一人の悪人ではない。


 偽物を用意する者。


 箱を下ろす者。


 封を戻す者。


 荷を通す者。


 見ないふりをする者。


 船と川と倉の間では、悪事も分担される。


 そして、分担された悪事は捕まえにくい。


 ネレイアは肩をすくめた。


「問い詰めても、荷替え番は知らないと言う。港役人は記録がないと言う。船員は夜だったと言う。偽物屋は本物だと言う。海と川ではよくある」


 志乃は静かに言った。


「よくあっては困ります」


「困るさ。でも、ある」


 ラシュカも言った。


「あるものは、次から沈めない」


「なら、次から止めます」


 志乃が言った。


「どうやって」


 リンシュウが聞いた。


 志乃は僕を見た。


 やめてほしい。


 なぜ見るのか。


 僕は仮帳場職員である。


 海と川の荷替え不正まで責任を取る立場ではない。


 しかし、見られている。


 リンシュウも見ている。


 ネレイアも見ている。


 ラシュカも見ている。


 エリュカも見ている。


 六人も見ている。


 もう逃げ場がない。


     *


「海川継替確認控を作ります」


 僕は言った。


 ミーナが目を閉じた。


「また欄が増えた」


「必要な欄だ」


「分かってるわよ」


 僕は帳を開いた。


「船旅と川路を挟む高額工芸品について、出港時、海上積付時、川口荷替え時、河川遡上前、到着時の五点で、箱番号、封、紐、匂い、重さ、底擦れ、立会人を確認します」


 ネレイアが片眉を上げた。


「海は忙しいよ」


「川も待たない」


 ラシュカが言った。


「だから短くします」


「今、長く言った」


 ネレイアが笑う。


「短く書きます」


 僕は項目を並べた。


 一、箱番号。


 二、封紙。


 三、結び。


 四、底擦れ。


 五、匂い。


 六、立会人。


 七、潮歌。


 八、川筋札。


「潮歌?」


 リンシュウが聞いた。


「船長が合図歌を持っているなら、荷替え時に短い確認歌を残せませんか」


 ネレイアが笑みを止めた。


「面白いことを言うね」


「荷替えごとに、箱番号と場所を歌で残す。紙は濡れます。木札は失くします。ですが、船員が覚える歌なら残る」


「歌は嘘をつける」


「はい。だから、一人ではなく、返し歌にします。船長が歌う。荷主が返す。川船主か港番が、最後の箱番号だけ繰り返す」


 ネレイアの目が、少し変わった。


 海を見る目になった。


「潮歌三返し」


「そう呼ぶのですか」


「今、呼ぶことにした」


 ラシュカが短く言った。


「川は札がいる」


「札?」


「川筋、水位、荷替え場、船底の深さ。歌だけでは、浅瀬を越えられない」


「川筋札ですね」


「そう」


 志乃が静かに言った。


「ヤマトなら、漆札にできます。濡れても残ります」


 リンシュウが即座に言った。


「白磁札でも作れます。薄いものなら、箱内に入れても邪魔になりません」


「割れるでしょう」


 志乃が言った。


「漆札は湿気で反ります」


 リンシュウが返す。


 二人がまた睨み合う。


 ネレイアが笑った。


「両方作ればいいだろ。白い札と黒い札。片方なくなっても、もう片方が残る」


 エリュカが頷いた。


「道でも、札は二つある方がいい」


 リリカが腰の作業糸束から一本を引き出した。


「では、二札一糸構造にします」


「また構造」


 僕は言った。


「もう構造です」


 リリカは今日も無慈悲だった。


     *


 その日の夕方、結束市ギルドに新しい確認案が作られた。


 名前が長い。


 非常に長い。


 だが、必要だった。


 高額工芸品海川継替確認控。


 一、箱番号を声に出す。


 二、封紙と結びを二名で見る。


 三、底擦れと匂いを確認する。


 四、海から川へ移す時、船長が潮歌を歌う。


 五、荷主が返し歌で箱数を返す。


 六、川船主または港番が、最後の番号を繰り返す。


 七、白札と黒札を一組で箱へ入れる。


 八、川筋札に水位と荷替え場を記す。


 九、潮歌三返しと川筋札の記録がない荷は保留する。


 長い。


 非常に長い。


 ミーナは頭を抱えた。


 グレナさんは笑った。


 サフィラは薬湯を増やした。


 リリカは糸で白札と黒札の見本を結んだ。


 リンシュウは白磁札の厚みを考え始めた。


 志乃は黒漆札の反り止めを考え始めた。


 エリュカは、海川継替と陸路荷替えの違いを図にし始めた。


 ネレイアは潮歌を作り始めた。


 ラシュカは川筋の水位を書き始めた。


 僕は、帳を書いた。


 ものすごく嫌な予感がした。


 この確認案は、役に立つ。


 役に立つものは、広がる。


 広がるものには、責任がついてくる。


 そして責任がつくものは、なぜか僕の帳に戻ってくる。


     *


 志乃とネレイアとラシュカは、翌日もギルドに来た。


 偽物の椀は、比較見本として登録された。


 本物五客は販売保留。


 残り七箱は再検品。


 川口荷替え倉へ照会。


 船員と荷替え番にも聞き取り。


 捕まる可能性は低い。


 だが、次に同じことをしにくくする。


 それが、今回できることだった。


 悪人は逃げる。


 荷は完全には戻らない。


 だが、手順は残る。


 最近、そういうことが多い。


 とても疲れる。


 昼過ぎ、志乃は僕の机へ来た。


 黒漆の小さな札を置いた。


「これは?」


「高額工芸品海川継替確認控の、黒札見本です」


「ありがとうございます」


「それから」


 彼女は、少しだけ目を伏せた。


「八雲屋は、恩を忘れません」


 出た。


 恩。


 ヤマトの恩。


 非常に重そうな言葉である。


「職務です」


 僕はすぐに言った。


「職務であっても、受けた恩は恩です」


「文化圏上、重いですか」


「少し」


「少し」


「かなり」


 またである。


 僕は机に額をつけたくなった。


 ネレイアは、横で笑っている。


「あたしからもあるよ」


「何でしょう」


「同じ船の外にいるのに、船の損を一緒にかぶった。そういう相手は、海じゃ外とは言わない」


「外ではない」


「半分、同じ船だ」


「重いですね」


「少し」


「少し」


「かなり」


 ラシュカも短く言った。


「川も同じ」


「同じ?」


「同じ流れに入った者は、岸の者ではない」


「重いですね」


「少し」


 僕はラシュカを見た。


 ラシュカは、少し間を置いて言った。


「かなり」


 なぜ全員この言い方をするのか。


 流行なのか。


 悪い流れができている。


     *


 その夜。


 また僕の部屋は狭くなった。


 ミーナ。


 グレナさん。


 サフィラ。


 リリカ。


 リンシュウ。


 エリュカ。


 志乃。


 ネレイア。


 ラシュカ。


 そして僕。


 十人。


 おかしい。


 部屋の容量がおかしい。


 ラミアの尾。


 アラクネの八つの下肢。


 ケンタウロスの四つの蹄。


 オーガの肩。


 セイレーンの船長外套。


 黒い眼帯。


 海賊らしい大きな帽子。


 龍人の角。


 ヤマトの漆箱。


 リザードマンの濡れた縄。


 第1文化圏の幼なじみ。


 全部が一部屋にある。


 文化圏的にも、物理的にも、明らかに限界だった。


「ノル」


 ミーナが言った。


「説明して」


「何を」


「なぜ、三人増えてるの」


「増えていない」


 僕は言った。


「海川継替確認控および川筋札の関係者です」


「関係者って、本当に便利な言葉ね」


「便利だが、正確だ」


「正確だから困るのよ」


 グレナさんは、楽しそうに酒杯を持っていた。


 その隣で、ネレイアも帽子を膝に置き、同じ顔で笑っている。


 陸の荒事と、海の荒事。


 盾と舵。


 酒場と甲板。


 使う道具は違うが、笑い方が似ている。


 厄介な状況ほど楽しそうにするところも、かなり似ていた。


「いいじゃないか」


 グレナさんは酒杯を掲げた。


「九人まで来たんだ。残り六文化圏も制覇するくらいやってみせな」


「やりません」


 僕は即答した。


 ネレイアが黒い眼帯の下で、片目だけを細めて笑った。


「いやいや。あたしたちみたいなのを自分の女にするような男なんだ。全文化圏の女を抱えて、子の名付けで帳場を泣かせるくらいでないと釣り合わないんじゃないかい?」


「釣り合いません」


「そこは否定が早いんだねえ」


 グレナさんが肩を揺らした。


「あたしは好きだよ、そのでかい冗談」


「冗談ですか」


「半分はね」


「半分」


「もう半分は、期待だね」


「期待しないでください」


 ミーナが机に両手をついた。


「ちょっと待って。今、会話の前提がおかしくなかった?」


 サフィラが薬湯を両手で持ったまま、静かに頷いた。


「かなりおかしかったです」


 リリカは、部屋の天井近くまで張った図示用の仮糸を見上げていた。


「構造上も、おかしいです。九人の時点でかなり飽和しています」


「飽和しているなら増やさないでくれ」


 僕が言うと、リリカは困った顔をした。


「でも、余白があります」


「余白を見るな」


「余白は、構造上、誘います」


「誘わないでくれ」


     *


「あとは、順番だね」


 ネレイアが言った。


「商売人と運び屋は、いつも街にいるわけじゃない。次に坊主へ会うまで、どれだけかかるか分からないんだ」


「坊主って、僕のことですか」


「他にいるかい」


 ネレイアは笑った。


「つまりさ。あたしらが街にいる時は、街の女たちには少し遠慮してもらわないとね。一度に全員が身籠るわけじゃないんだ」


 部屋が止まった。


 ミーナが真っ赤になった。


 サフィラが薬湯の瓶を落としかけた。


 リリカが天井近くへ張っていた仮糸が、妙な形に震えた。


 リンシュウは、表情を整えようとして失敗した。


 志乃は、扇もないのに袖で口元を隠した。


 エリュカは蹄を一つ鳴らした。


 ラシュカは、なぜか少しだけ頷いた。


 グレナさんだけが、腹を抱えて笑った。


「いいねえ。海の女は話が早い」


「だろう?」


 ネレイアは満足そうに頷いた。


 しかし、リンシュウは咳払いをした。


「それとこれは、別です」


 志乃も静かに頷いた。


「別さね」


 リンシュウと志乃が同じ方向で一致するのは珍しい。


 だが、ネレイアはまったく引かなかった。


「なんだいなんだい。上品ぶってるけどさ」


 彼女は帽子のつばを指で弾いた。


「私らは街を出たら、しばらく坊主に会えないんだよ? 船の上だろうが、宿場の薄い布団だろうが、夜になれば坊主のことを考えて眠れなくなるに決まってるじゃないか」


「え?」


 リンシュウが言った。


「え?」


 志乃も言った。


 二人の声が、きれいに重なった。


 ネレイアは、不思議そうに二人を見た。


「ん? 違うのかい?」


「違う、というか」


 リンシュウが言葉を探す。


「それを、そんなに正面から言うものではありません」


 志乃も頷いた。


「ヤマトでは、そういうことは、もう少し袖の内に隠します」


「隠したって、熱いものは熱いだろう」


 ネレイアはあっさり言った。


「あたしなら毎晩、坊主のことを思い出して、寝台の上で大変なことになるね」


「大変なこと」


 僕は思わず復唱した。


 ミーナに睨まれた。


「復唱しない」


「すみません」


 ネレイアは、今度はグレナさんを見た。


「陸の。あんたもだろ?」


 グレナさんは酒杯を置いた。


 まったく恥じる様子がない。


「あたしは街にいるからねえ」


「いる時は?」


「そりゃ、本人を捕まえるさ」


 ミーナが叫んだ。


「捕まえないでください!」


「もう捕まってるじゃないか」


 グレナさんは僕の肩を片腕で抱えた。


 近い。


 非常に近い。


「だが、まあ、海の言うことも分かるよ。遠くへ行く女には順番を譲ってやらないと、あとで荒れる」


「荒れます」


 サフィラが真面目に言った。


「身体にも悪いです」


「サフィラまで!」


「会えない期間が長い方は、情緒が乱れます。薬湯では限界があります」


 リリカが恐る恐る糸を伸ばした。


「構造上も、滞在期間の短い方に優先日を設けた方が安定します」


「リリカまで!」


「で、でも、これは関係維持の問題で……」


 エリュカが短く言った。


「道に出る者は、次の水場まで待つ。待つなら、出る前に満たす」


 ラシュカも頷いた。


「川も同じ。増水前に積めるものは積む」


「人を荷扱いしないでください!」


 ミーナは頭を抱えた。


 リンシュウは、まだ赤くなっていた。


 志乃は、袖の内で口元を隠したまま、少しだけ目を伏せている。


 ネレイアは、その二人を見てにやりと笑った。


「なんだい。龍の白磁も、ヤマトの黒漆も、熱くならないわけじゃないだろう?」


 リンシュウは黙った。


 志乃も黙った。


 沈黙が長い。


 長すぎる。


 ネレイアの笑みが深くなった。


「ほら見な」


「……商談中に考えることではありません」


 リンシュウが小さく言った。


「商談中は、ね」


 グレナさんが突く。


 リンシュウは顔を背けた。


「夜は別です」


 志乃が、蚊の鳴くような声で言った。


 部屋がまた止まった。


 ネレイアが口笛を吹いた。


 グレナさんが笑った。


 ミーナが机に突っ伏した。


「もうやだ、この部屋……」


 僕は帳を開こうとした。


 ミーナが、見ずに言った。


「書くな」


「いや、滞在期間と優先日程の調整は」


「書くな!」


     *


 ネレイアは帽子をかぶり、片目で僕を見た。


「書くなら、こう書きな」


「何をですか」


「海と川と道に出る女は、街にいる間、少し多めに構え」


「書けません」


「じゃあ、もっと上品に」


 志乃が静かに言った。


「遠方滞在者には、在市期間中の親密時間を優先配分する」


 リンシュウがすぐに補足した。


「ただし、既存の共同責任者の同意と体調確認を条件とする」


 サフィラが頷いた。


「体調確認は必須です」


 リリカが図示用の仮糸を結んだ。


「同意確認も、結び目ごとに必要です」


 エリュカが言った。


「移動日前夜は、早く寝かせるべきだ」


 グレナさんが笑った。


「寝かせるだけで済むかねえ」


 ラシュカが短く言った。


「済まない」


 ネレイアが手を叩いた。


「ほら、川も分かってるじゃないか」


 ミーナは、とうとう僕の帳を取り上げた。


「この制度、作らないから!」


 八人が同時に彼女を見た。


 ミーナは真っ赤になりながら叫んだ。


「作らないって言ってるの! ……作らないけど、必要なら、私が順番表を作る!」


 部屋が静かになった。


 グレナさんが、ゆっくり笑った。


「正妻だねえ」


「正妻じゃない!」


 ネレイアも笑った。


「船長より采配がうまそうだ」


「采配しない!」


 サフィラが薬湯を差し出した。


「ミーナさん、まず落ち着きましょう」


 リリカが小声で言った。


「でも、順番表は構造上かなり有効です」


 リンシュウが静かに頷いた。


「商業上も、予定管理は重要です」


 志乃が袖で口元を隠したまま言った。


「ヤマトでも、順は乱さぬ方がよろしいかと」


 エリュカが短く言った。


「道も順番だ」


 ラシュカも言った。


「水門も順番」


 ミーナは僕を見た。


「ノル」


「はい」


「何とか言いなさい」


 僕は少し考えた。


「つまり、共同責任帳には、遠方者在市期間中の優先親密時間配分表が必要ということか」


 ミーナは、僕の額を軽く叩いた。


「そういうところ!」


     *


 少しして、ネレイアが言った。


「まあ、いいさ。海も川も道も押さえた」


「押さえていません」


「海はあたし」


 ネレイアが自分を親指で示した。


「川は私」


 ラシュカが、濡れた縄を持ったまま短く言った。


「道はエリュカだろう?」


 ネレイアがそう言うと、エリュカは蹄を一つ鳴らした。


「私は道だ。陸全部ではない」


「似たようなものさ」


「違う」


 ラシュカが横から言った。


「川があって、すべては成り立ちます」


 ネレイアが笑う。


「ほら、始まった」


 エリュカは眉を寄せた。


「道がなければ、荷は奥へ行かない」


「川がなければ、荷は町へ入らない」


「海がなければ、そもそも遠くから来ない」


 ネレイアが帽子のつばを指で弾いた。


「つまり、全部いる」


「それは正しい」


 僕は思わず言った。


 三人が同時にこちらを見た。


 しまった。


 正しいと言うと、帳に入る。


「ノル」


 ミーナの声が低くなった。


「今、何を納得したの」


「物流構造を」


「そこじゃない!」


 グレナさんは、酒杯を机に置いた。


「まあ、いいさ。海も川も道も、磁器も漆器も来た。あとは森も洞穴も金物も空も押さえちまいな」


「押さえません」


「森はまだだろう?」


「まだ、とは」


「洞穴もいる。ドワーフか何かだね。金物もいる。空もいる。鳥の文化圏か、翼持ちか」


「具体的にしないでください」


「具体的にした方が、帳に書きやすいだろう?」


「書きません」


 ネレイアが、帽子を軽く回した。


「ザポテックはどうするんだい?」


 その名が出た瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。


 リンシュウが目を伏せた。


 志乃が黙った。


 リリカが指に掛けていた仮糸が、微妙に迷うような動きをした。


 サフィラが薬瓶を抱え直した。


 エリュカは蹄を鳴らさなかった。


 ラシュカも、すぐには口を開かなかった。


 グレナさんだけが、少し首を傾げた。


「あぁ、ザポテックは、何かよく分かんないんだよね」


 彼女は率直に言った。


「なんていうか、こう、噛み合わないんだよ、あの文化圏」


 ネレイアが頷いた。


「海でも噂は聞くよ。約束してるのか、してないのか。売ってるのか、祈ってるのか。商売なのか、儀式なのか。分からないまま、気づくと巻き込まれてる」


 リリカが小さく手を上げた。


「糸で見ると、結び目が見えにくいです」


「どういうことだい?」


 グレナさんが聞く。


「結んでいないのに絡まっているように見えます。絡まっているのに、本人たちは結んでいないと言います。ほどこうとすると、別の場所が締まります」


「つまり?」


「構造上、たいへん危険です」


「いつも危険って言ってるねえ」


「今回は本当に危険です」


 僕は、そっと帳を閉じようとした。


 リリカが見た。


「ノルさん」


「何だ」


「ザポテック欄は、余白にしない方がいいです」


「作らない」


「でも、余白のままだと、もっと危険です」


「作らないと言っている」


「では、未接続欄として仮に」


「作らない」


     *


 ミーナが、そこで深く息を吸った。


 とても深く。


 それから、僕の方へ向き直った。


「はぁ」


 低い声だった。


 僕は背筋を伸ばした。


「ミーナ?」


「私さ」


「はい」


「幼なじみだよね?」


「はい」


「今まで、こんなことなかったよね?」


「はい」


「私以外にもてたりとか、しなかったよね?」


「していません」


「ねぇ、何で?」


「何が」


「何でこんなにもててるの?」


 部屋が静かになった。


 とても静かになった。


 ミーナは笑っていなかった。


 怒っている。


 泣きそうでもある。


 そして、心の底から分からないという顔をしていた。


「昔はさ、あんた、ただのぼんやりした商家の息子だったじゃない」


「はい」


「帳は好きだけど、将来は決めてなくて」


「はい」


「朝ごはん抜いて」


「はい」


「外套の襟曲げて」


「はい」


「荷札の間違いだけは妙に見つけて」


「はい」


「女の子の気持ちは全然見つけなくて」


「はい」


「なのに何で、急に、オーガとラミアとアラクネと龍人とケンタウロスとヤマトとセイレーンとリザードマンまで来るのよ!」


「僕にも分からない」


 本当に分からない。


 ミーナは両手で顔を覆った。


「分かってよ!」


 グレナさんが、肩を揺らして笑った。


「そりゃあ、ミーナ。あんたが先に見つけた男が、ようやく周りにも見つかったってことだろう」


 ミーナが顔を上げた。


「そういうきれいな話にしないでください!」


 ネレイアも笑った。


「いや、でもそういうことさ。港でもあるよ。地元の者だけが知ってた小さな入り江が、ある日いい停泊地だと知られる。すると、急に船が集まる」


「ノルを入り江扱いしないでください!」


 ラシュカが頷いた。


「でも、よい水場は隠せない」


「水場でもない!」


 エリュカが短く言った。


「よい道も、踏まれれば広がる」


「道でもない!」


 リンシュウが静かに言った。


「よい商機は、気づいた者が増えます」


「商機でもない!」


 志乃が少し考えて言った。


「よい器は、使う者が増えるほど艶が出ます」


「器でもない!」


 サフィラが、申し訳なさそうに言った。


「でも、体調管理の対象としては、かなり前から危険でした」


「そこは知ってる!」


 リリカが手元の仮糸を持ち上げた。


「構造上、ミーナさんが最初の基点です」


 ミーナは止まった。


「基点?」


「はい。幼年期共同帳約束が、最初の結び目です。そこに、盾内誓約、身体管理、糸結び、商業責任、輸送責任、恩返し、同船、川筋が接続しています」


「つまり?」


「ミーナさんがいなければ、ここまで安定していません」


 ミーナは、真っ赤になった。


「そ、そういうことを急に言わないで」


 グレナさんが笑った。


「よかったじゃないか。正妻っぽいぞ」


「正妻じゃありません!」


「なりたいんだろう?」


「な、なれるものなら……じゃなくて!」


 また混乱している。


 僕は帳を開いた。


 ミーナがすぐに睨んだ。


「今、何を書こうとしたの」


「幼年期共同帳約束を基点とする多文化責任構造」


「書くな!」


 八人が笑った。


 いや、ラシュカは笑っていない。


 だが、口元が少しだけ動いた。


 たぶん笑った。


 ミーナは僕の帳を取り上げ、胸に抱えた。


「今日はもう書かない!」


「困る」


「困らない!」


「記録が」


「記録より先に、理解しなさい!」


 僕は、部屋を見た。


 幼なじみ。


 オーガ。


 ラミア。


 アラクネ。


 龍人。


 ケンタウロス。


 ヤマト。


 セイレーン。


 リザードマン。


 全くもって合わない者同士。


 それでも、同じ部屋にいる。


 同じ帳を見ている。


 同じ責任という言葉を、それぞれ違う意味で持ち寄っている。


 なぜ僕なのかは、まだ分からない。


 だが、ひとつだけ分かった。


 ミーナは、最初から僕を見ていた。


 僕がまだ誰にも見つかっていなかった頃から。


 それだけは、帳に書かなくても分かることだった。


「ミーナ」


「何よ」


「最初に見つけたのは、君だな」


 ミーナは固まった。


 次の瞬間、耳まで真っ赤になった。


「そ、そういうことを、急に言うな!」


 グレナさんが笑った。


 ネレイアが口笛を吹いた。


 サフィラが薬湯をこぼしかけた。


 リリカが天井近くへ張った仮糸が、花のように開いた。


 リンシュウが微笑んだ。


 エリュカが蹄を一つ鳴らした。


 志乃が黒漆札を伏せた。


 ラシュカが短く言った。


「よい水場だ」


 ミーナが叫んだ。


「だから水場じゃない!」


     *


 結局、帳には書いた。


 書かないと、もっと揉めるからである。


 高額工芸品海川継替確認控。


 潮歌三返し。


 川筋札。


 白札。


 黒札。


 二札一糸。


 同船仲間欄。


 川筋接続欄。


 ヤマト恩返し仮欄。


 遠方者在市期間中の優先親密時間配分表。


 最後の一行だけ、ミーナが赤線で消した。


 しかし、別紙として残された。


 誰が残したのかは、あえて聞かない。


 僕は帳の最後に、こう書いた。


 ――ただし、審査した結果、増えることがある。


 その下に、リリカが細い補強用の作業糸を掛けた。


 リンシュウが白磁札の厚みを測った。


 志乃が黒漆札の反りを見た。


 ネレイアが潮歌の節を鳴らした。


 ラシュカが川筋の水位を一つ書き足した。


 エリュカが陸路の迂回線を引いた。


 ミーナが余白を睨んだ。


 グレナさんが笑った。


 サフィラが胃薬を増やした。


 僕は、ただ帳を見た。


 陸路。


 海路。


 水路。


 磁器。


 漆器。


 白い札。


 黒い札。


 潮歌。


 川筋。


 蹄印。


 恩。


 同じ船。


 同じ流れ。


 そして、全くもって合わない者同士。


 それでも、荷は動く。


 商売は進む。


 責任は増える。


 なぜなら、すでに増えたからである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ