35話 いつか、教えて
噎せ返るほど濃い血の臭いと腐敗臭が薄暗い空間に漂っていた。
僅かな燭台の灯りが照らすその場所には石造りの床が広がり、点々と血で赤く染まったシミが残されていた。
その空間を、白衣を身にまとった男女が、カラカラと車輪を鳴らしながら金属製の台を運んでいた。
台の上に横たわるのは、年端もいかない一人の子供。
その身体には、幾本もの細い管が繋がれ、胸元だけが規則正しく上下している。
だが、固く閉ざされた瞼は微かに震えることもなく、呼びかけに応じる気配もない。
まるで、意識だけをどこかへ置き去りにしてしまったかのようだった。
「被検体B-06。心拍異常なし。生体反応、正常」
子供の脇に立つ女の無機質な報告が、薄暗い実験室に響く。
「よし。投与を開始する」
報告を受けた男は躊躇なく一本の管に注射器を接続し、半透明の緑色の薬液をゆっくりと押し込んだ。
管の中を緑色の液体が静かに流れ、やがて子供の身体へと吸い込まれていく。
その様子を二人は無言で見守る。
薬液がすべて投与されたのを確認すると、女は手にしていた懐中時計の蓋を開き、静かに時を測り始めた。
「十秒経過……十五、十六、十七……二十秒経過」
やがて一分近くが経過したが、子供の身体に変化は見られなかった。
女は懐中時計を閉じ、男も諦めたように小さく息を吐く。
「実験終了。被検体B-06を廃棄とする」
男がそう告げ、台へ歩み寄ったその瞬間だった。
バタンッ――
実験室に激しい衝撃音が響き渡る。
子供の身体が弓なりに反り返り、まるで何かに操られるように全身を激しく痙攣させ始めた。
「なっ!」
「実験再開! 記録の準備をっ!」
一瞬だけ驚愕の色を浮かべた二人だったが、それも束の間だった。
すぐさま冷静さを取り戻すと、狂ったような熱を帯びた視線で子供の変化を観察し始める。
「脈拍数は!」
「今、図ります!」
男から指示を受けた女は、子供の身体に一歩近づいた。
その瞬間、ズパンッ――と何かが破裂したような乾いた音が響き、女はぴたりと動きを止める。
力が抜けたようにぐらりと女は身体を傾け、そのまま男の足元へ倒れ込んだ。
「おい、どうした——」
突然倒れ込んだ女に苛立ちを滲ませながら、男は足元へ目を向ける。
そして、変わり果てた女の姿を目にした途端「ヒィッ!」と男は情けない悲鳴を漏らした。
目を疑うような光景を前に、男は腰の力が抜け、崩れ落ちるようにその場へ臀を着いた。
ビシャビシャッ——と音を立てると、ねっとりと生暖かい液体が手のひらにまとわりつく。
濡れた手のひらへ目を落とすと、それは血で赤く染まっていた。
「っ———」
あまりの衝撃に男は言葉を失う。
すると、不意にフッ——と目の前が暗く染まり、自分を覆い隠すような影が落ちた。
男はようやく今起きている状況を理解すると、恐怖で身体をガタガタと震わせ、呼吸は次第に浅くなっていく。
乱れる呼吸をなんとか落ち着かせ、恐る恐る見上げると目の前には、先ほどまで台の上で意識を失っていたはずの子供が、いつの間にか立っていた。
「な、なんでっ……! わ、分かった! 実験は中止だ! もう……もう何もしない!」
子供の右手がやけに赤く染まり、雫をポタポタと垂らしていることに気づいた男は、力が入らなくなった身体を引き摺りながら後退した。
子供と少し距離ができたところで、女と同じ末路を辿るまいと、額を床に擦り付ける勢いで頭を下げる。
「この通りだっ! だから、殺さ——」
懇願の言葉を最後まで口にすることもできず、男は突然、灼けつくような熱気に包まれた。
「カッ——ゴホッ! カハッ!」
熱せられた空気が肺へと流れ込み、呼吸を奪われた男は苦しげに藻掻く。
ジリジリと自らの身体から焦げた臭いが立ち上り、奪われつつある視界の中で見えたのは、血で染まった手をこちらへ向け、火球を放つ子供の姿だった。
「ぁ……が……」
男の呻き声は炎に飲み込まれ、やがて部屋には炎が爆ぜる音だけが残った。
セシリアの提案により、学院の外れにある別館で始まったセシリア、アルヴィン、エレノア三人の共同生活も、早いもので数週間が経とうとしていた。
共同生活の初日、アルヴィンは「普段やらないだけで、生活能力はあるから」などと豪語していたため、セシリアとエレノアはその言葉を半信半疑で聞いていた。
だが、その言葉に偽りはなく、アルヴィンは掃除や食事の用意など、身の回りのことを率先してこなしていた。
目覚めると、下の階から香ばしい香りが漂い、寝起き早々エレノアの食欲を掻き立てた。
「んっ……」
身体を伸ばし、エレノアはベッドから出て身支度を始める。
部屋を出て下の階へ降りると、アルヴィンが朝食の準備をしている姿が目に入った。
「おはよう、アルヴィン」
「おう、おはよう」
セシリアの身の安全を第一に考えた結果、三人は人目に多くつく学院の食堂で食事を摂るのをやめ、この館で食事をするようになった。
共同生活を始めたばかりの頃は、厨房に立つアルヴィンの姿に違和感しか覚えなかったが、今ではその姿もすっかり見慣れた光景となっている。
「セシリアは……まだ起きてこないか」
アルヴィンはちらりと時計へ視線を向けると、まだ起きてくる様子のないセシリアに呆れたようなため息をついた。
「ほんと、いつまで経っても寝汚いな……」
そう呟くと、アルヴィンはセシリアを起こしに部屋へ向かいかけ、エレノアに声をかけた。
「朝食、もう出来てるから食べてけよ」
気遣ってくれるアルヴィンに、エレノアは朝食へ視線を落とし、申し訳なさそうに口を開く。
「私、今日から公開日の準備で朝早くて……もう行かなきゃなの。ごめんなさい、せっかく用意してくれたのに」
名残惜しそうに朝食へ視線を向けるエレノアに、アルヴィンは「あー」と言葉を漏らした。
「そう言えば今日から準備期間だったな。忘れてた。エレノアは、剣術の演舞に出るんだっけ?」
アルヴィンはそう言うと、何かを思い出したように厨房へ戻り、少し慌てた様子で何かを作り始めた。
「えぇ。今日は顔合わせの後、稽古をつけてもらうの。だから、その……ごめんなさい」
学院へ向かおうとするエレノアに、アルヴィンは慌てて声をかけた。
「エレノア! これ、持ってけよ!」
「え?」
アルヴィンから渡されたのは、手ぬぐいに包まれた小さな四角い箱だった。
「これは?」
「即席だけど、サンドウィッチ。好きだって言ってただろ? 練習が終わったら食べろよ」
「……私に?」
「当たり前だろ? さっき急いで作ったから、少し見た目は悪いかもしれないけどさ。明日からは朝食も少し早めに用意しとく」
「わざわざ、ありがとう」
サンドウィッチが入った箱を大切そうに抱え、エレノアはアルヴィンに見送られながら学院へと向かった。
(アルヴィン……私がサンドウィッチ好きだって、覚えていてくれたんだ)
そういえば数か月前、何気ない会話で好きな食べ物の話をしたことがあった。
「ふふっ」
まさかそのことを覚えていてくれただなんて思わなかったエレノアは、思わず頬を緩めた。
一緒に生活を始めたことで、アルヴィンの意外な一面を知る機会は増えた。
だがそれと同時に、セシリアとアルヴィンの関係には、ますます謎が深まるばかりだった。
セシリアに対するアルヴィンの砕けた態度や、二人の会話の節々から感じられる、昔からの仲であることを窺わせる言葉の数々。
その関係に大きな秘密があるのだろうとは薄々感じていたけれど、それを追及できるほどの度胸は、エレノアにはまだなかった。
(あの二人は、誰も踏み込ませようとしないのよね)
「…………いつか、教えてくれたらな」
いつかアルヴィンが胸の内を話してくれる。
そう信じながら、エレノアは学院へと向かった。




