02話 氷の女王と問題児
そこにいたのは、一人の少女だった。
腰まで流れる癖のない銀髪、氷のように冷たい瞳、一目見ただけで誰もを魅了するほどの整いすぎた顔立ち。
席はまだいくつも空いているにもかかわらず、まるで見えない壁にでも阻まれているかのように、誰一人として少女の座る卓には近づこうとしない。
周囲から好奇の視線を向けられる中、少女はそんなことなど気にも留めていないように静かに食事を続けていた。
唯一空いている席が、よりにもよってその少女の座る卓しかない。
アルヴィンはぎこちなく口角を歪ませた。
(そこにいるだけで、なんでこんな威圧感があるんだ……)
アルヴィンがそう感じるのも無理はなかった。
少女の名はエレノア・グレイシア。
レグナリア王国における四大貴族の一つ、グレイシア家の令嬢。
その容姿、立ち居振る舞い、そして他者を拒む冷然とした気配、いずれもが常人の域を逸している。
ゆえに彼女は、学院内でこう呼ばれていた――“氷の女王”と。
「……エレノア」
アルヴィンがその名を口にすると、エレノアはゆっくりと顔を上げ、透き通る水色の瞳が、真っ直ぐにアルヴィンたちを捉える。
「何かしら」
その席にいるのがエレノアだと気づくのに遅れたガルドたちは、露骨に顔を顰め無言の圧を乗せて、アルヴィンの脇腹を肘で小突く。
「……おい。聞けよ」
小声で急かされ、アルヴィンはわずかに顔を引き攣らせた。
「あ……あー。この席、俺たちも座っていいか?」
「好きにすれば」
エレノアは淡々と答え、再び食事に視線を落とした。
ただ必要な返答をした、それだけなのにエレノアのその一言だけで場の空気が完全に冷え切った。
(氷の女王、健在かよ……)
許可は出たはずなのに、そこに“歓迎”の色は一切ない。
「お、俺たち……飯、取ってくるからよ」
「じゃ。あとはよろしく」
この場の空気に居た堪れなくなったガルドとレンはアルヴィンを一人犠牲にし、逃げるようにその場を離れる。
「は!? ちょ、待てよ!」
引き止める声も虚しく、二人の姿は人混みに紛れて消え、取り残されたアルヴィンは、小さく舌打ちしながらエレノアから一席分だけ距離を空けて腰を下ろす。
(ち、近い……)
それだけで妙な緊張が走り、周囲のざわめきがどこか遠くに感じられた。
普段なら例えどんな貴族が相手でも噛みつくガルドが、あそこまで露骨に距離を取った理由が、嫌でも分かる。
何か嫌なことを言われたというわけではないのに、勝手に息が詰まる。
近寄るな、話しかけるな、関わるな。
そう突き放されているようで、どこか落ち着かない。
(頼むから、二人とも早く戻ってこいよ……)
心の中でガルドたちに悪態をついた、その時だった。
エレノアがナイフとフォークを揃え、静かに皿の上へと置く。
無駄のない、正確な動作にアルヴィンは感心していると、ふいに視線が向けられた。
「この前の模擬試合」
不意に声をかけられ、アルヴィンは顔を上げる。
「あなた――わざと手を抜いたでしょ?」
凍てつくような視線が、突き刺さる。
言い逃れなど絶対に許さないとでも言いたげな真っ直ぐな眼差しに、喉がわずかに詰まった。
「……私が気づかないとでも?」
淡々とした声音。
だが、その一言には逃げ道がない。
「……別に、そんなんじゃ――」
「私が、怪我をしていたから?」
言い終えるより先に言葉を被せられ、図星を突かれたアルヴィンの言葉が止まった。
「――だから何?」
冷たい声が落ちる。
「それで、あなたが私との模擬試合で手を抜いていい理由にはならないわ」
「……万全じゃない相手に勝っても、意味ねえだろ」
アルヴィンは目を逸らしながら吐き捨てる。
「意味はあるわ」
即答だった。
エレノアが静かに席を立ち、そのまま迷いなくアルヴィンの前まで歩み寄った。
逃げ場を塞ぐように真正面に立ち、一触即発かという雰囲気に、周囲のざわめきがわずかに大きくなりいつの間にか、視線が集まっていた。
「それでも全力で勝つ。それが勝負よ」
ざわめきなど存在しないかのように、エレノアは淡々と告げる。
「模擬試合だったとしても、あれは私とあなたの真剣勝負の場」
エレノアの言葉の一つ一つが、アルヴィンの逃げ道を潰していき、一瞬の静寂が周囲を包む。
「次も手を抜くつもりなら――今度は、あなたを叩き潰す」
宣戦布告とも取れる言葉に、周囲のざわめきが一層強まり、アルヴィンはゆっくりと息を吐いた。
「……いいぜ。そこまで言うなら、もう手加減はしねぇ」
アルヴィンは一歩も引かずエレノアを見据え、口元がわずかにニヤリと歪む。
「今日の模擬試合で決めよう。俺とお前、どっちが上か」
エレノアはまるで値踏みでもするかのように、しばらくの間アルヴィンの瞳を静かに見据えていた。
やがて、わずかに鼻を鳴らす。
「……いいわ」
エレノアはそれだけを告げると、くるりと背を向ける。
長い銀髪がふわりと揺れ、そのまま一度も振り返ることなく、食堂を後にした。
その背中を見送ったアルヴィンは、大きく息を吐いた。
(どうしてこうなったんだか……)
アルヴィンとエレノアが勝敗にこだわるようになったのは、三ヶ月ほど前に遡る。
進級したばかりの頃、実力を測るためにクラス対抗の模擬試合が何度も行われていた。
アルヴィンも最初のうちはガルドたちに連れられ、真面目に参加していたが、三試合目あたりから、次第に姿を見せなくなっていった。
単純に、つまらなかった。
アルヴィンと同学年の生徒たちとの間には、圧倒的な実力差があった。
教本に忠実すぎる剣の型、先を読まれやすい単純な思考、気迫ばかりが先行する粗い攻め、軽く剣を合わせただけで、相手の得物はあっさりと弾き飛ばされる。
(――これで、何を測るというのか)
加えて相手が貴族であるため、手加減をすれば「舐めているのか」と罵られ、かといって真面目に相手をすれば理不尽な嫉妬ややっかみを買うこともあった
諸々の事情が重なり、アルヴィンは訓練場から距離を置くようになっていた。
そんな折、各寮に挟まれた中庭で一人時間を潰していた際、エレノアと初めて顔を合わせることになる。
互いに面識こそなかったが、貴族クラスと一般クラスそれぞれに剣の実力者がいるという噂は広く知られていた。
そのため、名前と存在については把握している程度の関係だった。
「あなたは……」
中庭の芝生に寝転び、昼寝でもするかのようにのんびりと空を眺めていたアルヴィンに気づき、エレノアは訝しげに足を止めた。
「あなたのクラス、今は模擬試合のはずよ。どうしてここにいるのかしら」
アルヴィンはゆっくりと体を起こし、固まった背をぐっと伸ばす。
「どうしてって……風が気持ちいいからだろ」
そして、軽く空を仰ぐ。
「昼寝にはちょうどいい日だ」
その言葉に、エレノアの眉間がわずかに寄った。
「……ここは、あなたがいる場所ではないわ」
「いる場所じゃない? なんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ」
「今は模擬試合の時間よ。あなたも戻るべきだわ」
「あんなつまらない試合、誰がやるかよ」
「……つまらない?」
その一言だけが、静かに落ちた。
エレノアが一歩、迷いのない足取りでアルヴィンとの距離を詰める。
「教本通りの動きだけをするままごとみたいな試合、出るだけ無駄だ」
「……そう」
エレノアは短く応じると、腰に携えた剣を静かに抜き放ち、その切っ先をアルヴィンへと向けた。
「あなたの言う、教本通りのつまらない試合――その手本を見せてあげるわ」
感情を抑えた声だったが、その言葉に迷いはなかった。
アルヴィンはわずかに口角を上げる。
「へぇ。“女王様”が、わざわざ俺の相手をしてくれるのか?」
その呼び名に、エレノアの眉がぴくりと跳ねた。
「そのくだらない呼び方、今すぐやめなさい」
氷のように冷えた声だったが、その頬にはわずかに苛立ちが滲んでいる。
「私が勝ったら、素直に訓練場に向かう。それでいいわね?」
「あぁ、それでいいよ」
中庭には、アルヴィンとエレノアの二人だけが静かに向かい合っていた。
「いつまでそうしてるつもりだ?」
剣を構えたまま一向に動きを見せないエレノアを挑発するように、アルヴィンは嫌味ったらしく言葉を投げる。
「……その言葉、そのままあなたに返すわ」
静かな風が二人の間を吹き抜ける中、互いに間合いを測るようにわずかに重心を揺らした。
(先手を打ちたくても、あの隙ひとつない構えを崩すのは至難の業だ)
踏み込めば、こちらが斬られる。
そんな確信めいた予感があった。
そして、その迷いすらも、すでにエレノアには見透かされているのだろう。
わずかに細められたその瞳が、アルヴィンの一挙手一投足を冷静に見据えていた。
アルヴィンは思わず小さく息を呑んだ。
(このまま睨み合いを続けたところで、状況は何ひとつ動かない)
そう判断したのは、おそらくエレノアも同じだった。
次の瞬間、しびれを切らした二人はほとんど同時に地を蹴る。
だが、一瞬早く間合いへ踏み込んだのはエレノアだった。
鋭い金属音が中庭に響き渡り、アルヴィンが繰り出した剣は、その一閃によってわずかに軌道を逸らされる。
「チッ……」
その一瞬の隙を逃さず、エレノアは正確無比な足運びで距離を詰めると、迷いのない斬撃を畳みかけてくる。
(間合いの詰め方、正確すぎるだろっ――)
アルヴィンも即座に逸らされた剣を構え直して反撃に転じるが、その動きはことごとく先読みされているかのように受け流されていった。
剣を交えるたびに重心がわずかずつ狂わされ、足元からじわじわと均衡が崩れていく。
アルヴィンは内心で舌を打つも、気づいたときにはすでに遅かった。
(ヤバっ、バランスが――)
次の瞬間、鋭い一閃が走り、アルヴィンが手にしていた剣がカキンッ――と乾いた音を立てて宙を舞う。
視界がぐらりと揺れたかと思えば、アルヴィンの身体はすでに地面へ叩き伏せられていた。
見上げた先には、冷たい瞳で自分を見下ろすエレノアの姿がある。
寸分の狂いもなく喉元へ突きつけられた剣先は、わずかに身じろぎしただけで勝負が終わることを、本能的に理解させるには十分だった。
「勝負ありね」
周囲に誰もいない中庭で、その一言だけがやけに鮮明に響いた。
アルヴィンはしばらく動かず、その刃を見つめていたが、やがて小さく息を吐き、わずかに口元を歪める。
「アハハハハハッ! あー、初めて誰かに負けたよ」
アルヴィンはひとしきり腹を抱えて笑ったあと、ふっと息を吐き、どこか晴れやかな表情でエレノアを見上げた。
「俺の負けだ。あんたの言う通り、試合に戻るよ」
そのまま体を起こし、服に付いた草を軽く払い落とすと、地面に転がっていた剣を拾い上げる。
「なぁ、また俺と勝負しようぜ」
屈託のない声音だった。
その提案に、エレノアは露骨に面倒そうな表情を浮かべる。
「……気が向いたら」
それだけを残し、背を向け長い銀髪を揺らしながら、本校舎へと戻っていく。
それ以降、アルヴィンはエレノアの出る模擬試合には必ず参加するようになった。
勝負を持ちかけては引き分けを重ね、互いに譲らない関係が続いている。
過去のやり取りを思い出し、アルヴィンは小さく苦笑した。
(まさか、あのエレノアがあそこまでムキになるとはな……)
前回の試合で、エレノアが本調子ではないことに気づいたアルヴィンは、あえて歩調を合わせる選択をした。
だが、その判断が結果として彼女の地雷を踏み抜くことになるとは思ってもいなかった。
(今日の試合、今度こそ本気で勝たないとな……)
あの頃と同じように期待を抑えきれないといった風に、アルヴィンの口元はわずかに吊り上がっていた。




