14話 魔獣の咆哮
人はあまりにも想定外のものと出会うと、笑いが込み上げてくるのだとアルヴィンは初めて知った。
「ハハッ……こりゃ、すげーな」
剣を構えながらも、アルヴィンは呆然と目の前の獣を見上げた。
人の背丈の三倍はあろうかという巨体は漆黒の毛皮に覆われ、その下では岩のように隆起した筋肉が脈打っている。
大木の幹を思わせる太い四肢が地面を踏みしめるたび、土は悲鳴を上げるように沈み込んだ。
そして何より目を引いたのは、その長大な尻尾だった。
獣の体躯に見合う尻尾は大蛇のように地を這い、ゆらりと揺れるたびに木々を薙ぎ倒している。
(俺たちを洞窟から引っ張り出したのは、コイツなのか)
その異様な尻尾を見つめながら、アルヴィンは一つの可能性に思い至る。
「ってことは……最初から狙われてたってわけかよ」
口元から覗く牙は短剣のように鋭く、その隙間から垂れる粘ついた涎が地面へ落ちるたび、じゅうっと嫌な音を立てて白い煙を上げている。
グルルルルルッ――。
低い唸り声が腹の底まで響き、生暖かく腐臭を帯びた吐息がアルヴィンの頬を撫でた。
あまりの悪臭に耐えきれず、アルヴィンは思わず片腕で鼻を覆う。
(こんなのとまともにやり合ったら、肉塊になるだけじゃ済まないぞ……)
黄金色の瞳が、獲物を品定めするようにアルヴィンを射抜いていた。
まるで次にどこから喰いちぎるかを考えているかのような、冷たく獰猛な眼差しだった。
「エレノアを先に向かわせといて正解だったな」
剣を握る手に、思わず力が入る。
(さて、どこまでやれるかね)
目の前の怪物を前にしても、不思議と恐怖はなかった。
あるのは、エレノアがロウの元へ辿り着くまで、この場で時間を稼がねばならないという使命感だけだ。
「……せめて足止めくらいはしないとな」
そう呟き、アルヴィンは剣を脇へ流す。
深く腰を落とし、身体を前へ傾けると、全身から余計な力が抜けていくのを感じた。
一度だけ静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「よしっ――」
地面を蹴り砕くような勢いで飛び出したアルヴィンは、一直線に獣との距離を詰める。
獣もまた、迫る獲物を捉えると鋭い爪を備えた前脚を大きく振りかぶり、そのまま叩き潰そうと振り下ろした。
「速いだけで、動きは単調だなっ!」
アルヴィンは獣の前脚が振り下ろされる直前まで引きつけ、紙一重で身を滑らせた。
ドォオオオンッ――!
直後、背後で地面が爆ぜる。
轟音と共に大地が揺れ、巻き上がった土煙がアルヴィンの視界を覆った。
衝撃だけで近くの木々がバキバキと音を立ててへし折れ、その破片が周囲へと飛び散る。
「クソッ――!」
砕けた木片が、土煙の中から矢のように飛来する。
アルヴィンは舌打ちしながら剣を振るい、それらを次々と弾き飛ばしつつ後方へ跳んだ。
巻き上がった土煙は一向に晴れず視界の先は茶色く染まり、その向こうにいるはずの獣の姿はおろか気配さえ捉えられない。
(見えない……どこだ――?)
だが、姿を捉えられなくなったのは獣も同じようで、グォォォオオ――という怒りを滲ませた咆哮と共に、煙の向こうから木々が次々と薙ぎ倒される轟音が響いてくる。
まるで辺り一面を更地にするかのような暴れっぷりだった。
「コイツ、手当たり次第かよ――」
土煙の中から飛来する木片や石を再び剣で弾き飛ばす。
だが、一度目よりも数が多い。
捌ききれなかった木片が次々とアルヴィンの身体を打ち据え、裂けた傷口から溢れ出した生暖かい血は腕を伝い、脚を濡らし、頬を赤く染める。
「マズイな……」
溢れ出す血を見て、アルヴィンの脳裏にふと嫌な予感がよぎる。
すると響いていた咆哮が止み、木々を薙ぎ倒していた轟音も消え失せ、森に不気味な静寂が訪れた。
アルヴィンが血を流し始めたのと同時に、獣の動きがぴたりと止まったのだ。
どうやら、嫌な予感は的中してしまったようだ。
土煙の向こうに意識を向けていたアルヴィンの背筋を、ぞくりと悪寒が駆け抜ける。
(横か――!)
「ッ――」
反射的に視線を向けた瞬間、土煙を切り裂きながら獣の前脚が横薙ぎに迫っていた。
避けるには遅すぎる。
アルヴィンは咄嗟に剣を体の横に構え、グッ――と全身に力を込めた。
ガキィィインッ――!
「グハッ――!」
獣の爪と剣が激突した瞬間、アルヴィンの身体を凄まじい衝撃が貫いた。
まるで巨大な丸太を横殴りに叩きつけられたようだった。
受け止めた左腕から肋骨にかけてミシミシと骨が軋み、砕ける感触が全身を駆け抜け、そのまま身体ごと吹き飛ばされた。
ドォォォォオン――!
吹き飛ばされた身体はそのまま巨木へ叩きつけられ、幹を揺らしながら地面へと崩れ落ちた。
「ゲホッ!」
咳き込みと同時に、どろりとした血が口から吐き出される。
「ゲホッ……ゲホッ……。化け物かよ」
ふらつきながらも何とか立ち上がる。
だが、折れた左腕はだらりと垂れ下がり、言うことを聞かなかった。
「クソ、剣が折れた……」
一撃に耐え切れず真っ二つに折れた剣を、アルヴィンは地面から拾い上げる。
残された剣身は半分にも満たない。
それでもアルヴィンは折れた剣を片手で構え、獣を睨みつけた。
ズシン――ズシン――。
地面を踏みしめる重い足音が響く。
獣は獲物であるアルヴィンがもはや満足に動けないことを理解しているのか、余裕すら感じさせる歩みで距離を縮めてきた。
それでもアルヴィンは折れた剣を構えたまま、一歩も退こうとしない。
グルルルルッ――。
黄金色の瞳が不快そうに細められる。
アルヴィンの抵抗の意思が気に入らないのか、獣はゆっくりと口を開いた。
すると獣の喉元に灼熱の熱が渦を巻くように集まり、周囲の空気が陽炎のように揺らぎ始める。
「コイツッ――!」
再び嫌な予感が脳裏を駆け抜けた直後だった。
次の瞬間、獣の口から全てを焼き尽くす灼熱の奔流が吐き出される。
ゴォォォォオオオオッ――!
それは炎というより、全てを呑み込む濁流だった。
木々を飲み込み、岩を赤く焼きながら一直線にアルヴィンへと迫る。
「冗談だろっ!」
アルヴィンは地面を蹴り、身体を捻りながら無理やり横へ飛び込んだ。
直後、爆発したような衝撃波に身体が吹き飛ばされ、数回地面を転がった末にようやく勢いが弱まった。
「ケホッ――!」
熱を帯びた空気が肺へ流れ込み、激しく咳き込む。
ゆっくりと顔を上げたアルヴィンは、目の前に広がる光景に思わず言葉を失った。
「ッ――」
地面は深く抉れ、木々は炭と化し、そこには先ほどまで自分が立っていた痕跡すら残っていない。
(もし、避けきれてなかったら……)
考えるまでもない答えに、全身がぞわりと震えた。
あの炎に飲まれていたら、自分も跡形もなく消し飛んでいただろう。
そして、その灼熱の奔流を見て、アルヴィンの脳裏に一つの仮説が浮かぶ。
「コイツ……精霊を食いやがったなっ!」
異常なまでに発達した巨大な体躯、精霊特有の自然を操る力。
アルヴィンの脳裏に、かつて読んだ文献の一節がよぎる。
(稀に、精霊を食した獣がその力を取り込み、魔獣へと変貌することがあるって書いてあったな)
眉唾ものだと思っていた文献の内容が、今まさに目の前で現実になっていた。
「こんなの、どうやって……」
想像を遥かに超える力の差に呆然としていたその時、魔獣は畳みかけるように球状へと圧縮した炎を次々と吐き出した。
ゴォンッ――!
ゴォンッ――!
放たれた炎弾は木々を焼き払いながら地面へ着弾し、そのたびに爆発にも似た轟音が森へ響き渡る。
先ほどの炎の奔流に比べれば威力は劣るが、それでも直撃すれば致命傷になることは明らかだった。
「チッ――!」
アルヴィンは強引に身体を動かしながら炎弾を躱す。
しかし、避けるだけで精一杯だった。
一歩踏み込めば炎が迫り、距離を詰めようとすれば次の炎弾が飛んでくる。
反撃の機会を探り続けるものの、魔獣との間合いを詰めることすらできずにいた。
吹き出された炎の熱に、アルヴィンは反射的に腕を上げる。
視界がわずか一瞬塞がれたその隙を突くように、獲物を仕留めようと荒々しく振るわれた魔獣の尻尾が死角から飛び出し、アルヴィンの身体を薙ぎ払った。




