フィオナの加護
あの日から、数日が過ぎた。
「後日、改めて呼ぶわ」
ロザリアのあの言葉が、ずっと頭の隅に残っていた。
授業を受けていても。ご飯を食べていても。ふとした瞬間に、思い出す。
いつ呼ばれるんだろう。
何を言われるんだろう。
落ち着かない日々が、静かに過ぎていく。
左腕の印に、何度も触れた。
そして、ある日の放課後。
一通の手紙が、フィオナのもとへ届いた。
差出人は、ロザリア。
「明日、王城へ来るように」と。
短い文面だった。
その短さが、余計に緊張を煽った。
「…ついに、か」
小さく呟く。
手紙を握る手に、少しだけ力が入った。
****
翌日。
案内されたのは、王城の応接室だった。
重厚な扉。落ち着いた色の調度品。窓から差す光が、柔らかく室内を照らしている。
ソファに腰を下ろして待っていると、静かに扉が開いた。
「待たせたわね」
ロザリアだった。
いつも通りの落ち着いた佇まい。
フィオナの向かいに静かに腰を下ろす。
そして、ゆっくりとお茶を飲んだ。
カップを置いて、ロザリアはフィオナを真っ直ぐに見た。
「先日のお茶会の時。貴女、私の手の印が見えていたでしょう」
息が、止まりかけた。
やっぱり気づかれていた。
「…はい」
誤魔化しても仕方ない。
フィオナは素直に頷いた。
ロザリアは小さく息を吐いて淡々と続ける。
「加護については、以前お茶会で少し話したわね。王家が記録と管理をしている、と。それを今担当しているのが私なの」
ロザリアが、静かにこちらを見る。
「普段は別の者が説明をするのだけれど。貴女のことは、私が直接話すべきだと判断したわ」
****
「私の加護は、記憶よ」
ロザリアは、静かに話し出した。
「記憶…?」
「見たもの、経験したこと。その全てを私は覚えている」
フィオナは、思わず黙った。
全てを記憶する。
言葉にすれば、たった一言。
でも、それがどういうことなのか。
「だから加護の記録も全部、頭の中に入っているわ。書物を確認する必要もない」
淡々とした声。
なのに、その言葉の重さがじわりと胸に広がっていく。
全てを覚えているということは。
忘れたいことも、忘れられないということ。
フィオナは、ロザリアの顔をそっと見た。
その表情からは何も読み取れなかった。
ただ静かに、こちらを見ているだけ。
でも、なぜだろう。
その静けさが少しだけ苦しそうに見えた。
「…大変…ですね」
思わずそう零れた。
ロザリアは、ほんの少しだけ目を見開いて。
それから、薄く笑った。
「そうね。たまに…そう思うわ」
****
「印を見せてもらえるかしら」
ロザリアが、静かに言った。
「あ…はい」
フィオナは袖をまくって、二の腕を差し出した。
赤に近いピンク色の紋様。
細い線が複雑に絡み合う印。
ロザリアの視線が、それに落ちた瞬間。
「…っ」
息を呑む音が聞こえた。
ロザリアの目がわずかに見開かれる。
いつも崩れない表情が揺れた。
「…これは」
掠れた呟き。
その後の沈黙。
数秒がやけに長く感じた。
ロザリアはすぐに何事もなかったかのように背筋を伸ばす。
一体この印に、何があるのだろう。
不安と、少しの期待が、胸をざわつかせた。
「フィオナ」
ロザリアが静かに口を開いた。
「貴女の加護は、運命よ」
「運命…?」
「ええ」
ロザリアは、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「運命の女神が加護を与えることは…本当に少ないの」
その声には、いつもの淡々とした響きの中に何か慎重なものが混じっていた。
「長い歴史の中でも、記録に残っているのはたった一人だけ」
「一人だけ…?」
「そう。どんな加護なのかも、詳しくは分かっていない。残されている記録があまりにも少ないから…」
フィオナは、黙って聞いていた。
「ただ、その加護の持ち主が記録に一つだけ言葉を残しているの」
ロザリアは少しだけ間を置いた。
「『運命の加護は、チャンスをくれる。でも、そのチャンスをどうするかは自分次第』」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
チャンスをどうするかは自分次第。
…あの声。
『じゃあ、あなたが救ってみせて』
重なる。
あの暗闇の中で聞いた声と、今の言葉が。
「結局、それ以上のことは分かっていないわ」
ロザリアが静かに締めくくる。
でも、フィオナの中ではその言葉だけが強く響いていた。
フィオナだけが、その言葉の意味を分かっていた。
****
「一つ、聞いてもいいかしら」
ロザリアがこちらを見た。
「はい」
「加護を貰った時。貴女、神様と話さなかった?」
フィオナの心臓が小さく跳ねた。
あの時のこと。
誰にも話していなかった。
「…話しました」
ゆっくりと口を開く。
「真っ暗で、何も見えなくて。その時に声が聞こえたんです」
「…そう」
「女の人の声でした。優しくて、静かで」
フィオナは記憶を辿る。
「『変えたい?』って、聞かれて」
「…それで?」
「私が『変えたい』って答えたら、その声は」
少しだけ、声が震えた。
「『じゃあ、あなたが救ってみせて』って」
ロザリアは静かに聞いていた。
それから、ほんの少しだけ目を伏せる。
「…そう」
短い相槌。
「加護を授けていただく時、皆お話をするものなの。私の時は、もう少しお話をしたわ」
「ロザリア様も…?」
「ええ。皆、加護についてもう少し聞いているものだけれど…。もしかしたら貴女の時は時間がなかったのかもしれないわね」
そう言って、ロザリアはしばらく何か考えているようだった。
****
「フィオナ」
帰り際。
ロザリアが声をかけた。
「教会へ行ってみるといいかもしれないわ」
「教会…ですか?」
「ええ。神様に最も近い場所だから」
「ありがとうございます」
フィオナは、深く頭を下げた。
応接室を出て、廊下を歩く。
窓の外には傾き始めた陽が見えた。
左腕に、そっと触れる。
印。これは本当に、加護の印だった。
チャンスをどうするかは、自分次第。
その言葉が、頭の中で、何度も繰り返される。
運命の加護。
神様の、あの声。あの言葉。
もし、運命を変えられる力なら。
「…必ず、変えてみせるから」
小さく呟いた。
あの時、届かなかった手。
あの未来を、変えてみせる。
窓の外の陽が、廊下を静かに染めていた。




