幼なじみと印
朝食を終えても、フィオナは落ち着かなかった。
窓の外には青空。穏やかな朝。
以前までと何も変わらない景色なのに。
胸の奥だけが、ずっとざわついていた。
「お嬢様本当に大丈夫ですか?」
エマが心配そうにこちらを見る。
「…うん」
返事をしながら、フィオナはぼんやりと窓を見つめていた。
あれは夢だったのか。
それとも、本当に起きた未来なのか。
分からない。
でも、ユリウスが消えたあの瞬間だけは、今も鮮明に焼き付いていた。
「…お風呂入ってくる」
「はい。お支度いたします」
「今日は一人で入る」
「ですが、お嬢様─」
「少しだけ、ゆっくりしたいの」
準備をしようとしていたメイドたちは顔を見合わせて、それ以上は言わなかった。
「かしこまりました」
扉が、閉まる。
****
熱い湯に肩まで浸かって、小さく息を吐いた。
静かだ。誰もいない。
だからこそ、考えてしまう。
『変えたい?』
あの声。優しくて、静かな声。
「…変える」
小さく呟いた瞬間。
左の二の腕に、違和感があった。
「…え?」
視線を落とす。
見覚えのない紋様が浮かんでいた。赤に近いピンク色の印。細い線が複雑に絡み合って、淡く光っている。
「…なに、これ」
触れてみる。熱はない。痛みもない。
でも確かに、そこにあった。
以前まで、こんなものはなかった。
「…巻き戻ったから?」
呟いても答えは返らない。
これが、なんなのかは分からない。
でも、以前と違うものがある。それがやり直している印なのだとしたら。
もし本当にやり直しているなら。ユリウスを、救えるかもしれない。
その考えが胸を強く締め付けた。
****
翌日。馬車の中で、フィオナは何度も窓の外を見ていた。
王都へ続く石畳の道。賑やかな街並み。
全部、見覚えがある。
それでも二度目だという実感は、まだなかった。
「…夢じゃないんだよね」
窓にそっと手をつく。左腕の印は制服の下に隠れていた。
誰にも見せていない。まだ、話す気になれなかった。
やがて第1王立魔法学院の巨大な門が見え始める。
ここから全部が始まる。
馬車を降りた瞬間。
「フィオナじゃねーか!」
「レオガルド!」
前と変わらない雰囲気に、少しだけ肩の力が抜けた。
「…なんだその顔。なんか泣きそうだぞ?」
「っ、泣いてない!」
「朝から騒がしいわねぇ」
ヴァンだった。
「ヴァン…」
「なぁに、その反応。幽霊でも見たみたいじゃない」
「…なんでもない」
「そう? 無理してるならちゃんと言いなさいよ」
フィオナは小さく首を振った。
「久しぶり」
セレナが静かに歩いてくる。
「セレナ!」
思わず抱きつきかけて、寸前で止まった。
「…どうしたの?」
「えっ、いや…」
「今日のあなた、様子がおかしい」
言葉に詰まる。
すると。
「みんな、揃ってるね」
穏やかな声が響いた。
フィオナの心臓が、大きく跳ねる。
ユリウス・フォン・アークラルク。この国の第二王子。いつも笑顔で、優しい人。
「…ユリウス」
「ん?」
いつも通りの笑顔。
気づいたら、ユリウスの袖を掴んでいた。
「フィオナ?」
「あ…ご、ごめん」
「別にいいけど。今日はいつもと様子が違うね。緊張してる?」
その言葉に、フィオナは一瞬だけ黙った。
「なんか変なもんでも食ったんじゃないか?」
「そんなわけないじゃない! レオガルドじゃないんだから!」
「はぁ!? なんで俺だけ!」
「だって前に変なキノコ食べて倒れたでしょ!」
「あれは見た目が普通だったんだって!」
「普通の紫色のキノコなんてないわよ!」
「あるかもしれねえだろ!」
ヴァンがため息を吐く。
「はいはい。初日から悪目立ちしたいのかしら」
でもその声は、どこか楽しそうだった。
「相変わらず」
セレナも小さく息を吐く。
その空気に、フィオナの胸が少しだけ軽くなった。
まだ何も始まっていない。まだ、間に合う。
****
入学式は盛大だった。
学院長の挨拶。歓迎の言葉。魔法を使った演出。広い講堂には緊張した空気が満ちていた。
教室へ移動して、学院生活の説明が始まる。
「これから、皆さんには様々なことを学んでもらいます」
フィオナは黙って聞いていた。
以前の自分なら、期待でいっぱいだったはずなのに。
左腕の印。あの声。ユリウスが消える未来。
何の印なのか。なぜ自分なのか。本当に変えられるのか。
何も、分からなかった。
****
帰りの馬車で、フィオナは静かに左腕へ触れた。
夕焼けが窓を赤く染めていく。
朝確認しても、印は消えていなかった。
長い夢を見ていたと言うには膨大な記憶と感覚。
あれが本当に起きたことならユリウスは未来で、消える。
「…絶対に」
誰にも聞こえない声で、呟く。
「今度は助けるから」
馬車は夕暮れの道を進んでいく。
学院生活が、始まろうとしていた。




