はじめまして
「ママ、すごく傷つく」
紬の声は震えていた。
小さな手が、私の服をぎっと掴んでいる。
まるで、このまま何か悪いことが起きるのを知っているみたいに。
──いや。
知っているんだ。
未来で。
私は息を吐いた。
怖い。
正直、会いたくない。
逃げたい。
夫の不倫相手。
しかも人気アイドル。
テレビの中で笑っていた女。
私の人生を壊した女。
そんな相手と、今から同じ空間にいる?
無理だ。
でも。
ここで逃げたら。
また未来通りになる気がした。
「紬」
私はゆっくりしゃがむ。
目線を合わせる。
「大丈夫」
紬が不安そうに私を見る。
「録音する」
私はスマホを持ち上げた。
ボイスレコーダー。
準備。
未来を知ってるなら、対策する。
前の私はきっと、何もできなかった。
でも今は違う。
「それに」
私は少し考えた。
「チェーン、外さない」
紬が瞬きをする。
「すぐ入れない」
未来と同じにしない。
少しでも違う行動をする。
それだけでも、何か変わるかもしれない。
紬は少しだけ安心した顔をした。
「……うん」
その時だった。
ピンポーン。
インターホン。
深夜二時半。
空気が止まる。
来た。
私はモニターを見る。
そして、呼吸が浅くなった。
蓮。
その隣。
帽子とマスクをしていても分かる。
星乃ゆめ。
細い。
小さい顔。
テレビで見るまま。
なのに。
現実の方がずっと怖かった。
ゆめは下を向いていた。
儚げで、弱そうで。
“守ってあげたくなる女”という言葉が似合う。
……だから男は騙されるんだ。
ピンポーン。
もう一度。
蓮の声。
「真白」
私は深呼吸した。
そしてインターホン越しに答える。
「何」
『開けて』
「無理」
数秒、沈黙。
『……真白、話そう』
「電話でいい」
すると。
隣にいたゆめが、ゆっくり顔を上げた。
そして。
小さな声で言った。
『奥さん……本当に、ごめんなさい』
その声は震えていた。
泣きそうだった。
もし今日のことがなかったら。
紬がいなかったら。
私は騙されていたかもしれない。
可哀想。
弱そう。
申し訳なさそう。
そう思っていたかもしれない。
でも。
録音。
被害者ムーブ。
『産めない女が邪魔』
未来の言葉が頭にある。
私は黙った。
蓮がため息をつく。
『真白、頼むから』
『ゆめ、精神的に不安定なんだ』
その言葉に、少し笑いそうになった。
不安定?
こっちの方が壊れそうなのに。
夫を奪われて。
妊娠されて。
脅迫まで来て。
「……何の話?」
私が言うと。
少し沈黙。
そして。
ゆめが、小さく言った。
『ちゃんと謝りたくて』
紬が隣で強く首を振った。
私は気づかないふりをした。
「ここで聞く」
『え……』
「開けない」
蓮の顔が少し苛立つ。
『真白、いい加減に──』
その時だった。
ゆめが蓮の腕をそっと掴む。
『蓮さん、いいです』
小さな声。
健気。
守りたくなる感じ。
でも。
次の瞬間。
ゆめが言った言葉で、空気が変わる。
『奥さんって……本当に私のこと嫌いなんですね』
私は眉をひそめた。
何その言い方。
被害者みたいな。
『私、ずっと苦しかったんです』
ゆめが涙声になる。
『好きになっちゃいけない人、好きになって……』
蓮が優しく肩を抱く。
胸が気持ち悪くなる。
私の前で?
家の前で?
「……帰って」
低い声が出た。
『奥さん』
ゆめの声。
静かだった。
でも。
どこか変だった。
『私、お腹に赤ちゃんいるんです』
息が止まる。
『ストレス、良くないんです』
紬が小さく震えた。
未来で聞いた言葉。
同じ。
そして。
ゆめが、少し間を空けて言った。
『だから、早く離婚してくれませんか?』
その瞬間。
私の中で、何かが切れた。




