合格なんて、いらない
「合格だよ、真白。」
老人の口元が静かに動いた。
その笑顔を見た瞬間。
百合子が叫んだ。
「真白、下がって!」
黒い車は橋の手前で止まり、一人の老人がゆっくりと降りてきた。
白い手袋。
黒いステッキ。
年齢は七十代半ば。
しかし、その背筋は真っすぐ伸びていた。
年配の警察官が前へ出る。
「あなたを逮捕します!」
老人は薄く笑った。
「逮捕?」
肩をすくめる。
「私は何もしていないよ」
「全部、君たちが選んだことだ」
私は蒼を背中へ隠した。
「あなたが……黒幕なの?」
老人は私を見る。
まるで成長した教え子を見るような目だった。
「黒幕という言葉は好きじゃない」
静かな声。
「私は観察者だ」
その言葉に、百合子が震えた。
「あなたは人間を実験道具にした!」
老人は否定しない。
「そうだ」
あまりにもあっさり認めた。
橋の空気が凍りつく。
「人は」
老人は空を見上げる。
「愛で動くのか」
「憎しみで動くのか」
「それを知りたかった」
私は怒りで体が震えた。
「そのために」
「子どもを奪ったの?」
老人は静かに頷く。
「必要だった」
「記憶を消したの?」
「必要だった」
「家族を壊したの?」
「必要だった」
私は一歩前へ出た。
「必要じゃない!」
橋に私の声が響く。
「誰かを泣かせて手に入れた答えなんて、答えじゃない!」
老人は初めて少しだけ表情を変えた。
「では聞こう」
穏やかな声。
「君は蓮を許すのか」
私は蓮を見る。
蓮は俯いたままだ。
涙を流しながら。
「私は……」
正直に答える。
「まだ全部は許せない」
老人が微笑む。
「ほら」
「だが」
私は続けた。
「許せないことと、憎み続けることは違う」
老人の笑みが止まる。
私は蒼の頭を撫でた。
結衣の肩を抱いた。
百合子の手を握った。
「私は家族を選ぶ」
「傷ついても」
「裏切られても」
「それでも、一緒に生きることを選ぶ」
橋に朝日が差し込む。
老人は長い間、私を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「だから」
「合格なんだ」
私はゆっくり首を横に振る。
「違う」
老人が眉をひそめる。
「私はあなたの実験なんかじゃない」
一歩前へ進む。
「私は、私」
「母親で」
「娘で」
「家族の一人」
涙を拭いながら言った。
「あなたに評価されるために生きてきたんじゃない」
長い沈黙が流れた。
老人は初めて目を閉じた。
その時だった。
年配の警察官が静かに近づく。
「これで終わりです」
老人は抵抗しなかった。
両手を差し出す。
手錠が掛けられる。
カチャン。
乾いた音が橋に響く。
老人は最後に私へ振り返った。
「真白」
私は何も答えない。
老人は少しだけ寂しそうに笑った。
「実験は失敗だった」
私は静かに言った。
「違う」
老人が足を止める。
「最初から、人の心は実験なんかできない」
老人は何も言わなかった。
そのままパトカーへ乗り込む。
ドアが閉まる。
長かった事件が、ようやく終わろうとしていた。
朝日が橋全体を照らす。
蒼が私の手を握る。
「ママ」
「うん」
「帰ろう」
私は微笑んだ。
「そうだね」
その時。
ポケットの中で、一通の手紙が風に揺れた。
差出人は書かれていない。
表には、たった一言だけ。
『本当の幸せは、ここから始まる。』




