零
「その人、ぼくのことを『零』って呼ぶの」
私は息を止めた。
「零……?」
蒼は小さく頷く。
「うん」
「その人だけ」
「いつもそう呼ぶ」
橋の上に重い沈黙が流れる。
百合子の顔から血の気が引いた。
「……その名前」
震える声だった。
「まだ使っていたのね」
私は百合子を見る。
「知ってるんですか?」
百合子はゆっくり目を閉じた。
「知っているわ」
苦しそうに息を吐く。
「零は、名前じゃない」
私は首をかしげた。
「どういうこと?」
百合子は静かに答えた。
「神崎家では、生まれた子どもに番号を付けて管理していた」
空気が凍る。
「番号……?」
「名前を付ける前に」
「まず番号」
「零、一、一〇二……」
私は思わず蒼を抱きしめた。
子どもに番号を付けるなんて。
人じゃない。
物のように。
「蒼は」
百合子は涙を浮かべた。
「最初に保護された子だった」
「だから零」
蒼は何も分からないまま私を見上げる。
「ママ」
私は優しく頭を撫でた。
「大丈夫」
「あなたは蒼だよ」
「誰が何て呼んでも」
蒼は安心したように笑った。
「ぼく、蒼!」
その笑顔を見て、私は胸が熱くなった。
その時だった。
年配の警察官の無線が鳴る。
「屋敷班より本部!」
慌ただしい声が響く。
「地下へ進入しました!」
全員が息をのむ。
「状況は?」
数秒の雑音。
そして。
震えた声が返ってきた。
「地下室を確認!」
「医療器具があります!」
「大量のカルテも発見!」
私は言葉を失う。
本当にあった。
地下の診療室が。
「さらに……」
無線の向こうで誰かが叫ぶ。
『こっちです!』
慌ただしい足音。
「部屋の奥に鉄製の扉があります!」
警察官が固唾をのむ。
「開けろ!」
ガシャン、と重い音が響く。
数秒後。
無線の向こうから、信じられない声が聞こえた。
「警部……」
若い警察官の声は震えていた。
「中に……」
長い沈黙。
そして。
「子ども部屋があります」
橋の上が凍りつく。
「ベッドが五つ」
「机が五つ」
「壁には身長を測った跡が残っています」
百合子がその場に崩れ落ちた。
「間に合わなかった……」
涙が止まらない。
その時。
無線の向こうで、もう一人の警察官が何かを見つけたらしい。
「警部!」
「壁に文字があります!」
「何て書いてある!」
数秒後。
読み上げる声が聞こえた。
『いつか、お母さんは迎えに来る。だから泣かない。 ──蒼』
私はその場で泣き崩れた。
蒼は何も分からず、私の涙を小さな手で拭いた。
「ママ」
私は蒼を強く抱きしめる。
「ごめんね」
「ずっと待たせて、ごめん」
その瞬間。
無線から最後の報告が入る。
「警部!」
「地下室のさらに奥です!」
「隠し金庫を発見しました!」
「中には、一冊の日記があります!」
警察官が表紙を読み上げる。
そのタイトルを聞いた瞬間。
百合子は絶望したように目を閉じた。
『神崎家実験記録 第1巻』




