もう一人のぼく
「ぼく、あそこにもう一人のぼくを置いてきた」
蒼の一言で。
全員が凍りついた。
私はゆっくり蒼の前にしゃがみ込む。
「蒼」
できるだけ優しく聞く。
「もう一人のぼくって、どういうこと?」
蒼は困ったように首をかしげた。
「ぼくじゃないぼく」
「でも、ぼく」
子どもらしい説明だった。
意味が分からない。
その時。
百合子が息をのんだ。
「まさか……」
年配の警察官が振り向く。
「何か心当たりが?」
百合子は苦しそうに目を閉じた。
「十五年前」
「神崎家では子どもの成長を記録するために、毎日映像を撮っていた」
私は首をかしげる。
「映像?」
「ええ」
百合子は静かに続ける。
「食事も」
「会話も」
「泣いた日も」
「笑った日も」
「全部」
橋の上に重い沈黙が落ちる。
「だから蒼は……」
百合子は蒼を見つめた。
「自分の映像を『もう一人のぼく』と思っているのかもしれない」
私は少しだけ胸をなで下ろした。
映像。
それなら。
でも。
蒼は首を横に振った。
「ちがう」
小さな声。
「テレビじゃない」
「え?」
蒼は真剣な顔で言う。
「おしゃべりした」
空気が止まる。
「ぼくと」
私は思わず聞き返す。
「誰と?」
蒼は少し考えてから。
静かに答えた。
「ぼく」
背筋が冷たくなる。
その時。
蓮が突然頭を押さえた。
「……っ!」
苦しそうな声。
私は振り向く。
「蓮!」
蓮はその場に膝をついた。
額に汗が浮かんでいる。
「思い出した……!」
途切れ途切れの声。
「地下室だ……!」
百合子の顔色が変わる。
「何を思い出したの?」
蓮は震える手で頭を押さえたまま言う。
「地下に……鏡の部屋があった」
「鏡?」
「違う」
蓮は首を振る。
「外からは鏡に見える」
「でも向こう側には部屋がある」
私は息をのむ。
「マジックミラー……?」
蓮はゆっくり頷いた。
「子どもを観察するための部屋だった」
百合子が苦しそうに目を閉じる。
「やっぱり残っていたのね」
その時。
若い警察官が無線を受け、険しい表情でこちらへ駆け寄ってきた。
「警部!」
「神崎家の屋敷を確認しました!」
全員が振り向く。
「地下への隠し階段を発見!」
私は思わず蒼を抱き寄せる。
警察官はさらに続けた。
「ただし……」
息を整えながら言う。
「地下には電気がついています」
橋の上が静まり返る。
「誰かいます」
警察官のその一言で。
全員が屋敷の方角を見た。
その瞬間。
蒼が私の耳元で、小さく囁いた。
「その人、ぼくのことを『零』って呼ぶの」




