たった一日の約束
「その一日が、三年になったの」
誰も声を出せなかった。
橋の上には風だけが吹いている。
蓮は膝をついたまま動かない。
画面を見つめたまま、震えていた。
「……思い出した」
小さな声。
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
私は蓮を見る。
「蓮……」
蓮はゆっくり顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃだった。
「全部じゃない」
苦しそうに息を吐く。
「でも……少しずつ」
頭を押さえる。
「ゆめが泣いてた」
「蒼を抱いて」
「『一日だけ貸して』って」
私は何も言えない。
蓮は自分の記憶を必死に辿る。
「俺は断った」
涙が落ちる。
「何度も断った」
「でも」
長い沈黙。
「ゆめが橋へ向かった」
私は息を止める。
橋。
また橋。
「蒼を抱いたまま」
蓮の声が震える。
「『返すなら、この子と一緒に死ぬ』って」
橋の空気が張り詰める。
「だから……」
蓮は顔を覆った。
「一日だけならって」
「落ち着いたら迎えに行くって」
「そう思った」
その瞬間。
ゆめが静かに笑った。
手錠をかけられたまま。
涙を流しながら。
「本当に優しかったよね」
蓮はゆめを見なかった。
「私は」
ゆめが続ける。
「嘘なんてついてない」
私は思わず振り向く。
「え?」
ゆめは穏やかな顔で言った。
「一日だけのつもりだった」
その言葉に。
全員が息をのむ。
「でも」
笑顔が崩れる。
「蒼が初めて笑ったの」
涙がこぼれる。
「私を見て」
震える声。
「初めて『ママ』って呼んでくれた」
私は胸が締めつけられた。
「その瞬間」
ゆめは目を閉じる。
「返せなくなった」
橋の上に静寂が落ちる。
百合子も。
警察官も。
誰も何も言わない。
ゆめはゆっくり私を見た。
「真白さん」
涙を流しながら。
深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
私は言葉を失った。
「許されることじゃない」
「分かってる」
「でも」
嗚咽を漏らしながら。
「私は本当に、この子を愛してた」
蒼は私の腕の中で眠っている。
安心したような寝顔だった。
私はゆっくり蒼の髪を撫でる。
そして。
ゆめを見る。
「愛していたなら」
涙をこらえながら言う。
「どうして返してくれなかったの」
ゆめは答えなかった。
代わりに。
静かに泣き続けた。
その時だった。
年配の警察官が無線を受ける。
表情が変わる。
「……分かりました」
無線を切る。
そして私たちを見る。
「病院から連絡です」
全員が振り向く。
警察官はゆっくり告げた。
「三年前のカルテが見つかりました」
私は息を止める。
「カルテには」
一度言葉を切る。
そして。
信じられない一文を読み上げた。
「『出産したのは双子』と記録されています」




