父と名乗る男
「私は、君の父だ」
橋の上から音が消えた。
私は男を見つめる。
知らない顔。
会ったこともない。
それなのに。
その一言だけで胸がざわついた。
「……違う」
思わず首を振る。
「私の父は、もう亡くなっています」
男は静かに微笑んだ。
「そう聞かされてきたんだね」
百合子が一歩前へ出る。
「それ以上しゃべらないで」
今までで一番強い声だった。
男は百合子を見る。
「まだ私を止めるのか」
「あなたが近づけば、この子たちが危険になる」
男は肩をすくめた。
「私は迎えに来ただけだ」
その言葉に、フードの男が震えた。
「嘘だ……」
掠れた声。
「先生はいつもそう言う」
男は冷たい視線を向ける。
「余計なことを覚えていたか」
警察官が二人の間へ入る。
「あなた方全員、これ以上話すのは署で――」
「遅い」
男が静かに遮った。
「もう始まっている」
その瞬間だった。
橋の向こうから救急隊員の叫び声が聞こえた。
「先生!」
私は振り向く。
蒼が苦しそうに胸を押さえている。
「蒼!」
私はしゃがみ込む。
蒼の呼吸が速い。
顔色も悪い。
「ママ……」
小さな声。
私は蒼の手を握った。
「大丈夫、大丈夫だから」
救急隊員がすぐに診察を始める。
「酸素を!」
「ストレッチャーをお願いします!」
橋の空気が一変した。
その様子を見ていた男が、小さく目を閉じる。
「間に合わなかったか」
百合子が男を睨む。
「あなた……何をしたの」
男は答えない。
代わりに私を見た。
「真白」
穏やかな声だった。
「その子には定期的な治療が必要なんだ」
私は息を止める。
「……治療?」
「三年間、薬を切らさなかったから生きてこられた」
頭が真っ白になる。
誘拐。
監禁。
それなのに。
薬?
「嘘よ!」
百合子が叫んだ。
男は静かに首を振る。
「嘘なら、なぜ発作が起きている」
私は蒼を見る。
苦しそうに息をしている。
救急隊員も険しい表情だった。
「お母さん」
隊員が私を見る。
「この子の持病をご存じですか?」
私は首を横に振る。
「……知りません」
その一言が胸に刺さった。
母親なのに。
何も知らない。
その時。
紬が突然叫んだ。
「思い出した!」
全員が紬を見る。
涙を流しながら、蒼の手を握る。
「薬!」
「青い箱!」
「毎日寝る前に飲んでた!」
フードの男が大きく頷く。
「そうです!」
「車の中です!」
警察官がすぐに車へ走る。
数十秒後、小さな青いケースを持って戻ってきた。
救急隊員が中を確認する。
表情が変わった。
「これです!」
すぐに薬を飲ませる。
橋の上に緊張が走る。
長い一分。
二分。
やがて。
蒼の呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
「ママ……」
弱々しい声。
私は蒼を抱きしめた。
涙が止まらない。
その様子を見ていた男は、初めて寂しそうに笑った。
「だから言っただろう」
「守るために連れ去った子もいる、と」
私はゆっくり顔を上げる。
怒りと混乱が入り混じる。
「……どういう意味?」
男は私をまっすぐ見つめた。
そして静かに言った。
「君は十五年間、ずっと敵を間違えていた」




