お母さん
「真白……ずいぶん大きくなったわね」
その一言で。
世界が止まった。
「……え?」
私の声は震えていた。
神崎百合子。
神崎。
私と同じ名字。
でも。
知らない。
会ったことなんて、一度もない。
「誰……ですか」
女性は少しだけ目を細めた。
懐かしいものを見るような目だった。
「忘れていて当然よ」
静かな声。
「あなたはまだ三歳だったから」
胸がざわつく。
三歳。
記憶なんてほとんどない。
その時。
蓮が呆然と呟く。
「まさか……」
女性は蓮を見なかった。
視線は私だけ。
「真白」
少し間を置いて。
「私は、あなたの母親よ」
橋の上から音が消えた。
風だけが吹いている。
私は首を振った。
「嘘」
思わず一歩後ろへ下がる。
「私の母は……」
言葉が止まる。
私を育ててくれた人の顔が浮かぶ。
優しかった。
厳しかった。
私の母だった。
女性は静かに頷く。
「育ててくれた人は、お母さんで間違いない」
優しい声だった。
「でも、あなたを産んだのは私」
私は何も言えなかった。
警察官も誰も口を開かない。
その時。
女性はバッグから古い写真をもう一枚取り出した。
警察官へ差し出す。
「本人に」
写真が私の手に渡る。
震える指で裏返す。
若い女性。
赤ちゃんを抱いて笑っている。
隣には若い男性。
そして。
女性に抱かれている赤ちゃん。
首元には、小さな三日月型のあざ。
私は息をのんだ。
自分の首に手を当てる。
そこには。
子どもの頃からある。
同じ形のあざ。
「……そんな」
涙が滲む。
女性は静かに微笑んだ。
「そのあざだけは、隠せなかった」
私は写真を握りしめる。
信じられない。
でも。
否定もできない。
その時だった。
「百合子先生!」
若い警察官が声を上げる。
「病院へ同行していただきます」
女性は素直に頷いた。
抵抗しない。
逃げもしない。
パトカーへ向かおうとして。
ふと立ち止まる。
振り返る。
私と紬。
そして蒼を見つめた。
「急いで」
静かな声だった。
「まだ終わっていない」
私は眉をひそめる。
「何が」
女性は少しだけ目を閉じた。
「出生証明書の父親欄を見なさい」
胸がざわつく。
「そこに全部書いてある」
その瞬間。
救急隊員が駆け寄ってくる。
「真白さん!」
私は振り向く。
「念のため病院へ行きましょう」
蒼も診察が必要です、と救急隊員は続けた。
私は頷く。
蒼を抱き直す。
その小さな体が私にしがみつく。
「ママ……」
私はそっと頭を撫でた。
「もう離れない」
そう約束した。
その時。
警察官が私に封筒を差し出す。
「父親欄を確認してください」
私は震える手で出生証明書を開いた。
ゆっくり。
ゆっくり視線を下ろす。
そして。
父親の名前を見た瞬間。
呼吸が止まった。
そこに書かれていたのは。
──神崎 蓮。
私は呆然と立ち尽くした。
すぐ目の前には。
同じように出生証明書を見つめる蓮。
蓮も顔面蒼白になり。
震える唇で、たった一言だけ漏らした。
「……どうして俺の名字が、神崎なんだ」




