未来の家族
「……え?」
私は思わず紬の腕を掴んだ。
細い。
驚くほど細い。
そして、袖口から覗いた痣。
黄色く薄くなっているもの。
青紫が残っているもの。
古い傷と新しい傷が混ざっていた。
心臓が嫌な音を立てる。
「これ、どうしたの」
紬は反射的に腕を引っ込めた。
隠すように、ぎゅっと袖を握る。
「なんでもない」
子ども特有の嘘だった。
なんでもない傷じゃない。
私でも分かる。
「……パパ?」
紬は答えなかった。
代わりに俯いた。
それが答えみたいだった。
頭が混乱する。
蓮が人を殴る?
ありえない。
優しかった。
穏やかだった。
少なくとも、私には。
でも。
今日の蓮を思い出す。
あの冷たい目。
私が泣いていても、何も感じていない顔。
「感情的になるなよ」
あの声。
別人みたいだった。
もし。
もし本当に未来があるなら。
蓮は変わるのだろうか。
そこまで。
「……怖かった?」
気づけば、そう聞いていた。
紬の肩がぴくっと震える。
そして、しばらく沈黙したあと。
小さく頷いた。
その瞬間、胸が締め付けられた。
怖かった。
子どもがそんな顔で言うことじゃない。
「ママが庇ってくれてた」
紬がぽつりと言う。
「でも、ママ……いなくなった」
まただ。
死ぬ。
未来。
話が現実味を帯び始めて、気持ち悪くなる。
「私、死ぬって……何?」
紬は黙った。
言いたくなさそうだった。
私は待った。
数秒。
いや、一分くらいだったかもしれない。
やっと紬が口を開いた。
「……飛び降り」
背筋が凍った。
「え?」
「ママ、自分で」
頭が真っ白になる。
飛び降り。
自殺。
私が?
そんな馬鹿な。
「嘘」
即答だった。
絶対にありえない。
私は弱くない。
死ぬほどじゃない。
そう思った。
なのに。
離婚届。
不倫。
妊娠。
“産めない女”と言われたみたいなあの言葉。
胸が痛い。
呼吸が少し苦しい。
もし、これが続いたら。
もし、全部失ったら。
……私は壊れないと言い切れる?
「違う」
私は首を振った。
考えたくない。
「そんなことするわけない」
紬が泣きそうな顔をした。
「最初は、私もそう思ってた」
言葉に詰まる。
紬は小さな手をぎゅっと握った。
「でも、ママずっと泣いてた」
「……」
「ご飯食べなくなって」
「……」
「パパとゆめママがテレビ出てるの見て、吐いて」
ゆめママ。
その呼び方に、胸がざわついた。
でも今はそれどころじゃない。
紬の話が重すぎた。
「最後の日……」
紬の声が震える。
「ママ、私にごめんねって言ったの」
私は何も言えなかった。
怖い。
怖すぎる。
「だから来たの」
紬が泣きながら言う。
「もう一回やり直したくて」
「紬……」
初めて名前を呼んだ。
紬の目が少しだけ揺れる。
安心したような顔。
それが、なぜか苦しかった。
「未来って……本当に変えられるの?」
紬はすぐ頷いた。
「変えられる!」
強かった。
子どもなのに。
必死だった。
「だからお願い。パパとゆめママを止めて」
また、その言葉。
止める。
でも、どうやって?
夫はアイドルを妊娠させた。
もう遅い。
全部終わってる。
私はそう思った。
でも。
紬は首を横に振る。
「まだ間に合う」
「……何が?」
紬は少し迷ったあと、小声で言った。
「だって、まだパパ知らないもん」
「え?」
「赤ちゃん、自分の子じゃないって」
空気が止まった。
私は数秒、瞬きすら忘れた。
「……は?」
紬が口を押さえる。
しまった、という顔。
でも遅かった。
今、聞こえた。
はっきり。
「どういう意味?」
紬が慌てる。
「ち、違う、今のなし!」
「なしじゃない!」
思わず立ち上がっていた。
「え、何? 蓮の子じゃないって?」
紬の目が泳ぐ。
完全に言ってはいけないことを言った顔。
「未来の話だから……」
「紬」
私の声が少し低くなる。
紬がびくっとした。
でも聞かなきゃいけない。
これは大事だ。
「本当に蓮の子じゃないの?」
長い沈黙。
そして。
紬はゆっくり頷いた。
「……たぶん」
たぶん?
「たぶんって何」
紬は俯く。
「未来でも、ずっと隠してたから」
「誰の子なの」
紬は答えなかった。
でも。
次に出た名前で、私は固まった。
「……社長」
「社長?」
「事務所の」
頭が追いつかない。
つまり。
星乃ゆめは。
夫だけじゃなく。
別の男とも?
しかも社長?
胃がひっくり返りそうだった。
不倫だけじゃない。
妊娠も。
全部。
もしかして──
蓮は騙されてる?
でも。
だからって許されない。
私を裏切った事実は消えない。
「……最低」
自然と口から漏れた。
蓮も。
ゆめも。
全部。
ぐちゃぐちゃだ。
その時だった。
ブブッ。
スマホが震えた。
画面を見る。
知らない番号。
私は出ようとして。
紬が、真っ青な顔で叫んだ。
「出ちゃだめ!!」
空気が凍った。
紬の声は震えていた。
怯え切った目。
「それ、未来でママが壊れる始まりだから……!」




