未来から来た娘
「……は?」
写真が、床に落ちた。
乾いた音が玄関に響く。
私の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
女の子は泣いていた。
雨で濡れた頬に涙が混ざって、ぐしゃぐしゃになっている。
「ママ……お願い……」
また、その呼び方。
ママ。
私は母親になったことなんてない。
なれなかった。
なれなかったから、夫に捨てられたばかりなのに。
「待って」
私は震える声で言った。
「誰なの、あなた」
女の子は唇を噛んだ。
言うべきか迷っているような顔だった。
でも次の瞬間、決意したように私を見上げた。
「……紬」
「え?」
「私、紬。十歳」
十歳。
小学生くらいに見える。
でもそれより。
「名字は?」
紬は小さく息を吸った。
そして、言った。
「……神崎」
心臓が止まりそうになった。
神崎。
私と蓮の名字。
「嘘……」
私は一歩後ろへ下がった。
ありえない。
何かの悪質ないたずらだ。
芸能人の不倫相手の妻をからかう動画?
SNS?
ドッキリ?
でも。
紬の目は、あまりにも必死だった。
演技には見えなかった。
「寒いよね」
そう言ってしまったのは、ほとんど反射だった。
女の子がずぶ濡れで震えている。
放っておけなかった。
私は玄関を開けた。
「……とりあえず入って」
紬の顔が、一瞬だけ安心したように緩んだ。
「ありがとう、ママ」
その呼び方に胸がざわつく。
私は否定した。
「ママじゃない」
紬の表情が曇った。
「あ……ごめんなさい」
その顔が、妙に苦しかった。
責めたいわけじゃない。
でも受け入れられない。
私は誰かの母親じゃない。
その資格すら、失ったばかりだ。
──十分後。
紬はお風呂を済ませ、私の部屋着を着てソファに座っていた。
サイズがぶかぶかで、袖が余っている。
ドライヤーをかけながら、私はちらりと紬を見る。
変な子だ。
でも、不思議だった。
初対面のはずなのに、どこか懐かしい。
顔立ちも少しだけ似ている気がする。
気のせいだろうか。
「ココア飲む?」
紬の顔がぱっと明るくなった。
「……いいの?」
「嫌い?」
「ううん。好き」
その言い方が、なぜか胸に刺さった。
まるで、普段あまり優しくされていない子みたいだった。
私はキッチンに立った。
お湯を沸かしながら、現実逃避みたいに考える。
数時間前。
夫に離婚を告げられた。
不倫相手は人気アイドル。
妊娠。
離婚。
人生終了。
その直後に。
未来から来た娘を名乗る子。
意味が分からない。
頭がおかしくなったのかもしれない。
「はい」
ココアを差し出すと、紬は両手で大事そうに持った。
「あったかい……」
その声が少し震えていた。
私は向かいに座る。
「聞かせて」
紬の肩がぴくっと跳ねた。
「あなた、誰?」
沈黙。
雨音だけが響く。
やがて紬は、小さな声で言った。
「……未来から来たの」
やっぱり、それを言うのか。
私は疲れた頭を押さえた。
「本気で言ってる?」
「うん」
「信じられると思う?」
紬はうつむいた。
そして、小さく呟いた。
「でも、信じてもらわないと……ママ、死んじゃうから」
まただ。
死ぬ。
その言葉。
「さっきから何なの? 私が死ぬって」
紬の手が震えた。
ココアの表面が揺れる。
「ママ、三ヶ月後に死ぬの」
空気が止まった。
「……何言ってるの」
「本当」
「やめて」
即答だった。
今日はもう限界だった。
夫の不倫。
妊娠。
離婚。
そんな日に死ぬなんて言われて、受け止められるわけがない。
「悪いけど、帰って」
紬の顔が真っ青になった。
「だめ!」
思ったより大きな声だった。
紬はソファから立ち上がる。
涙を浮かべながら、震えていた。
「お願い! 信じて!」
「落ち着いて」
「ママ、本当に死ぬの!」
「だから!」
私も思わず声を荒げた。
紬がびくっと肩を震わせる。
その顔が、泣くのを必死で我慢している子どもの顔だった。
私は深呼吸した。
……怒る相手じゃない。
子どもだ。
事情があるのかもしれない。
私は少し声を落とした。
「ごめん。でも、意味が分からないの」
紬はしばらく黙っていた。
そして。
ポケットから小さなノートを取り出した。
ぼろぼろだった。
角が擦れている。
「……これ」
開かれたページには、文字が並んでいた。
【2026年6月3日 午後7時12分】
パパから電話が来る。
『やっぱり慰謝料は払えない』って言う。喧嘩になる。
私は眉をひそめた。
「なにこれ」
「未来ノート」
「……」
「今日のこと、書いてある」
ありえない。
そう思った。
でも。
私は時計を見た。
午後六時五十分。
そして、スマホを見る。
着信も通知もない。
私はため息をついた。
「違ったら?」
紬は真っ直ぐ私を見た。
「違わない」
その目だけは、不思議なくらい本気だった。
七時十分。
私は落ち着かず、お茶を飲んだ。
七時十一分。
何も起きない。
ほら、やっぱり。
そう思った瞬間。
スマホが震えた。
画面に表示された名前。
蓮
息が止まった。
時刻。
午後7時12分。
鳥肌が立った。
紬が小さく言う。
「……出て」
私は震える指で通話を押した。
「もしもし」
蓮の声は冷たかった。
『あー、真白?』
数時間前まで夫だった声。
なのに、もう他人みたいだった。
『ちょっと話なんだけど』
嫌な予感がした。
『慰謝料さ、そんなに払えないと思う』
私は固まった。
紬が言っていた通り。
『ゆめ、仕事休むかもしれないし。生活あるから』
怒りで視界が揺れた。
私との生活は?
五年間は?
全部捨てておいて。
「……最低」
『は?』
「本当に最低」
気づけば涙が出ていた。
『感情的になるなよ』
プツッ。
私は通話を切った。
呼吸が浅い。
ありえない。
本当に。
当たった。
ゆっくり顔を上げる。
紬は泣きそうな顔で、私を見ていた。
「……少しだけ、信じてくれた?」
私は言葉が出なかった。
偶然?
でも時間まで一致してる。
そんなことある?
「あなた……本当に何者なの」
紬は少しだけ迷って。
ぽつりと言った。
「……未来の、家族」
その言葉の意味を聞く前に。
紬の視線が、リビングの棚で止まった。
そこにある結婚写真。
私と蓮が笑っている。
紬の顔色が、さっと変わった。
怯えたように。
嫌悪するように。
そして、震える声で言った。
「……その人」
私は写真を見る。
蓮。
「その人がどうしたの?」
紬は唇を震わせた。
そして、小さく言った。
「パパ、だけど……」
数秒、間が空いた。
次の言葉で、私の背筋が凍る。
「でも、未来のパパは……人を殴るの」
紬の腕には。
薄く、古い痣のような跡が残っていた。




