夫の不倫
「真白、話がある」
夫の蓮がそう言った瞬間、嫌な予感がした。
結婚して五年。
蓮は芸能事務所でマネージャーをしている。担当しているのは、今一番勢いのある女性アイドルグループ『Milky Crown』。
その中でも絶対的センターと呼ばれている星乃ゆめは、テレビをつければ必ずどこかに映っているような子だった。
白い肌に、大きな瞳。
ふわふわした声。
清純派。
努力家。
ファン想い。
世間は彼女をそう呼んでいた。
私も、最初はそう思っていた。
蓮が彼女の担当になったと聞いた時、素直にすごいと思った。
「大変だと思うけど、頑張ってね」
そう笑って送り出していた。
帰りが遅くなっても、休日がなくなっても、深夜に電話が鳴っても、私は文句を言わなかった。
蓮の仕事を理解している妻でいたかった。
それに、私たちはずっと不妊治療をしていた。
何度も期待して、何度も落ち込んで。
病院の帰り道、駅のトイレでひとり泣いた日もある。
蓮はそんな私の背中を撫でてくれた。
「焦らなくていいよ」
「俺は真白がいればいい」
その言葉を、私は信じていた。
信じていたのに。
その夜、蓮はリビングのテーブルに一枚の紙を置いた。
離婚届だった。
一瞬、何が書かれているのか理解できなかった。
「……なに、これ」
声が震えた。
蓮は私から目を逸らさなかった。
その目が、妙に冷たかった。
「離婚してほしい」
胸の奥が、ぎゅっと潰れた。
「なんで……?」
蓮は小さく息を吐いた。
まるで、面倒な説明をするみたいに。
「子どもができた」
「……え?」
「俺の子ども」
時間が止まった気がした。
私たちは、五年間できなかった。
あんなに通院して、薬を飲んで、検査して。
痛い思いもした。
毎月、期待しては落ち込んだ。
それなのに、蓮は今、私ではない誰かとの子どもを告げている。
「相手は誰なの」
聞きたくなかった。
でも聞かずにはいられなかった。
蓮は少しだけ黙ったあと、はっきりと言った。
「星乃ゆめ」
頭の中が真っ白になった。
星乃ゆめ。
テレビの中で笑っていた、あの子。
『恋愛なんてしたことないです。ファンのみなさんが恋人です』
そう言って、恥ずかしそうに笑っていたあの子。
その子が。
私の夫の子を妊娠した。
「嘘……だよね?」
「嘘じゃない」
「いつから?」
「……半年前」
半年前。
私が三度目の治療に失敗して、家で泣いていた頃だ。
蓮は私の背中を撫でていた。
優しい声で言っていた。
「次があるよ」と。
その手で、別の女を抱いていた。
吐き気がした。
「どうして……」
「真白とは、もう無理だと思った」
蓮の声は静かだった。
静かすぎて、余計に残酷だった。
「何年頑張ってもできなかった。でも、ゆめは俺の子を妊娠した」
「それ、本気で言ってるの?」
「俺も父親になりたいんだ」
その言葉で、私は完全に壊れた。
私だって母親になりたかった。
蓮との子どもが欲しかった。
そのために、何度も痛みに耐えた。
なのに蓮は、私だけが失敗したみたいに言った。
私だけが、欠けているみたいに。
「私が悪いってこと?」
「そうは言ってない」
「言ってるよ」
涙が勝手に落ちた。
「私が産めないから、他の女に行ったって言ってる」
蓮は黙った。
否定しなかった。
その沈黙が答えだった。
その時、蓮のスマホが光った。
テーブルの上。
画面に表示された名前を、私は見てしまった。
星乃ゆめ。
そしてメッセージ。
『奥さん、ちゃんと納得してくれた? 赤ちゃんのためにも早くしてね♡』
心が凍った。
蓮が慌ててスマホを伏せる。
でも、もう遅かった。
「……納得?」
私は笑った。
自分でも怖いくらい、乾いた笑いだった。
「私、あなたたちの中ではもう処理済みなんだ」
「真白」
「邪魔者なんだね」
蓮は眉をひそめた。
「そんな言い方するなよ」
「そんなことしてるのはそっちでしょ!」
初めて大きな声を出した。
でも蓮は怯まなかった。
むしろ、面倒そうに目を細めた。
「ゆめは不安定なんだ。妊娠初期だし、仕事もある。これ以上揉めたくない」
「私の気持ちは?」
「だから、ちゃんと話してる」
「ちゃんと?」
手が震える。
「不倫して、妊娠させて、離婚届出して、相手の女に急かされて。それのどこがちゃんとなの?」
「慰謝料は払う」
「お金の話じゃない!」
叫んだ瞬間、蓮の顔が歪んだ。
「じゃあどうしたらいいんだよ!」
初めて蓮も声を荒げた。
「もう子どもはできたんだよ! ゆめのお腹にいるんだよ!」
私は何も言えなくなった。
蓮は、もう私を見ていなかった。
見ているのは、星乃ゆめと、そのお腹の子。
私と過ごした五年は、もう蓮の中で過去になっていた。
「今日はホテルに泊まる」
蓮は立ち上がった。
「数日中に署名して。弁護士からも連絡させる」
「待って」
私は思わず蓮の腕を掴んだ。
「蓮、本当に行くの?」
蓮は私の手を見下ろした。
そして、ゆっくり外した。
「ごめん」
その言葉は、謝罪じゃなかった。
別れの合図だった。
玄関のドアが閉まる音がした。
私はしばらく、その場から動けなかった。
テレビもつけていない部屋に、雨の音だけが響いていた。
テーブルの上には離婚届。
その横には、私たちの結婚写真。
五年前の私は、白いドレスを着て笑っていた。
蓮も笑っていた。
幸せそうだった。
あの笑顔も、嘘だったのだろうか。
私は写真立てを手に取った。
蓮の顔を見ているうちに、涙が止まらなくなった。
苦しくて、息ができなかった。
どうして私じゃなかったの。
どうして守ってくれなかったの。
どうして、あの子だけが母親になれるの。
気づけば、床に座り込んでいた。
スマホには、星乃ゆめのニュースが流れていた。
『星乃ゆめ、初の単独CM決定! 清純派アイドルの頂点へ』
画面の中の彼女は、白いワンピースで笑っていた。
「みんなに幸せを届けたいです」
その言葉を聞いた瞬間、スマホを投げそうになった。
誰かの幸せを踏み潰しておいて。
私の人生を壊しておいて。
よくそんな顔で笑える。
その夜、私は何度も離婚届を見た。
名前を書く欄。
そこにペンを置くだけで、全部終わる。
蓮との五年も。
私が母親になりたかった夢も。
何もかも。
もう、生きている意味が分からなかった。
どこにも行き場がなかった。
雨は強くなるばかりだった。
その時だった。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
蓮が戻ってきたのかと思った。
心臓が跳ねた。
でも、画面に映っていたのは蓮ではなかった。
小さな女の子だった。
小学生くらい。
髪も服も雨で濡れている。
白いワンピース。
手には、古びた写真のようなものを握っていた。
こんな時間に、子どもが一人で?
私は慌てて玄関へ向かった。
ドアを開けると、冷たい雨風が吹き込んできた。
女の子は顔を上げた。
大きな瞳。
青白い顔。
震える唇。
その子は私を見た瞬間、泣きそうに顔を歪めた。
「……やっと会えた」
私は戸惑った。
「あなた、誰? お母さんは?」
女の子は答えなかった。
代わりに、私の手をぎゅっと握った。
小さな手は、氷みたいに冷たかった。
「ママ」
私は息を止めた。
「え?」
女の子の目から、大粒の涙がこぼれた。
「ママ、お願い」
雨の音が遠くなる。
女の子は震えながら、必死に私を見つめていた。
「今度こそ、死なないで」
私は子どもを産んだことなんてない。
母親になれなかった。
それなのに、その子は確かに私を見て泣いていた。
まるで、ずっと探していた母親に会えたみたいに。
「ママ……」
その声は、胸の奥をえぐるほど切実だった。
「私、未来から来たの」
女の子はそう言って、濡れた写真を差し出した。
そこには、少し年を取った私が写っていた。
そして隣には、今目の前にいるこの子。
写真の裏には、震える字でこう書かれていた。
『ママが死んだ日』
私の手から、写真が滑り落ちた。




