警察を呼べなかった理由
「未来で、ママが警察呼べなかった理由」
紬の目には涙が浮かんでいた。
小さな肩が震えている。
──ドン!!
また玄関が揺れた。
私は思わず身をすくめる。
蓮の声が低く響く。
「真白、いい加減にしろ」
知らない声だった。
こんな声、聞いたことない。
五年間、一緒にいたのに。
怒鳴られたことなんてなかった。
怖い。
でも。
もっと怖いのは。
この人が、もう私の知ってる蓮じゃないこと。
「ママ」
紬が私の服を掴む。
震えていた。
「警察……呼んで」
私ははっとする。
そうだ。
警察。
今なら。
まだ間に合う。
でも。
その瞬間。
ドアの向こうから、蓮の声。
まるで心を読んだみたいに。
「警察とか呼ぶなよ」
空気が凍った。
私は息を止める。
なんで。
どうして分かったの?
「ゆめ、妊娠してんだぞ」
蓮の声が低い。
苛立ちが混ざる。
「騒ぎになったらどうすんだよ」
私は唇を噛む。
また、それ。
ゆめ。
赤ちゃん。
私の気持ちは?
何もないの?
「真白」
少し間。
蓮の声が変わる。
低くて。
妙に静かで。
怖かった。
「もし警察呼んだら」
心臓が嫌な音を立てる。
次の言葉を、聞きたくない。
でも。
聞こえてしまった。
「お前がゆめ追い詰めたって話、全部出すから」
呼吸が止まる。
「は……?」
「録音ある」
頭が真っ白になる。
録音。
やっぱり。
最初から。
全部。
「お前、さっき怒鳴っただろ」
蓮の声。
冷たい。
「妊婦相手に」
吐き気がした。
怒鳴った?
誰のせい?
誰がここまでした?
でも。
世間は違う。
一般人の妻。
人気アイドル。
信じられるのはどっち?
答えなんて分かってる。
紬が、ぎゅっと私の手を握る。
「……これ」
小さな声。
震えている。
「未来で、ママが警察呼べなかった理由」
私は紬を見る。
紬の目に涙が溜まっていた。
「怖かったの」
「……」
「悪者にされるの」
胸が締め付けられる。
未来の私。
一人だった。
怖かったよね。
誰も味方いなくて。
悪者にされて。
追い詰められて。
それで──死んだ。
私は深呼吸した。
怖い。
本当に怖い。
でも。
今は一人じゃない。
証拠もある。
録音もある。
紬もいる。
私は震える指でスマホを開いた。
そして。
警察ではなく。
別の番号を検索する。
「……ママ?」
紬が不安そうに見る。
私は小さく息を吐いた。
「警察じゃない」
ドン!!
また玄関が揺れる。
蓮の声。
「真白!!」
私は無視した。
そして。
検索履歴。
──弁護士。
離婚。
不倫。
慰謝料。
今までの私なら。
怖くて無理だった。
でも。
もう戻れない。
私は一番上に出てきた法律事務所へ電話をかけた。
夜間相談。
コール音。
その時だった。
ドアの向こうで。
ゆめの声が聞こえた。
小さい。
泣いてる声。
「蓮さん……もういいです」
弱々しい声。
でも。
次の瞬間。
私だけに聞こえるくらい小さな声。
ドア越し。
笑っているみたいな声で。
「どうせ誰も信じませんよ」
鳥肌が立った。
でも。
同時に。
何かが変わった。
怖い。
だけど。
怒りの方が勝った。
その時。
電話が繋がる。
『夜間法律相談です』
私は息を吸った。
そして。
玄関を睨みながら、初めて言った。
「夫の不倫と脅迫の相談をしたいです」
ドアの向こうが、一瞬静かになった。




