第9話 帝都という名の迷宮
帝都は、外から見るより複雑だった。
城門をくぐった先に広がるのは、一つの街ではなかった。層があった。中心部に近づくほど建物が高くなり、石の質が変わり、通りの幅が広くなる。魔道灯の密度が増す。行き交う人の服が変わる。外縁部から中心部まで歩けば、別の街をみっつ通り抜けるような感覚だった。
外縁部の通りは狭かった。
石畳が不均一で、雨水の跡が溝を作っていた。露店が軒を連ね、野菜と金属と何かの焦げた匂いが重なっていた。魔道灯は少ない。夕方になれば暗くなる通りだと分かった。
「ここは、慣れるのに時間がかかりそうですね」
外縁部の交差点に立ちながら、クラリスは小さく言った。誰かに向けたわけではなかった。
目録が視界の端にある。帝都に入ってから、輪郭の鮮明さが全体的に増した気がした。魔素の濃度が街道より高い。充填の速度が上がっている可能性があった。
帝都に入ってから半日が経っていた。
先程の路地で消えた人物を、クラリスはあれから3度、頭の中で探した。追わなかった。追えなかったのではなく、追う判断をしなかった。しかし帝都の路地を歩くたびに、あの視線の角度と、人混みに溶けた背中の輪郭が浮かんだ。
懐中時計の位置を見た。
それだけ確かめて、次の路地を見た。
人の流れは多い。シスター服は帝都の外縁部でも目立たない。目立たない程度には修道女が存在する街だった。クラリッサの記憶の中の帝都にも、外縁部に教会があった。場所が変わっているかもしれないが、方角は同じはずだった。
外縁部の通りを歩きながら、変化と変わらなさが交互に来た。
クラリッサの記憶の中の外縁部は、もう少し均一だった。貧しさはあった。しかし今のような断絶はなかった。魔力のある者とない者が、同じ通りを歩いていた。今は違う。魔道灯が届く区画と届かない区画の境界が、そのまま人の質の境界になっていた。
角を曲がった先で、男が倒れていた。
老人だった。荷物を持ったまま、路地の端に座り込んでいた。周囲の人間は通り過ぎた。クラリスはしゃがんだ。息はある。水が切れていると分かった。荷物の中に水袋がある。中身は空だった。
クラリスは自分の水袋を出した。
老人が目を開けた。クラリスのシスター服を見た。何か言いかけた。
「飲めますか?」
老人は頷いた。水を飲んだ。しばらくしてから、立ち上がった。礼を言って、人混みの中に消えた。
クラリスは水袋を仕舞いながら立ち上がった。
セラが隣に立っていた。老人が消えた方向を見ていた。
教会は外縁部の中ほどにあった。
クラリッサの記憶より少し南に移っていたが、丘の見え方が同じだったから探すのに時間はかからなかった。石造りの建物。扉が開いている。中から低い祈りの声が聞こえた。
中に入ると、修道女が二人、礼拝堂の掃除をしていた。
一人が顔を上げた。四十代くらい。日焼けした顔に、疲れが滲んでいた。
「焼け出された方ですか?」
「はい。街道を経由してきました」
「お一人ですか?」
「子供と二人です」
修道女が視線をセラに移した。セラは視線を外さなかった。修道女が少し表情を緩めた。
「部屋が一つ空いています。食事も出せます。しばらくであれば」
「ありがとうございます」
案内されながら、クラリスは礼拝堂の中を確認した。信者が数人。修道女が三人。神父らしき老人が一人。全員の位置と動きを視界の端で処理した。目録の輪郭は変わらない。特に反応する魔素の動きはなかった。
部屋に荷物を置いてから、クラリスは修道女に話しかけた。
夕食の準備を手伝う形で、台所に入った。修道女は最初、遠慮するよう言ったが、クラリスが手を動かし始めると止めなかった。
「北の方は、今も戦闘が続いているのですか?」
「帝都まで難民が増えていますから。続いているのでしょう」
「帝都の中の治安は?」
修道女が少し間を置いた。
「悪くはありません。ただ、帝国軍の巡回が増えました。特に中心部の方は」
「魔法士も?」
「そちらは分かりません。外縁部には来ませんから」
クラリスは野菜を刻みながら、情報を整理した。中心部の警戒が増している。外縁部への影響はまだ薄い。密偵が届けた情報が使われるとすれば、中心部の方から動く可能性が高い。
「北の街道で、妙な噂を聞きました」と修道女が続けた。「シスター服を着た、魔法使いでない何かが出ると」
クラリスは野菜を刻む手を止めなかった。
「妙な噂ですね」
「ええ。でも難民の方たちはみなさん、口を揃えて。見た人は助かって、見なかった人は……」
修道女は少し声を落とした。言い終わらなかった。
クラリスは次の野菜を取った。
夕食の後、礼拝堂に戻ると、見知らぬ人物が扉の近くに立っていた。
三十代の男。修道服を着ていた。礼拝堂に入ろうとして、クラリスと目が合った。
穏やかに笑った。
「焼け出された方ですか? 大変でしたね」
「はい、おかげさまで落ち着きました」
男がクラリスのシスター服を見た。次に、顔を見た。
「どちらからいらっしゃいましたか?」
「北の方の、小さな街です。もう残っていませんが」
「そうですか」男が頷いた。「この教会は安全ですから、ゆっくりしていってください」
安全、という言葉が一拍遅れて耳に残った。
何を根拠に言ったのか。焼け出された者に対して安全だと保証する理由が、この男にはあるのか。クラリスはその一点を頭の中に置きながら、穏やかに頷き返した。
「ありがとうございます」
男は礼拝堂の奥へ歩いていった。クラリスは男の背中を、視野の外れで追った。
最初の教会でP90を見て驚かなかった男とは、体格が違う。別の人物だった。しかし同じ何かがあった。確認しようとしている。何かを確かめようとしている動き方だった。言葉の内容ではなく、視線の置き方が。
クラリスは言動に出さなかった。
ただ、その感覚だけを持ったまま、廊下に戻った。
セラが部屋の前で待っていた。
部屋に入ると、セラは窓際に座った。外を見た。帝都の外縁部の夜が広がっていた。遠くに中心部の魔道灯の光が見えた。外縁部には届かない光だった。
しばらくして、通りで声がした。
子供の声だった。何か言っている。笑っている声ではなかった。
「石ころが歩いてる」
もう一人の声が続いた。
「魔力もないのに帝都に来るな」
セラの肩が、わずかに動いた。
窓の外を見たまま、動かなくなった。
クラリスはセラの横顔を見た。何か言うことを考えた。考えながら、何を言うべきかが出てこなかった。石ころという言葉の意味を、セラは今日初めて肌で受け取った。この帝都で魔力のない者がどう扱われるかを、通りの子供の声で知った。
外の声が遠ざかった。
セラはまだ窓の外を見ていた。
クラリスは何も言わなかった。ただ、セラの隣に腰を下ろした。
夜が深くなった。
セラが目を閉じた。呼吸が静かになった。
クラリスは壁に背中を預けたまま、資料のことを考えた。懐中時計のことを考えた。今日接触した男のことを考えた。密偵がまだ帝都のどこかにいることを考えた。
懐中時計を、取り出した。
手の平に乗せた。銀の蓋の表面が、部屋の薄暗い灯りを拾っていた。
親指が蓋を開いた。
秒針が動いている。紋章がある。その下に、細い文字ではない何かがある。文字とも図とも言えない、流れるような線が蓋の内側に刻まれていた。ヴァルシュタイン家の屋敷で「次に目覚める者へ オスカー・フォン・ヴァルシュタイン」と読んだのは、その文字の上の層だった。その下に、別の層がある。
魔法文字だとクラリッサの記憶が言った。
読み方の、記憶は持っていなかった。
クラリスは指先でその線をなぞった。流れに沿って。始まりから終わりへ。一周して、また始まりへ。線は螺旋のようでもあり、連なった文字のようでもあった。
まだ読めない。
指先だけが、その線の形を覚えた。
蓋を閉じなかった。開いたまま、手の中に持っていた。
帝都の夜が、窓の外で光っていた。




