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銃弾と祈りのシスター  作者: 猫じゃらし
第2章 死神のシスター
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第10話 密偵の値段

 朝が来る前に、クラリスは動いていた。


 教会の廊下は静かだった。修道女たちはまだ眠っている。セラに一言残してきた。戻るまで部屋にいるように、と。セラはうなずいた。それだけで十分だった。


 外に出ると、空気が冷たかった。帝都の夜明け前は、街道の野営より冷える。石畳が熱を持たないからだと理沙の思考回路が処理した。


 密偵を探した。



 見つけるのに時間はかからなかった。


 外縁部の東の路地。クラリスが昨日の午後に確認した動線上に、見覚えのある背中があった。荷物を持っている。商人に見せかけた格好だが、荷物の持ち方が違う。重さを確かめない。荷物は見せかけだと分かった。


 距離を保って、ついた。


 密偵は一度だけ振り返った。路地を見た。人影がないことを確認した。クラリスは軒の影に入っていた。見えなかったはずだった。密偵は歩き続けた。


 中心部へ向かっている。


 外縁部から中心部へ近づくほど、石畳の質が変わった。魔道灯の密度が増した。行き交う人の数が増えた。クラリスはシスター服のまま人の流れに入り、距離を保ちながら尾行した。シスター服はこの街で目立たない。目立たないことが、今は有利だった。


 密偵が角を曲がった。


 クラリスも曲がった。


 三つ目の路地を抜けたところで、密偵が建物の前で立ち止まった。石造りの建物。商会の看板が出ている。帝都の中心部に近い場所にしては、地味な外観だった。密偵が扉を二度、叩いた。間を置いて、一度。暗号めいた叩き方だった。


 扉が開いた。


 密偵が中に入った。


 扉が閉まった。



 クラリスは路地の影から建物を見た。


 三階建て。窓が少ない。商会の看板の文字は「アルダー商会」。クラリッサの記憶の中に、その名前はなかった。100年前には存在しなかったか、あるいは別の名前だったか。建物の構造を視界の端で処理した。入り口は正面の一か所。裏に通路がある可能性がある。


 中には入らなかった。


 入る必要はまだない。今ここで動けば、密偵がクラリスの存在に気づいた報告をした後か前かも分からなくなる。建物の場所は分かった。それで十分だった。


 「捕まえることより」と頭の中で言葉を並べた。「この人物が何を伝えたかを知る方が、いまは有益です」


 クラリッサの記憶が静かに重なった。


 侯爵家の書斎で、父が言っていた言葉がある。「情報とは、持っている者が使うものではなく、流れている方向を見るものだ」。幼いクラリッサには意味が半分しか分からなかった。今は分かった。密偵は駒だ。駒を取ることより、駒が動く方向を見ることの方が、盤面が見える。


 建物の前を離れた。



 帝国軍の巡回は、昨日より増えていた。


 朝の外縁部の路地で、二度、巡回の一団と行き違った。鎧の音がする前に、魔素の気配が来た。目録の中で輪郭がわずかに鮮明になる感触があった。充填の速度ではなく、警戒の反応だった。


 巡回の魔法士は三名に一人の割合で混じっていた。詠唱の準備をしていない。ただ歩いている。しかし魔素の気配が常に薄く漂っていた。常時展開型の探知魔法だと理沙の思考回路が判断した。範囲は狭い。精度は低い。しかし数が多ければ網になる。


 略奪者の魔法使いとは質が違う。練度がある。


 その一点だけを頭に収めて、クラリスは市場へ向かった。



 外縁部の市場は朝から動いていた。


 野菜、布、鍛冶の道具、薬草。露店が連なり、人の声が重なっている。クラリスは食料を補充しながら、会話の断片を拾った。意図して聞くのではなく、流れの中に耳を置く。


 最初に聞こえたのは、老いた女の声だった。


 「北の街道に出るというじゃないか。死の霧とやら」


 隣の男が応じた。


 「霧じゃない。悪魔だ。修道服を着た、魔法も効かない悪魔が出るって話だ。見た者は助かるが、見なかった者は」


 「何故、修道服なんだ?」


 「さあ。神に仕える振りをして魂を刈り取るからじゃないか」


 クラリスは次の露店へ移った。


 薬草を手に取りながら、別の会話を拾った。


 「北の難民が持ち込んだ噂だろう」


 「違う、帝都の兵士も言っていた。シスター服の女が出た、と。撃ったが当たらなかった、と」


 「魔法が当たらないはずがない」


 「だから悪魔だと言っている」


 クラリスは薬草の代金を払った。


 市場を出た。



 教会に戻ると、セラが部屋の窓際に座っていた。膝を抱えて、外を見ていた。クラリスが入ってきたのに気づくと、顔だけ向けた。


 クラリスは荷物を置いてから、壁に背中を預けた。


 「噂というのは、育てた者の意図をそのまま映すものですね」


 セラが少し首を傾けた。


 「帝都まで届いていました。悪魔と死の霧」クラリスは続けた。「悪魔という言葉を選んだ者がいる。偶然ではありません」


 セラは少し間を置いた。


 「こわくないんですか」


 クラリスは窓の外を見た。


 「慣れましたので」


 一拍置いてから、水袋の残量を確かめた。



 午後になってから、クラリスは再び外に出た。


 密偵が入った建物の前を、もう一度通っておきたかった。遠回りになるが、確認したかった。


 建物は昼の光の中で変わらずそこにあった。アルダー商会の看板。窓に人影はない。通りを行き交う人の中に、建物を意識している者はいないように見えた。


 その時、何かが引っかかった。


 路地の入り口の近く、人の流れの少し外れに、背の高い人影があった。建物を見ていた。目が合いそうになった。


 人影が視線を外した。


 人の流れに入った。


 この間の路地で懐中時計に反応した人物だとクラリスは思った。体格が近い。立ち方が近い。しかし顔は見えなかった。人混みに紛れるのが速かった。


 クラリスは追わなかった。


 胸元が、重かった。



 午後になってから、密偵が建物から出てきた。


 クラリスは路地の影で待っていた。一時間以上、そこにいた。動かなかった。シスター服のまま壁に背中をつけて、ただ待った。


 密偵が出てきた。


 昼の光の中を、商人の格好のまま歩いていく。荷物の持ち方は変わらない。来た時と同じ動き方だった。受け渡しは終わった。情報は組織に渡った。密偵の仕事は終わっている。


 背中を見ていた。


 追わなかった。


 「アルダー商会」という名前と、建物の位置と、密偵が叩いた扉の音の間隔が、頭の中に収まっていた。


 場所は覚えた。

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