第36話 大和、最後の一撃
クラリスの背中が見えた。
セラは耳栓を両手で押さえながら、その背中を見ていた。
シスター服の背中だった。黒かった。風が来て、裾が少し動いた。それ以外は動いていなかった。石のように静止していた。右腕の先に、黒い板の輪郭が滲み出していた。まだ形が定まっていなかった。揺れていた。
3キロ走った。
セラの足はまだ動いていたが、感覚が薄かった。石混じりの地面を走り続けた足の裏が、じんじんとしていた。息が整ってきたのはつい今しがただった。
荒野の向こうに、男が見えた。
遠かった。小さかった。しかし確かにこちらへ向かっていた。歩いていた。
クラリスは動かなかった。
右腕の黒い板が、少しずつ形を持ち始めていた。
セラには分からなかった。何が起きているのか。ただ、クラリスが今完全に無防備だということだけが分かった。後ろからでも横からでも、何かが来たら。
気配があった。
右側だった。
荒野の草もない地面に、影が動いた。人の影だった。修道院の方向ではなかった。ローブを着て剣を持っていた。
クラリスに向かっていた。
セラは考えなかった。
走った。
魔力ゼロで。理由も計算もなく。ただ、クラリスの前に立った。
魔法だ。剣を持ちながら詠唱していた。放たれた魔法がセラの左肩に当たった。
地面に倒れた。
クラリスは音で気づいた。
倒れる音だった。
右腕の感覚が揺れた。召喚の精度が乱れた。乱れた、という感覚が走った瞬間に。
三層が、ざわついた。
クラリッサの感情が動いた。理沙の計算が止まりかけた。クラリスの意志が揺れた。
三層全てが、セラへ傾いた。
セラ、という言葉が、声にならないまま内側を通った。
収まった。
ざわついた波が来て、引いた。引いた後に残ったのは、静かな判断だった。
今、できることを。
右腕の感覚を取り戻した。召喚の精度を戻した。左手でP90を取り出す。出しっぱなしだった。召喚は必要ない。
刺客が次の詠唱に入っていた。
左手のP90を向けた。引き金を引いた。
詠唱が止まり刺客が崩れた。
右腕の感覚がまた定まった。
召喚を続けた。
セラが倒れている場所を、視界の端に置いた。
動いていた。完全には倒れていなかった。左肩を右手で押さえながら、地面に膝をついていた。致命傷ではなかった。
今は、それで十分だった。
荒野の向こうに男がいた。まだ歩いていた。距離が縮まってくる。しかしまだ3キロ圏内には入っていなかった。
左手のP90を収めた。
双眼鏡を取り出し目に当てる。
男を確認した。
距離——3.1キロ。
方角——北北東、2度の誤差。
理沙の計算が走った。砲弾初速780メートル毎秒。砲弾重量1460キログラム。風速と風向。目標の移動速度と方向。着弾予測点の導出。
右腕の黒い板に、数値が入力された。意識してではなかった。計算が終わった瞬間に、手が動いていた。
「0.02秒の誤差も、許しません」
声に出ていた。気づかなかった。理沙の言葉だ。最期の言葉と同じ言葉が、今この荒野で零れた。
セラを確認した。
膝をついたまま、耳栓を押さえていた。こちらを見ていた。目が合った。
セラが頷いた。
クラリスは前を向いた。
召喚が完了した。
46センチ砲が、荒野の空気に根を張った。黒い板の座標が確定していた。
発射。
砲口から、火柱が吐き出された。
直径46センチの白煙が空へ向かった。衝撃波が荒野の地面を叩いた。クラリスのいる位置まで、くぐもった重低音が来た。足の裏から地面の振動が伝わった。
沈黙が来た。
荒野が静かになった。
男はまだ歩いていた。こちらへ向かっていた。何が来るか知らなかった。音速を超えた砲弾は、探知魔法にも引っかからない。
3秒。
3.85秒。
爆音が来た。
腹に響く爆裂音だった。3キロの距離だ。耳栓越しでも圧が来た。地面が小刻みに震えた。荒野の土埃が舞い上がった。爆風がかすかに届いた。シスター服の裾が揺れた。
男がいた場所に煙が上がった。
煙が収まるまでクラリスは動かなかった。
双眼鏡で確認した。
煙の中に何もなかった。
1460キログラムの砲弾が直撃していた。どんな結界も運動エネルギーは防げない。100年以上の不死が砲弾の前に崩れ去った。
46cm三連装砲が収束する。右腕の重さが消えた。
懐中時計を左手に握ったままだった。親指で蓋を閉じた。
胸元に戻した。
振り返る。
歩いた。
走らなかった。ただ、歩いた。
セラが地面に膝をついていた。左肩を押さえていた。クラリスが近づく足音を聞いて、顔を上げた。
クラリスは膝をついた。
地面に膝をついた姿勢で、セラと目線を合わせた。
初めて会った時と同じ姿勢だった。硝煙の中で、震えているセラと初めて目線を合わせた時と同じ姿勢。
「怪我はありませんか?」
まったく同じ第一声だった。
セラが目を開けた。
薄緑の瞳がクラリスを見た。
少しの間があった。
「……クラリス様」
「はい」
「終わりましたか?」
クラリスはセラを見た。左肩を押さえた手に、血がにじんでいた。痛いはずだ。それでもセラは聞いた。自分のことより先に聞いた。
「はい」
クラリスは答えた。
「終わりました」
荒野に煙が残っていた。
朝の光の中で、煙が細くなっていった。




