第33話 決戦前夜
宿に戻ったのは夜明け近かった。
セラが部屋で待っていた。眠っていなかった。窓の近くに座って、膝を抱えていた。クラリスが扉を開けた瞬間に顔を上げた。クラリスを見た。それから、クラリスの後ろを見た。
「リードさんは?」
「別の部屋です。先に戻りました」
セラが頷いた。膝を抱えたままだった。
「なんか」
セラが窓の外を見た。
「全部こっちに向いてる感じがします」
クラリスはセラの言葉を聞いた。聞いて、少しの間置いた。今夜修道院の中で感じた気配と、セラの言葉が同じ方向を指していた。
「分かりました」
椅子に座った。
今夜は眠れないかもしれない、とは思わなかった。ただ、やることがあった。
翌朝、リードが部屋に来た。
昨夜の修道院のことを話した。黒幕との接触のこと。「鍵を回収せよ」という文書のこと。セラが狙われている可能性のこと。リードは黙って聞いた。途中で一度だけ、右手が机の端に触れた。力は入っていなかった。ただ触れた。
「王国軍に連絡を取ります」
リードは言った。
「援護はできます。しかし」
「修道院の中には入れない」
クラリスが先に言った。リードが頷いた。
「それで構いません。外を固めていただければ」
「いつ動くつもりですか?」
「今夜です」
リードがクラリスを見た。それからセラを見た。セラは正面を向いていた。
「……分かりました」
リードが立った。扉を出た。
部屋に2人が残った。
昼のうちに、クラリスは一人で目録を確認した。
セラが外に出ている間だった。食料を買いに行くと言って出た。クラリスは椅子に座ったまま、視界の端に常に薄く広がっている目録を、正面から見た。
平時は全体を薄く確認するだけだった。今日は違った。1つずつ確かめた。
P90。輪郭が鮮明だった。使用可能。
グロック17。同じく鮮明だった。使用可能。
バレットM82A1。輪郭に揺らぎがなかった。使用可能。
M134ミニガン。充填が完了していた。これまでの戦闘で蓄積した魔素が満ちていた。使用可能。
46cm三連装砲。
輪郭があった。ただ、まだ薄かった。グレーアウトに近い状態から、少しずつ鮮明さが増している途中だった。魔素充填中。待機状態。今夜、中核の高位魔法使いたちと戦えば、充填が一気に進む可能性がある。しかし今この瞬間は、まだ使えない。
最後の1つは、まだ待機状態だった。
クラリスは目録から視線を戻した。
窓の外に昼の光があった。
夕方になった。
3人で食事を取った。食堂に他の客がいた。戦況の話をしている声が聞こえた。帝国と王国の境界で動きがあった、という話だった。クラリスはその声を聞きながら、パンをちぎった。今夜のことだけを考えた。
食事が終わった。
リードが「少し準備があります」と言って席を立った。
セラとクラリスが部屋に戻った。
部屋が静かだった。
夜になっていた。通りの音が遠かった。蝋燭ではなく、宿が用意した小さな油皿が1つ、机の上にあった。その明かりだけが部屋にあった。
セラがベッドの端に腰を下ろした。
クラリスは椅子に座っていた。
少しの間、どちらも何も言わなかった。
「クラリス様」
セラが言った。
「怖くないんですか?」
クラリスは少しの間考えた。考えながら、セラを見た。セラは真っ直ぐこちらを見ていた。緑の瞳に油皿の明かりが映っていた。
「怖いという感覚がどういうものか、少し分からなくなっています」
セラが少し間を置いた。
「それはたぶん、怖いってことだと思います」
クラリスは返答を探した。
見つからなかった。
見つからないまま、何かが動いた。胸の奥ではなく、顔の表面に近い場所で。口の端が、ほんのわずかに動いた。笑い、と呼ぶには小さすぎた。しかし確かに動いた。
セラがそれを見た。
「クラリス様、今」
「はい」
「笑いましたか?」
「……少し」
セラが目を丸くした。それからセラも、口の端が動いた。
部屋に静けさが戻った。戻った静けさは、さっきとは少し違う質だった。
「セラ」
しばらくして、クラリスが言った。
「今夜は、よく眠っておいてください」
セラが頷いた。布を引いた。ベッドに入った。
クラリスは椅子に座ったままだった。
セラの呼吸が少しずつ深くなるのを聞きながら、クラリッサの記憶が動いた。
100年前の朝だった。
処刑の朝。空が白かった。引き立てられる前に、クラリッサは自分に言い聞かせた言葉があった。声には出なかった。口の中だけで動いた言葉だった。
泣かない。震えない。俯かない。
あの朝と今夜の自分が重なった。重なった、という感覚は正確ではなかった。同じ夜の前に立っている、という感覚の方が近かった。何かが終わる前の夜。動けなくなる前の静けさ。
しかし今夜は違った。
あの朝、クラリッサの隣には誰もいなかった。
今夜は、セラがいた。
セラの呼吸が聞こえた。規則的だった。眠っていた。
クラリスは懐中時計を取り出した。
蓋を開いた。油皿の光が時計の内側に入った。魔法文字があった。螺旋状に刻まれた小さな文字を、全部読んだ。読み終えた。
蓋を閉じた。
胸元に戻した。
口が動いた。声は出なかった。
続きを、します。
クラリスは立った。
部屋の中を一度だけ見た。セラが眠っていた。油皿の明かりが机の上にあった。窓の外は暗かった。
椅子に戻った。
「わたしも、眠ります」
声に出た。セラには聞こえなかった。聞こえなくて良かった。
目を閉じた。
背中にP90の重さがあった。胸元に懐中時計があった。その重さが、いつもと同じ場所にあった。
深夜だった。
セラが隣で静かに呼吸していた。
クラリスの意識が薄くなった。薄くなりながら、何かが動いた。声ではなかった。言葉でもなかった。しかし確かに動いた。
続きを。
眠りの中で、声にならない言葉が、静かに動いた。




