第32話 頂点へ
夜明け前だった。
修道院の外壁が、暗い空に黒く立っていた。丘の上の輪郭だけが見えた。明かりが1か所。守衛だった。前回確認した位置より少し動いていた。ローテーションが変わっている。
クラリスは木立の縁で止まった。
セラが隣にいた。声を出さなかった。出さないまま、修道院の正門の方向を見た。セラの目が細くなった。
「右の回廊に、4人います」
息だけで言った。
「塔の上にも1人」
前回の潜入では気づかなかった配置だった。クラリスは修道院の輪郭を改めて確認した。右の回廊。塔。セラが示した方向に視線を向けた。明かりがない区画だった。人の気配は、目では確認できなかった。
「分かりました」
今夜の目的は前回と違った。証拠を確保すること。そして、不死の黒幕が動いた気配が、この場所に集まっている、それを確かめること。ヴィンセントからの急報に書いてあった「帝国側で大きな動きがある」という言葉が、この修道院の方向を指していると判断した根拠は2つあった。前回の潜入で発見した文書の保管場所。そして今夜、セラが宿を出る前から「なんか、引っ張られる感じがする」と言っていたこと。
「下がっていてください」
「一緒に行きます」
セラが言った。クラリスはセラを見た。セラは前を向いたままだった。
「察知できます。中の人の位置が」
「……分かりました」
「離れない」
「はい。それだけ守ってください」
2人で動いた。
裏手から入った。
前回使った扉は今夜も南京錠だった。同じ型だった。10秒かからなかった。廊下に入った。足音を殺した。
目録が視界の端で広がった。今夜は鮮明だった。P90の輪郭が最も明るかった。M134の輪郭が、その奥でまだ薄くあった。
右の回廊に向かった。
セラが2歩後ろを歩いた。廊下の角で止まった。右手を上げた。クラリスも止まった。セラが指を2本立てた。次に3本。また2本に戻した。配置が動いている、という意味だとクラリスは読んだ。
待った。
15秒ほどして、セラが手を下ろした。
曲がった。
回廊に出た瞬間、正面から2人が来た。詠唱が始まった。右の男だった。魔素を集める音が回廊に響いた。左の男が剣を引いた。
クラリスはP90を上げた。引き金を引いた。
連射音が回廊に反響した。2人が崩れた。詠唱が止まった。1節も終わっていなかった。
硝煙が細く漂った。廊下の奥から足音が来た。2人分だった。P90を向けた。足音の持ち主がまだ見えない位置で詠唱が重なった。2人同時だった。魔素が廊下の空気に混じり始めた。密度が変わった。その分、充填が速かった。
姿が見えた。引き金を引いた。
足音が止まった。
回廊が静かになった。
クラリスは4人の前で膝をついた。目を閉じた。短く祈った。立った。
セラが「4人、消えました」と言った。声が少し震えていた。震えながらも、崩れていなかった。
奥の鍵のかかった部屋に向かった。
前回と同じ扉だった。帝国式の魔法錠。今夜も4分かかった。開けた。入った。
違った。
前回は棚に文書が整然と並んでいた。今夜は棚が動いていた。部屋の中央に向けて、棚が開いていた。棚の裏側に、もう1つ空間があった。前回の潜入では気づかなかった。
クラリスは棚の向こうを確認した。石造りの小部屋だった。窓がなかった。蝋燭が1本、机の上にあった。燃えていた。誰かがいた痕跡だった。机の上に文書が1枚、開かれたままになっていた。
読んだ。
日付があった。今日の日付だった。
「鍵は動いた。回収の準備をせよ」
それだけだった。
「鍵」という言葉が、目の中で止まった。セラを見た。セラは小部屋の入口に立っていた。文書を見ていた。読めない様子だったが、クラリスの表情を読んでいた。
「鍵、って」
「あなたのことだと思います」
セラが少しの間、黙った。
「狙われてるんですか、わたし」
「今夜、ここに来たのはそれを確認するためでもありました」
セラはもう一度文書を見た。それから、クラリスを見た。
「分かりました」
それ以上は言わなかった。
その時だった。
小部屋の空気が変わった。温度が変わったわけではなかった。音が変わったわけでもなかった。ただ、何かが空間の中に入ってきた、という感覚があった。
セラがクラリスのシスター服の袖を掴んだ。
「います」
「どこに?」
「部屋の中」
クラリスは小部屋を確認した。入口。棚の影。机の裏。どこにも人間の姿はなかった。蝋燭の炎が揺れた。風がないのに揺れた。
声がした。
「また、目覚めたのか」
男の声だった。低かった。場所が定まらなかった。部屋の壁から来るような、天井から来るような、床の下から来るような声だった。
クラリスはP90を構えた。
姿が現れた。蝋燭の明かりの中に、人間の形が立った。男だった。年齢が分からなかった。顔の造りは40代か50代に見えた。しかし目が違った。目だけが、この部屋の中で最も古いものに見えた。
クラリッサの記憶が動いた。100年前の帝国の宮廷の廊下だった。侯爵令嬢として生きていた頃に、遠くで一度だけ見た後ろ姿。その時の目は見ていなかった。しかし立ち方が、同じだった。
「あなたが、100年間この世界を動かしてきたのですね」
声に出た。断定だった。
男がクラリスを見た。確認するような目だった。
「ヴァルシュタインの娘か」
「そうです」
「死んだはずだった」
「はい」
「また目覚めた」
「はい」
クラリスはP90を下げなかった。男は武器を持っていなかった。しかし武器が必要な存在ではないと、目録が静かに示していた。
男が目を細めた。
「100年で何が変わったと思っている?」
「まだ、変わっていないのですね」
クラリスは答えた。
「あなたは100年前と同じことをしている。魔力ゼロの者が力を持つことを、今も消そうとしている」
男の表情が動いた。今度は違う動き方だった。何かが、奥の方で動いた、という動き方だった。
「消さなければ、秩序が終わる」
男は言った。
声に、何かが混じっていた。確信だった。しかし確信だけではなく、その下に、もっと古い何かが沈んでいた。クラリスにはそれが何かは分からなかった。分からないまま、男の声を聞いた。
「秩序が崩れれば、守れるものも守れなくなる」
守れるもの。
その言葉が、他の言葉と少しだけ質が違った。
「その秩序は、あなたが作ったものですか?」
男が答えなかった。
長い間があった。この対話の中で最も長い間だった。
「あなたが100年かけて守ってきたものを、私は100年かけて壊しに来ました」
蝋燭の炎が揺れた。
男がクラリスを見た。見続けた。それから、視線がセラに動いた。セラはクラリスの袖を握ったまま、男を見ていた。震えていなかった。目が真っ直ぐだった。
男がセラを見ている時間は、クラリスを見ていた時間より長かった。
男の輪郭が、薄くなり始めた。空気に溶けるように、形が曖昧になった。蝋燭の光が届かなくなった。声だけが残った。
「次に会う時が、最後になる」
声が消えた。
小部屋に2人だけが残った。蝋燭の炎が、また揺れた。
修道院を出た。
夜明けが近かった。空の端が、ほんの少しだけ白くなり始めていた。丘の下の木立まで戻った。
2人で立った。
クラリスは懐中時計を取り出した。蓋を開かなかった。ただ手の中で握った。シスター服の上からではなく、取り出して、そのまま握った。金属が手のひらに馴染んだ。
セラが空を見ていた。しばらくして、クラリスを見た。
「次で、終わりですか?」
クラリスは空を見た。白くなり始めた端が、少しずつ広がっていた。
「はい」
懐中時計を握ったまま、答えた。
「終わりにします」




