第30話 100年前の冤罪
朝になっていた。
文書館の夜間研究室を出る前に、クラリスは資料をもう一度確認した。昨夜、封印が部分的に解けた後で、読めるようになった箇所がいくつかあった。夜のうちに手元の紙に書き写していた。セラはまだ眠っていたが、クラリスが動いても起きなかった。
書き写した紙を、改めて読んだ。
その中に、一枚だけ、他の断片とは性質の違うものがあった。
研究の記録ではなかった。
読んだ。
2度読んだ。
折りたたんだ。
宿に戻ってから、リードに声をかけた。
「少し時間をいただけますか?」
リードは頷いた。セラに「少し外してもらえますか?」と言った。セラが頷いて、部屋を出た。
扉が閉まった。
クラリスは折りたたんだ紙を広げた。リードに差し出した。
「読んでください」
リードが受け取った。
読み始めた。
読みながら、リードの顔が変わった。感情の名前をつけられない変わり方だった。ただ、何かが固まっていくような顔だった。
読み終えた。
しばらく、何も言わなかった。
「差出人は?」
リードが紙を見たまま言った。
「オスカー・フォン・ヴァルシュタインです」
リードが顔を上げた。クラリスを見た。
「……処刑の、前夜に」
「はい」
窓から朝の光が入っていた。遠くでパンを焼く匂いがした。リードはまだ紙を持っていた。持ったまま、動かなかった。
クラリッサの記憶が動いたのは、紙を折りたたんだ後だった。
処刑の朝の記憶だった。
庭に引き出された。空が白かった。侯爵家の者たちが並んでいた。クラリッサは最後だった。引き立てられる前に、王太子の姿が見えた。遠かった。顔の表情までは見えなかった。見えなかったが、その立ち姿が、クラリッサの記憶の中に残っていた。
固い立ち方だった。
軍人のような姿勢ではなく、どこか強張った立ち方だった。処刑を命じた者の顔ではなかった、と記憶の中のクラリッサは、その時そう思っていなかった。今、初めてそう読んだ。
あの方も、知らなかった。
怒りは出なかった。
怒りが出ないことを、おかしいとも思わなかった。ただ、哀れみに近い何かが、記憶と一緒に静かに浮かんで、静かに沈んだ。
クラリスは窓の外を見た。
王都の朝の屋根が並んでいた。
午前のうちに、リードから情報が届いた。
王都郊外に、修道院がある。建物自体は古く、聖神国アイリスの信仰に基づく施設として記録されている。しかし人の出入りが通常の修道院とは合わない。王国の諜報が以前から注目していたが、確証がなかった。
「拠点の可能性があります」とリードは言った。
「確認しに行きます」
「一人でですか?」
「セラはここに」
クラリスはセラを見た。セラが顔を上げた。
「待っていてもらえますか?」
「……クラリス様は?」
「すぐ戻ります」
セラが何か言いかけて、止まった。止まってから、頷いた。
リードが「私も行きます」と言った。クラリスは少し考えてから、頷いた。
王都郊外の修道院は、街道から外れた丘の上にあった。
石造りの外壁。閉じた門。窓に明かりがない区画が多かった。しかし人の気配は確かにあった。煙が出ていた。複数の場所から、同じ時間帯に。修道院にしては多すぎる数だった。
クラリスは丘の下の木立から双眼鏡で建物全体を確認した。
「正面から入れる状態ではありませんね」
リードが横で頷いた。
「裏手に小さな扉があります。王国の諜報が確認しています」
「先に入ります。リードは外で」
「一人で?」
「見るだけです。倒しに行くわけではありません」
リードが表情を動かした。反論しようとして、しなかった。
「10分で戻らなければ、合図を」
「分かりました」
裏手の扉は南京錠がかかっていたが、古かった。
工具を使う必要もなかった。クラリッサの記憶が錠の構造を読んだ。細い針金を1本。10秒もかからなかった。
内部に入った。
廊下が続いていた。石床だった。足音を殺した。目録が視界の端で静かに広がった。P90の輪郭が鮮明になった。グロック17はすでに懐にある。
人の気配が右手の先にあった。
足を止めた。声が聞こえた。2人か3人だった。
廊下の角から確認した。ローブを着た人間が3人、別の扉の前に立っていた。武装していた。剣を帯びていた。しかし警備の立ち方ではなかった。話していた。顔に緊張がなかった。
クラリスは角を曲がらなかった。
左の別の廊下を選んだ。
奥へ進むにつれ、建物の構造が変わった。
修道院としての設えが薄くなった。礼拝の場所や祈祷室があるべき区画が、倉庫になっていた。文書の束が積んであった。封のされた木箱が並んでいた。
さらに奥に、鍵のかかった扉があった。
この錠は南京錠ではなかった。魔法錠だった。クラリッサの記憶が構造を読んだ。王国式ではなく帝国式の封印だった。100年前の型と近かった。
時間がかかった。4分ほどかかった。
扉が開いた。
中は小さな部屋だった。机が1つ。棚が1つ。棚に文書が並んでいた。整然と並んでいた。他の倉庫とは管理の質が違った。
クラリスは棚を確認した。文書を1枚取った。読んだ。
次の1枚を取った。
3枚目を手に取った時、手が止まった。
「魔力ゼロの者が力を持つ時、この世界の秩序は終わる」
書いてあった。
その一行の前後に、長い記述があった。組織の設立の経緯。最初の粛清の記録。帝国の内部に根を張るための手順。それらが淡々と書かれた文書の中で、その一行だけが、他とは違う筆致だった。
命令ではなかった。確信だった。
クラリスは文書を読み続けた。
粛清の対象として記録された名前の一覧があった。
その中に、ヴァルシュタイン侯爵家の名前があった。
粛清の理由として書かれていたのは短い言葉だった。「魔力外の力の証明を試みた者」。謀反でも反逆でもなかった。それだけだった。
クラリスは、その行を1度だけ読んだ。
もう1度は読まなかった。
「100年、続けてきたのですね」
声に出た。文書を見たままだった。
「それだけの時間をかけても、世界は変わりませんでしたか」
問いかけではなかった。
文書を持っていくことにした。棚から複数枚を選んだ。
扉を出た。廊下を引き返した。途中で一度、ローブの人間と10メートルほどの距離になった。相手が気づく前に角を曲がった。
裏手の扉から外に出た。
リードが木立の中で待っていた。
夕方になっていた。空が赤く染まっていた。丘の上の修道院は、さっきと同じ煙を出していた。
クラリスはリードの前に立った。文書を持っていた。
リードが文書を見た。それから、クラリスを見た。
今朝、告発状を読んだ後と同じ顔だった。何かが固まっていく顔だった。
「これで、全部わかったんですか?」
「全部ではありません」
クラリスは空を見た。夕暮れの赤が、丘の輪郭を縁取っていた。
「ただ、残っているのは組織の頂点だけになりました」
リードが息を呑んだ。
木立に風が来た。夕暮れの中で、修道院の煙が細く続いていた。




