表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銃弾と祈りのシスター  作者: 猫じゃらし
第4章 次に目覚める者へ
29/38

第29話 父の全部

 王立文書館は、王都の北側にあった。


 石壁が厚かった。窓が少なかった。外から見ると要塞に近い印象を受けたが、内部に入ると天井が高く、縦に長い空間が奥まで続いていた。蝋燭の灯りがいくつも並んでいた。夜だった。昼に閲覧できる区画とは別に、許可を得た者だけが使える夜間の研究室があった。リードが手配した。


 部屋は小さかった。


 机が1つ。椅子が3つ。壁に沿って棚が並んでいたが、この部屋の棚は空だった。持ち込んだ資料だけを広げる場所だった。蝋燭が2本、机の両端に立っていた。


 クラリスはオスカーの研究資料を机の上に広げた。


 「セラ」


 セラが机の前に来た。緑の瞳が資料を見た。紙の表面に書かれた文字は、普通の目には読めない配置だった。


 「昨日と同じように、触れてみてください。ただ、今日は少し長く、手を置いていてもらえますか?」


 「どのくらい?」


 「分かったら、教えます」


 セラは頷いた。右手を伸ばした。


 指先が紙に触れた。



 最初は、昨日と同じだった。


 数秒、何も起きなかった。


 それから、光が来た。昨日より遅かった。一瞬で現れて消えた昨日と違い、今日はゆっくりと浮き上がった。セラの右手の甲に、文字に近い紋様が滲んだ。螺旋ではなく、今日は直線の組み合わせだった。角ばった文字が縦に並んだ。


 同時に、資料の紙の表面が変わった。


 重なっていた層が剥がれるように、別の文字が下から浮いてきた。読める文字だった。しかし安定しなかった。浮き上がっては揺れ、揺れては沈んだ。全部が同時に読めるわけではなかった。


 セラがわずかに息を吸った。


 「なんか、ここが」


 セラが胸の辺りを示した。


 「暖かい、です」


 「手を離さないでください」


 「はい」


 クラリスは資料の表面を追った。



 断片だった。


 浮き上がる文字が、すぐに揺れた。読めた部分から手早く読み取った。


 魂の性質、という言葉が見えた。


 魔力量とは独立して、という言葉が続いた。


 次の行が滲んだ。読めなかった。


 別の塊が浮いた。固有の力が潜在的に、という部分だった。その続きが揺れて消えた。


 クラリスの手が止まった。


 資料の表面に、父の文字があった。見慣れた筆致だった。クラリッサとして生きていた頃、父の書き物を何度も見ていた。あの書き方だった。


 揺れた。


 消えかけた。


 もう1行だけ読めた。


 協力者の血統が持つ固有の性質は——


 そこで途切れた。


 続きが来なかった。


 クラリッサの記憶が、音もなく動いた。



 100年前の書斎だった。


 父の横顔だった。机の上に広げられた紙。窓から光が入っていた。父は資料を読んでいた。クラリッサが入ってきても、最初は振り返らなかった。


 あの紙に、何が書いてあったか。


 クラリッサは知らなかった。父が見せなかった。穏やかに、しかし確かに、その部分だけを遠ざけていた。


 今、その続きが目の前にある。


 途切れたまま、ある。


 父はここまで書いていた。


 書いていたが、娘には見せなかった。


 答えが来るまで、長くかからなかった。


 「父は、わたくしを守っていたのですね」


 声が出た。


 声に出すつもりではなかった。出た。一人称が「わたくし」になっていた。気づいた時には、言葉はもう部屋の空気に溶けていた。


 少し、間があった。


 「……知っていました」


 今度は「私」だった。


 「でも、こんなにも、とは」


 蝋燭の炎が揺れた。




 セラが手を離した、と気づいたのは、少しして後だった。


 気づくと資料の文字は元の配置に戻っていた。セラが椅子に座っていた。


 クラリスは動かなかった。


 動けない、という感覚ではなかった。動く必要がなかった。懐中時計が胸元にあった。シスター服の上から両手で押さえていた。押さえたまま、動かなかった。


 クラリッサの感情と、クラリスの感情が、同じ場所にあった。


 100年前に処刑台で終わった17歳の娘の感情と、今この部屋に座っている21歳のシスターの感情が、初めて完全に重なった。重なったまま、どちらかが勝つことなく、ただそこにあった。


 表情には何も出なかった。


 「クラリス様」


 セラの声がした。


 「泣いているのですか?」


 クラリスは答えなかった。



 しばらくして、首を横に振った。


 セラは何も言わなかった。椅子を引く音がした。隣の椅子だった。セラが座った。クラリスの隣に、ただ座った。


 それ以上は何もなかった。


 蝋燭の炎が、また揺れた。




 夜が深くなった。


 クラリスはまだ動かなかった。懐中時計を胸元に押し当てたまま、同じ場所に座っていた。蝋燭が短くなっていた。1本は消えかけていた。


 隣を見た。


 セラが眠っていた。椅子の上で、少し前傾みになって、眠っていた。亜麻色の髪が顔にかかっていた。呼吸が静かだった。


 クラリスは立った。棚のそばに畳んであった布を取った。セラの肩にかけた。


 それから、椅子に戻った。


 懐中時計を取り出した。


 親指で蓋を押した。開いた。


 蝋燭の光が時計の内側に入った。紋章があった。ヴァルシュタイン侯爵家の鷹と盾だった。その下に、魔法文字があった。螺旋状に刻まれた小さな文字だった。


 読み始めた。


 これまで、全部は読めなかった。旅の途中で少しずつ読めるようになった部分が増えた。それでも最後まで通して読めたことはなかった。


 今夜は、違った。


 「次に目覚める者へ。」


 「父の研究は正しかった。」


 「この世界はまだ変われる。」


 「どうか、続きを」


 全部、読めた。


 今度は、全部読めた。


 蝋燭の炎が小さく揺れた。クラリスは蓋を閉じた。閉じた時計を、胸元に戻した。戻してから、両手をひざの上に置いた。


 セラの呼吸が聞こえた。


 夜が静かだった。


 続きを、します。


 声には出なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ