第29話 父の全部
王立文書館は、王都の北側にあった。
石壁が厚かった。窓が少なかった。外から見ると要塞に近い印象を受けたが、内部に入ると天井が高く、縦に長い空間が奥まで続いていた。蝋燭の灯りがいくつも並んでいた。夜だった。昼に閲覧できる区画とは別に、許可を得た者だけが使える夜間の研究室があった。リードが手配した。
部屋は小さかった。
机が1つ。椅子が3つ。壁に沿って棚が並んでいたが、この部屋の棚は空だった。持ち込んだ資料だけを広げる場所だった。蝋燭が2本、机の両端に立っていた。
クラリスはオスカーの研究資料を机の上に広げた。
「セラ」
セラが机の前に来た。緑の瞳が資料を見た。紙の表面に書かれた文字は、普通の目には読めない配置だった。
「昨日と同じように、触れてみてください。ただ、今日は少し長く、手を置いていてもらえますか?」
「どのくらい?」
「分かったら、教えます」
セラは頷いた。右手を伸ばした。
指先が紙に触れた。
最初は、昨日と同じだった。
数秒、何も起きなかった。
それから、光が来た。昨日より遅かった。一瞬で現れて消えた昨日と違い、今日はゆっくりと浮き上がった。セラの右手の甲に、文字に近い紋様が滲んだ。螺旋ではなく、今日は直線の組み合わせだった。角ばった文字が縦に並んだ。
同時に、資料の紙の表面が変わった。
重なっていた層が剥がれるように、別の文字が下から浮いてきた。読める文字だった。しかし安定しなかった。浮き上がっては揺れ、揺れては沈んだ。全部が同時に読めるわけではなかった。
セラがわずかに息を吸った。
「なんか、ここが」
セラが胸の辺りを示した。
「暖かい、です」
「手を離さないでください」
「はい」
クラリスは資料の表面を追った。
断片だった。
浮き上がる文字が、すぐに揺れた。読めた部分から手早く読み取った。
魂の性質、という言葉が見えた。
魔力量とは独立して、という言葉が続いた。
次の行が滲んだ。読めなかった。
別の塊が浮いた。固有の力が潜在的に、という部分だった。その続きが揺れて消えた。
クラリスの手が止まった。
資料の表面に、父の文字があった。見慣れた筆致だった。クラリッサとして生きていた頃、父の書き物を何度も見ていた。あの書き方だった。
揺れた。
消えかけた。
もう1行だけ読めた。
協力者の血統が持つ固有の性質は——
そこで途切れた。
続きが来なかった。
クラリッサの記憶が、音もなく動いた。
100年前の書斎だった。
父の横顔だった。机の上に広げられた紙。窓から光が入っていた。父は資料を読んでいた。クラリッサが入ってきても、最初は振り返らなかった。
あの紙に、何が書いてあったか。
クラリッサは知らなかった。父が見せなかった。穏やかに、しかし確かに、その部分だけを遠ざけていた。
今、その続きが目の前にある。
途切れたまま、ある。
父はここまで書いていた。
書いていたが、娘には見せなかった。
答えが来るまで、長くかからなかった。
「父は、わたくしを守っていたのですね」
声が出た。
声に出すつもりではなかった。出た。一人称が「わたくし」になっていた。気づいた時には、言葉はもう部屋の空気に溶けていた。
少し、間があった。
「……知っていました」
今度は「私」だった。
「でも、こんなにも、とは」
蝋燭の炎が揺れた。
セラが手を離した、と気づいたのは、少しして後だった。
気づくと資料の文字は元の配置に戻っていた。セラが椅子に座っていた。
クラリスは動かなかった。
動けない、という感覚ではなかった。動く必要がなかった。懐中時計が胸元にあった。シスター服の上から両手で押さえていた。押さえたまま、動かなかった。
クラリッサの感情と、クラリスの感情が、同じ場所にあった。
100年前に処刑台で終わった17歳の娘の感情と、今この部屋に座っている21歳のシスターの感情が、初めて完全に重なった。重なったまま、どちらかが勝つことなく、ただそこにあった。
表情には何も出なかった。
「クラリス様」
セラの声がした。
「泣いているのですか?」
クラリスは答えなかった。
しばらくして、首を横に振った。
セラは何も言わなかった。椅子を引く音がした。隣の椅子だった。セラが座った。クラリスの隣に、ただ座った。
それ以上は何もなかった。
蝋燭の炎が、また揺れた。
夜が深くなった。
クラリスはまだ動かなかった。懐中時計を胸元に押し当てたまま、同じ場所に座っていた。蝋燭が短くなっていた。1本は消えかけていた。
隣を見た。
セラが眠っていた。椅子の上で、少し前傾みになって、眠っていた。亜麻色の髪が顔にかかっていた。呼吸が静かだった。
クラリスは立った。棚のそばに畳んであった布を取った。セラの肩にかけた。
それから、椅子に戻った。
懐中時計を取り出した。
親指で蓋を押した。開いた。
蝋燭の光が時計の内側に入った。紋章があった。ヴァルシュタイン侯爵家の鷹と盾だった。その下に、魔法文字があった。螺旋状に刻まれた小さな文字だった。
読み始めた。
これまで、全部は読めなかった。旅の途中で少しずつ読めるようになった部分が増えた。それでも最後まで通して読めたことはなかった。
今夜は、違った。
「次に目覚める者へ。」
「父の研究は正しかった。」
「この世界はまだ変われる。」
「どうか、続きを」
全部、読めた。
今度は、全部読めた。
蝋燭の炎が小さく揺れた。クラリスは蓋を閉じた。閉じた時計を、胸元に戻した。戻してから、両手をひざの上に置いた。
セラの呼吸が聞こえた。
夜が静かだった。
続きを、します。
声には出なかった。




