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銃弾と祈りのシスター  作者: 猫じゃらし
第4章 次に目覚める者へ
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第28話 王都の鍵

 王都は、思っていたより静かだった。


 帝都の喧騒とは種類が違った。帝都は魔法の光塔が至る所に立っていて、夜でも街が白く浮かんでいた。魔素の濃度が高いため、空気そのものに微細な張りがあった。魔法使いたちが各自の魔素を垂れ流しながら歩いているせいで、街全体がつねに低く鳴っているような感覚があった。


 ここにはそれがなかった。


 石造りの建物が並んでいた。塔はあったが、光塔ではなく時計塔だった。通りを歩く人間の中に、制服の騎士もいれば、荷車を引く老人もいた。露店で布を広げる女がいた。子供が走っていた。魔素の反応がほとんどない。それが当たり前のことのように、誰も気にしていなかった。


 クラリッサの記憶が、静かに動いた。


 ——こういう場所を、見たかった。


 言葉ではなかった。感情でもなかった。強いて言うなら、記憶の中に残った痕跡だった。100年前に侯爵令嬢として生きていた頃、魔力ゼロの令嬢がどれほど「格外」とされたか。その時の記憶が、この通りの景色に触れた瞬間、ほんのわずかに揺れた。揺れて、沈んだ。


 クラリスは前を向いた。


 「宿は、手配してあります」


 リードが横で言った。


 「学者との面会は、明日の昼にしました」


 「ありがとうございます」


 セラがクラリスの隣を歩いていた。王都の通りをきょろきょろと見ていた。帝都でも同じことをしていたが、眺め方が少し違った。帝都では、どこか首をすくめるようにしていた。ここでは、まっすぐ見ていた。




 翌日の昼前に、リードが宿に迎えに来た。


 学者は王都の西側に屋敷を構えていた。現役の研究者ではなく、退いた後も王国の諮問に応じる立場にある老人だと、リードから聞いていた。名前はオーウェン。70代の後半と聞いていたが、実際に会うと、もう少し老けて見えた。


 屋敷の書斎に通された。


 床から天井まで本棚が並んでいた。窓が高い位置にあり、昼の光が斜めに入っていた。机の上に書類が積んであった。積み方に規則性がなかった。働いている机だった。


 「座りなさい」


 老人は言った。椅子を示した。クラリスが座った。セラはクラリスの少し後ろで立っていた。リードは入口近くで待った。


 「資料を見せてもらいたい」


 老人は前置きなしに言った。


 クラリスはシスター服の内側から、折りたたんだ布に包まれた紙の束を取り出した。オスカー・フォン・ヴァルシュタインの研究資料の一部だった。旅の途中で少しづつ集めてきたものを、今この場に持参していた。


 老人が受け取った。広げた。


 目を細めた。


 「……ほう」


 それだけ言って、読み始めた。長い時間がかかった。クラリスは待った。セラも動かなかった。リードが一度だけ小さく咳をした。それ以外に音がなかった。


 老人が顔を上げたのは、相当時間が経ってからだった。


 「どこで手に入れた?」


 「旅の途中で、少しずつ」


 「帝国のものか」


 「元は帝国の侯爵家の資料です」


 老人が資料と、クラリスを交互に見た。


 「100年前の暗号だ」


 断定だった。


 「2つの鍵を組み合わせることで初めて解読できる設計だ。片方だけでは読めない」


 「2つの鍵、というのは?」


 「1つは持っている者の血統。もう1つは——」


 老人は少し止まった。


 「もう1つは、まだ分からない」


 クラリスは少しの間、考えた。


 旅の途中でセラが資料に近づいた時のことが、記憶の端に引っかかっていた。懐中時計の紋章を見た時に何かを感じると言っていたセラの反応。それがここで繋がるかどうか、まだ根拠はなかった。根拠がないまま、試みる価値はあると判断した。


 「セラ」


 クラリスは後ろを向いた。


 「少し、手を貸していただけますか?」


 セラが前に出た。




 老人に断って、セラを机の前に立たせた。


 研究資料の一枚を、広げた状態でセラの前に置いた。


 「この紙に、手で触れてみてください」


 「……さわっても、いいんですか?」


 「はい」


 セラが右手を伸ばした。


 指先が紙の表面に触れた。


 何も起きなかった。


 数秒が過ぎた。


 クラリスはセラの手を見ていた。老人も同じところを見ていた。


 もう少し待った。


 その時だった。


 セラの右手の甲に、光が滲んだ。光というより、うっすらと浮き出た痕だった。文字のような、紋様のような、どちらでもあるような輪郭が、皮膚の表面に薄く現れた。螺旋が混じっていた。角のある線が走っていた。見たことのない文字だった。


 一瞬だった。


 消えた。


 セラが紙から手を離した。「なんか、温かい感じがした」とセラが言った。自分の手の甲を見たが、何も見えていない様子だった。


 老人が声を出した。


 音にならなかった。口が開いていたが、声が来なかった。老人の手が机の端を掴んでいた。白くなるほど力が入っていた。




 老人が落ち着くまで、少し時間がかかった。


 水を持ってくるようにリードに頼んだ。リードが立ち上がった。クラリスはセラに目を向けた。


 「セラ、一緒に行ってもらえますか。中庭に水場があると聞いています」


 セラがリードと一緒に扉を出た。扉が閉まった。


 書斎に老人とクラリスの2人だけになった。


 老人はまだ手を震わせていた。水を受け取る前から、何かを見ている目だった。目の前のクラリスを見ているのではなかった。もっと遠いものを見ていた。


 「見たのは初めてだ」


 老人が、絞り出すように言った。


 「話には聞いていた。研究の記録にも書いてあった。だが、実際に出るとは」


 少しの間があった。


 「何が起きたのか、分かりますか?」


 「資料が反応した。あの子の血統に」


 老人がリードとセラが出ていった扉を見た。見てから、クラリスに戻した。


 「あの子が、鍵だ」


 静かな言い方だった。


 書斎の中に、その言葉だけが残った。説明は来なかった。老人はそれ以上何も言わなかった。言葉の続きが来るより前に、老人の目がまた遠くへ向いた。


 記録の中の言葉と、今目の前で起きたことが、老人の中で繋がっていた。繋がった先に何があるか、クラリスには見えなかった。ただ、老人がその重さを受け取りきれていないことは、手の震えが示していた。


 「当人には、まだ伝えていません」


 クラリスは静かに言った。


 「そうか」


 「今は、まだ待ちたいと思っています」


 老人は頷かなかった。ただ、反論もしなかった。


 扉が開いた。リードとセラが戻ってきた。老人は水を受け取って、一口飲んだ。




 屋敷を出た。


 夕方になっていた。空が橙に染まり始めていた。3人で来た道を戻った。セラは自分の右手を時折見ていた。


 クラリスはセラの隣を歩いた。


 歩きながら、何も言わなかった。


 砂利道が続いた。リードが後ろを歩いた。


 宿の明かりが見え始めた頃、セラが自分の手を最後にもう一度見て、それから前を向いた。


 「なんか」


 セラが言った。


 「懐かしいみたいな感じがしました」


 自分の手を見ながら言った言葉だった。


 クラリスは何も言わなかった。


 胸元に触れた。取り出さなかった。懐中時計が布越しにそこにあった。




 セラが部屋で眠ってから、クラリスは窓の前に座った。


 王都の夜は静かだった。帝都のように夜通し光塔が照らすことがなかった。街の輪郭が暗く沈んでいた。明かりはあちこちに散っていたが、帝都のような均一な光ではなかった。


 「大丈夫ですか?」


 寝る前に、セラがクラリスに聞いた。


 「はい。大丈夫です」


 「なんか、クラリス様がいつもと違う感じがして」


 「そうですか」


 「ごめんなさい、変なこと言って」


 「変なことではありません」


 それだけ言った。セラはもう一度「おやすみなさい」と言って、布を被った。


 今、セラは眠っていた。


 クラリスは暗い街を見ていた。


 ——懐かしいみたいな感じ。


 セラの言葉が、頭の中で動いていた。


 100年前のオスカーが残したものが、100年後にセラの手の甲に現れた。セラの家系が代々それを知らずに持ち続けていた。そしてセラは「懐かしい」と言った。


 クラリスは懐中時計を取り出さなかった。


 窓の外で、風が動いた。


 胸元の懐中時計が、重かった。

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