第28話 王都の鍵
王都は、思っていたより静かだった。
帝都の喧騒とは種類が違った。帝都は魔法の光塔が至る所に立っていて、夜でも街が白く浮かんでいた。魔素の濃度が高いため、空気そのものに微細な張りがあった。魔法使いたちが各自の魔素を垂れ流しながら歩いているせいで、街全体がつねに低く鳴っているような感覚があった。
ここにはそれがなかった。
石造りの建物が並んでいた。塔はあったが、光塔ではなく時計塔だった。通りを歩く人間の中に、制服の騎士もいれば、荷車を引く老人もいた。露店で布を広げる女がいた。子供が走っていた。魔素の反応がほとんどない。それが当たり前のことのように、誰も気にしていなかった。
クラリッサの記憶が、静かに動いた。
——こういう場所を、見たかった。
言葉ではなかった。感情でもなかった。強いて言うなら、記憶の中に残った痕跡だった。100年前に侯爵令嬢として生きていた頃、魔力ゼロの令嬢がどれほど「格外」とされたか。その時の記憶が、この通りの景色に触れた瞬間、ほんのわずかに揺れた。揺れて、沈んだ。
クラリスは前を向いた。
「宿は、手配してあります」
リードが横で言った。
「学者との面会は、明日の昼にしました」
「ありがとうございます」
セラがクラリスの隣を歩いていた。王都の通りをきょろきょろと見ていた。帝都でも同じことをしていたが、眺め方が少し違った。帝都では、どこか首をすくめるようにしていた。ここでは、まっすぐ見ていた。
翌日の昼前に、リードが宿に迎えに来た。
学者は王都の西側に屋敷を構えていた。現役の研究者ではなく、退いた後も王国の諮問に応じる立場にある老人だと、リードから聞いていた。名前はオーウェン。70代の後半と聞いていたが、実際に会うと、もう少し老けて見えた。
屋敷の書斎に通された。
床から天井まで本棚が並んでいた。窓が高い位置にあり、昼の光が斜めに入っていた。机の上に書類が積んであった。積み方に規則性がなかった。働いている机だった。
「座りなさい」
老人は言った。椅子を示した。クラリスが座った。セラはクラリスの少し後ろで立っていた。リードは入口近くで待った。
「資料を見せてもらいたい」
老人は前置きなしに言った。
クラリスはシスター服の内側から、折りたたんだ布に包まれた紙の束を取り出した。オスカー・フォン・ヴァルシュタインの研究資料の一部だった。旅の途中で少しづつ集めてきたものを、今この場に持参していた。
老人が受け取った。広げた。
目を細めた。
「……ほう」
それだけ言って、読み始めた。長い時間がかかった。クラリスは待った。セラも動かなかった。リードが一度だけ小さく咳をした。それ以外に音がなかった。
老人が顔を上げたのは、相当時間が経ってからだった。
「どこで手に入れた?」
「旅の途中で、少しずつ」
「帝国のものか」
「元は帝国の侯爵家の資料です」
老人が資料と、クラリスを交互に見た。
「100年前の暗号だ」
断定だった。
「2つの鍵を組み合わせることで初めて解読できる設計だ。片方だけでは読めない」
「2つの鍵、というのは?」
「1つは持っている者の血統。もう1つは——」
老人は少し止まった。
「もう1つは、まだ分からない」
クラリスは少しの間、考えた。
旅の途中でセラが資料に近づいた時のことが、記憶の端に引っかかっていた。懐中時計の紋章を見た時に何かを感じると言っていたセラの反応。それがここで繋がるかどうか、まだ根拠はなかった。根拠がないまま、試みる価値はあると判断した。
「セラ」
クラリスは後ろを向いた。
「少し、手を貸していただけますか?」
セラが前に出た。
老人に断って、セラを机の前に立たせた。
研究資料の一枚を、広げた状態でセラの前に置いた。
「この紙に、手で触れてみてください」
「……さわっても、いいんですか?」
「はい」
セラが右手を伸ばした。
指先が紙の表面に触れた。
何も起きなかった。
数秒が過ぎた。
クラリスはセラの手を見ていた。老人も同じところを見ていた。
もう少し待った。
その時だった。
セラの右手の甲に、光が滲んだ。光というより、うっすらと浮き出た痕だった。文字のような、紋様のような、どちらでもあるような輪郭が、皮膚の表面に薄く現れた。螺旋が混じっていた。角のある線が走っていた。見たことのない文字だった。
一瞬だった。
消えた。
セラが紙から手を離した。「なんか、温かい感じがした」とセラが言った。自分の手の甲を見たが、何も見えていない様子だった。
老人が声を出した。
音にならなかった。口が開いていたが、声が来なかった。老人の手が机の端を掴んでいた。白くなるほど力が入っていた。
老人が落ち着くまで、少し時間がかかった。
水を持ってくるようにリードに頼んだ。リードが立ち上がった。クラリスはセラに目を向けた。
「セラ、一緒に行ってもらえますか。中庭に水場があると聞いています」
セラがリードと一緒に扉を出た。扉が閉まった。
書斎に老人とクラリスの2人だけになった。
老人はまだ手を震わせていた。水を受け取る前から、何かを見ている目だった。目の前のクラリスを見ているのではなかった。もっと遠いものを見ていた。
「見たのは初めてだ」
老人が、絞り出すように言った。
「話には聞いていた。研究の記録にも書いてあった。だが、実際に出るとは」
少しの間があった。
「何が起きたのか、分かりますか?」
「資料が反応した。あの子の血統に」
老人がリードとセラが出ていった扉を見た。見てから、クラリスに戻した。
「あの子が、鍵だ」
静かな言い方だった。
書斎の中に、その言葉だけが残った。説明は来なかった。老人はそれ以上何も言わなかった。言葉の続きが来るより前に、老人の目がまた遠くへ向いた。
記録の中の言葉と、今目の前で起きたことが、老人の中で繋がっていた。繋がった先に何があるか、クラリスには見えなかった。ただ、老人がその重さを受け取りきれていないことは、手の震えが示していた。
「当人には、まだ伝えていません」
クラリスは静かに言った。
「そうか」
「今は、まだ待ちたいと思っています」
老人は頷かなかった。ただ、反論もしなかった。
扉が開いた。リードとセラが戻ってきた。老人は水を受け取って、一口飲んだ。
屋敷を出た。
夕方になっていた。空が橙に染まり始めていた。3人で来た道を戻った。セラは自分の右手を時折見ていた。
クラリスはセラの隣を歩いた。
歩きながら、何も言わなかった。
砂利道が続いた。リードが後ろを歩いた。
宿の明かりが見え始めた頃、セラが自分の手を最後にもう一度見て、それから前を向いた。
「なんか」
セラが言った。
「懐かしいみたいな感じがしました」
自分の手を見ながら言った言葉だった。
クラリスは何も言わなかった。
胸元に触れた。取り出さなかった。懐中時計が布越しにそこにあった。
セラが部屋で眠ってから、クラリスは窓の前に座った。
王都の夜は静かだった。帝都のように夜通し光塔が照らすことがなかった。街の輪郭が暗く沈んでいた。明かりはあちこちに散っていたが、帝都のような均一な光ではなかった。
「大丈夫ですか?」
寝る前に、セラがクラリスに聞いた。
「はい。大丈夫です」
「なんか、クラリス様がいつもと違う感じがして」
「そうですか」
「ごめんなさい、変なこと言って」
「変なことではありません」
それだけ言った。セラはもう一度「おやすみなさい」と言って、布を被った。
今、セラは眠っていた。
クラリスは暗い街を見ていた。
——懐かしいみたいな感じ。
セラの言葉が、頭の中で動いていた。
100年前のオスカーが残したものが、100年後にセラの手の甲に現れた。セラの家系が代々それを知らずに持ち続けていた。そしてセラは「懐かしい」と言った。
クラリスは懐中時計を取り出さなかった。
窓の外で、風が動いた。
胸元の懐中時計が、重かった。




